第四十六話:狂牙終焉
第四十六話:狂牙終焉
三方ヶ原の乾いた赤土を吹き抜ける冬の木枯らしが、夥しい数の骸から立ち上る濃密な血の香りを、遠く浜松の街へと運んでいく。
徳川家康は、鞍にすがりつくようにして愛馬を走らせていた。つい先刻まで己の周囲を強固に固めていたはずの数多の忠臣たちは、赤備えの圧倒的な突撃の前に為す術もなく散り散りとなり、今はただ数人の近習が死に物狂いで馬の尻を叩いている。背後から夜風に乗って迫りくる武田軍の勝ち鬨は、家康の耳にはもはや人間の声とは聞こえず、巨大な岩石が転がりながら大地を削り取り、あらゆる命を押し潰していく死の音のように響いていた。
(……信玄ではないぞ。あの陣の裏側に、やはり何か別の化け物が潜んでいる)
家康の全身を支配しているのは、野戦で打ち砕かれた敗北の屈辱以上に、自らの思考が端から読まれているということへの根源的な恐怖である。服部半蔵が命懸けで持ち帰った「武田にはこちらの思考そのものを掌握している者がいる」という言葉が、結局、今この瞬間に残酷な現実となって家康の首筋を冷たく撫でているのだ。
信玄の振るった魚鱗の陣の冴えは、確かに比類なきものであった。しかし、戦が始まる前から家臣団の結束を不信の毒で腐らせ、互いに背中を預けられぬ状態に陥れた上で、自分をこの逃げ場のなき死地へと強引に誘い出したのは、間違いなく信玄の武威ではない。
「何者なのだ……。信玄の後継者となるその男は、一体、上空のどこからこの日ノ本を見下ろしておるのだ」
深い闇へと逃げ込む家康の瞳の奥に焼き付いているのは、信玄という巨星ではなく、得体の知れない冷徹な気配であった。自らの命運すらも、盤上の石のように冷酷に弾き出されているという絶望が、家康の魂を暗く覆っていた。
一方、勝利の歓喜に激しく震える武田の本陣。
武田信玄は、床几に座したまま、肺の奥からこみ上げる生臭い鉄の味を強引に飲み下した。視界は時折、煤けたように暗転したが、眼下に広がる大勝の景色が、彼の大将としての魂に最後の熱き火を灯していた。
(……わしの生涯で、これほどまで一分の隙もなき完璧な勝利があっただろうか)
信玄の胸中には、盤石なる充実感があった。四郎が兵糧の欠乏という最大の不備を消し去って用意したこの完全な舞台の上で、武田の武勇はかつてないほどの結果を叩き出したのだ。
だが、その誇りのすぐ裏側で、信玄の心には冷たい不安が重く溜まっていた。
彼は、敵の血に塗れた太刀を高く掲げて猛虎のように吠える山県昌景や、即座に陣形を整え直して冷徹な戦後処理を始めている馬場信春らの姿を、鋭く、そして哀しげな眼差しで見つめていた。
(昌景、信春よ。……この華々しい勝利で、そなたらの腹の底で煮えくり返っていた屈辱や不満は、真に浄化されたのか)
宿老たちは泥濘の中で立ち往生した際、勝頼から施しを受けるように兵糧を供出され、武人としての誇りをへし折られていた。この三方ヶ原での凄まじい活躍は、その激しい屈辱を戦功で購い、武士としての価値をどうにか証明しようとする、悲壮なまでの意地の表出である。
信玄は、この大勝が、勝頼の進める異質で冷酷な変革への反発を抑え込む救いとなるのか、あるいは逆に、個人の武勇ではどうにもならぬ理の格差をまざまざと突きつけられたことによる、さらなる深い絶望を招くのかを、武田の君主としての苦悩を以て案じていた。
その信玄の視線を遠く背中で感じながら、勝頼は本隊の喧騒から完全に離れ、三方ヶ原の北方に広がる深い森の深奥を静かに見据えていた。
彼の内面には、徳川を打ち破った勝利の昂揚など微塵も存在しない。彼にとって、この戦場での大勝は、父を歴史上で最高の大将であったと後世に示し、武勇という名の旧き時代の幕を引き、新たな武田として出発するための、ただの通過儀礼に過ぎないのだ。
(父上。……あなたが誇りとした武勇の時代は、今、この瞬間の最高の輝きを以て終焉となります。これからは、あなたが頼りとしたものが排除される、冷徹な国づくりが始まります。どうか、お恨みなさいますな)
勝頼は、手にした軍扇の柄を確かな力で握りしめた。
彼の視線の先、暗い森の中に陣を敷いているのは、織田信長が家康への援軍として送り込んだ佐久間信盛ら三千の兵である。
彼らは徳川軍と共に前線で槍を交えることはなく、戦局が不利と見るや早々に後方へと退き、森の奥で気配を消していた。武田が勝利に酔いしれ、陣を乱した隙を突いて背後から襲いかかるか、あるいは戦機あらずと見て無傷のまま尾張へと撤退するか。退き戦に長けた佐久間の狡猾な算段が、勝頼には手に取るように読めていた。
過去の勝頼であれば、逃げる敵を深追いせず、本隊の大勝を祝う席に加わっていたであろう。しかし、今の彼にとって、この無傷の三千という存在は、ただ見逃してよい敵の敗残兵ではない。
この戦いにおいて、彼らをどう処理するか。それこそが、情と武勇に頼る日ノ本の戦の在り方を根本から否定し、自らの思い描く常備軍の力を証明するための、最初の体現となる重要な戦いであると認識した。
「昌幸。戦の趨勢を見極めようなどという小賢しい真似をする織田の鼠どもに、絶望という名の引導を渡してやるぞ」
勝頼の低く静かな声は、背後に控える真田源太左衛門尉昌幸の鼓膜を、狂気的な歓喜の震動と共に揺らした。
「御意に……。勝頼様の思いのままに。新たなる理を以て、焼き払ってご覧に入れましょう」
勝頼はゆっくりと右手を挙げ、陣太鼓を叩く跡部勝資へと合図を送った。
どん、どん、と短く鋭い音が二度響く。
それを合図に、勝頼が手塩にかけて調練を重ねてきた一千の別働隊が、音もなく静かなる前進を開始した。
遠くで本隊の宿老たちが勝利の勝ち鬨に酔いしれ、名誉の浄化を求めて徳川の敗残兵の追撃に走る傍らで、勝頼の軍勢だけは、一寸の乱れもない機械的な律動を保ったまま、佐久間信盛の潜む紫紺の闇へと滑り込むように消えていく。
そこには、鬨の声を上げ、大将の首を狙って一番槍を競うという、日ノ本の武家社会が共有してきた戦の風景はもはやなかった。
無言の静寂の中で冷徹に敵をすり潰し、ただ計算通りに死の処理を遂行する新しい時代の怪物が、その真の牙をむき出しにして進み始めたのである。




