表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
45/146

第四十五話:宿老絶威

第四十五話:宿老絶威


 三方ヶ原の乾いた赤土が、数千の馬の蹄によって真っ黒な砂塵へと化し、冬の名残を孕む冷たい強風に舞い上がっていた。

 その分厚い土煙を鋭く切り裂き、戦場を真紅に染め上げて一気に突き進む巨大な一団があった。武田家最強の象徴である赤備えを率いる、山県昌景の精鋭三千である。


「押せッ。徳川の首を以て、武田の武を天に示せッ」

 昌景の裂帛の咆哮は、戦場の激しい喧騒を圧して響き渡った。

 彼が跨る黒毛の駿馬も、全身を覆う重厚な具足も、その手に固く握られた太刀の柄も、すべてが赤一色に統一されている。それは単なる軍装の色彩ではない。敵の胆を完全に潰し、味方の血を極限まで沸騰させるための、最高純度の狂熱の表出であった。


 先陣を切る昌景の瞳には、尋常ならざる凄絶なまでの執念が宿っていた。

 彼の脳裏には、数日前の屈辱が、決して消えることのない暗い火種として残り続けている。勝頼の用意した兵站の算段は確かに、飢えと疲弊に喘いでいた自分たちの命を救った。だが、昌景にとって、それは武人としての誇りを完膚なきまでに叩き潰される、死よりも辛い屈辱であった。

(……若殿に、今一度我らの武勇を見せつけねばならぬ。あの冷たい理屈に武田が完全に飼い慣らされる前に、我らの力を証明せねばならぬのだ。武田の良き伝統が、情の熱が、未だ死んではおらぬということをな)


 その行き場のない強烈な執念が、この日の赤備えの突撃をかつてないほどの鋭さへと変貌させていた。

 徳川家康が敷いた鶴翼の陣の先端、石川数正が率いる部隊が、赤い津波の最初の一撃を真正面から食らった。通常、騎馬隊の突撃は敵の分厚い槍衾によって勢いを削がれ、乱戦へと持ち込まれるものだ。しかし、この日の赤備えは違った。


「一騎で当たるな。三騎で一列を食いちぎれ」

 昌景の下知は、荒々しいながらも奇妙なほど理に適っていた。個々の武勇に溺れて突出するだけではなく、三騎が完全に一体となって敵の防御の一点に圧力を集中させる。それは、勝頼が教練で繰り返させたあの集団の理を、武勇を誇る宿老たちが自らの武という言語の中で無意識に再解釈し、昇華させた結果であった。

 一人が盾を弾き飛ばし、一人が槍を払い落とし、最後の一人が無防備な喉元を正確に突く。

 三河武士たちの頑強な防衛線が、まるで薄い紙細工のように無残に引き裂かれていく。数正の部隊は、わずか半刻と持ち堪えることができず、朱に染まった大地へと崩れ落ちていった。


 本陣の前方、右翼を受け持つ馬場信春もまた、老練なる指揮で徳川軍を容赦なく追い詰めていた。

 信春は馬上で采配を振りながら、勝頼がかつての軍議で語った「戦とは情報の接収である」という言葉の真意を、この血生臭い戦場で痛いほどに反芻していた。勝頼によって疑心暗鬼の極致に叩き落とされた徳川軍は、驚くほど連携が鈍い。隣の部隊が危機に陥って悲鳴を上げても、それが敵の巧妙な罠ではないか、あるいは身内の寝返りではないかと疑い、即座に援護へと動くことができないのだ。


(……勝頼様の工作の所為なのか。見えざる噂一つで、これほどまでに敵の魂を腐らせ、手足を重くさせることができるというのか)

 信春は、背筋を走る冷たい戦慄を、目の前の敵をすり潰すための勝利への確信へと無理やりに変換した。

「左右より挟み込め。逃げ道はあえて一つ残せ。そこへ誘い込み、一点で磨り潰すのだ」

 信春の部隊は、恐慌状態に陥って逃げ惑う敵兵を、狭い隘路へと的確に誘導していく。そこには、逃げ場を失った獲物を待ち構える、冷酷なまでの死の道程が完璧に完成されていた。


 武田の本陣では、武田信玄が床几にどっしりと座し、この歴史的な蹂躙劇を、静かな、しかし確かな法悦を以て見つめていた。

 肺の奥では燃えるような激痛が走り、時折、口の中に生臭い鉄の味が広がっていく。だが、それでも信玄の眼光は、全盛期の輝きを遥かに凌駕するほどに澄み渡っていた。

 今の彼には、大将としての采配を濁らせる一切の迷いがなかった。

 兵糧は満ち、兵の気力は頂点に達し、敵の情報は完全に透徹している。そして何より、戦線から後退し、油断や隙を見ながら急襲を狙っているかもしれない織田の兵への警戒は、後方の森に消えた四郎が、完全に引き受けてくれているはずだ。

 信玄は、己の人生の最期において、初めて本当の意味で「一切の不確定要素のない戦場」という、最高級の贅沢を享受していたのである。


(……四郎よ。そなたが敷き詰めた盤面の上で、わしの武がこれほどまでに自由になり、輝くことができるとはな)

 信玄は再び軍配をゆっくりと、しかし絶対的な重みを以て前方へと振り下ろした。

「全軍、突撃せよ。徳川家康の首をわしの前に持ってこい」


 その地を這うような号令と共に、二万を超える武田軍の全圧力が、崩壊寸前の徳川軍へと一気に注ぎ込まれた。

 家康の本陣を守る最後の壁、鳥居元忠や平岩親吉らの部隊が、燃え盛る赤い津波に完全に飲み込まれていく。家康は自らの軍勢が、武田という巨大な機構によってただ無慈悲に消滅していく様を目の当たりにし、ついに屈辱の敗走を決意せざるを得なかった。


「退け……ッ。浜松城へ退け」

 家康の血を吐くような悲痛な叫びが、三方ヶ原の空に虚しく響き渡った。

 勝利を完全に確信した武田の本隊は、地鳴りのような勝ち鬨を上げ、我先にと敗軍の背中を追って駆け出した。山県昌景は、敵の血に塗れた太刀を高く掲げ、傾きかけた夕陽に向かって猛虎のごとく吠えた。彼らの武威は、今日、間違いなく最高の結果を出したのだった。


 しかし、その華々しくも凄惨な大立ち回りの裏側、台地の北方に広がる深い森の奥で、もう一つの全く異なる性質の戦いが始まろうとしていることに、熱狂する宿老たちは誰一人として気付いていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ