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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第四十四話:猛虎絶唱

第四十四話:猛虎絶唱


 三方ヶ原の乾いた赤土を、二万を超える武田軍の重い足音が地鳴りのように震わせていた。

 本陣の床几に深く腰を下ろした武田信玄の視界は、時折、燃えるような緋色に染まっては不気味に暗転しかけていた。肺の奥から容赦なくせり上がってくる熱く生臭い鉄の匂いを、彼は大将としての鋼の意志で喉の奥へと強引に押し戻す。


 信玄は、自らの命の刻限が間もなく尽きることを誰よりも正確に悟っていた。だが、その双眸には死の恐怖など微塵もなく、眼下に広がる広大な死地を見据える眼光は、まさに獲物の喉笛に牙を突き立てんとする甲斐の虎そのものの凄絶な輝きを放っていた。


 本隊から少し離れた高台で、一千の別働隊を率いる勝頼は、父が敷いた魚鱗の陣の威容を、冷徹な瞳で見下ろしていた。

 三角形の鋭い切っ先を敵陣の中央へと真っ直ぐに突きつける魚鱗の陣。それは全戦力を一点に集中させ、敵の心臓部を一気呵成に貫き通す、純粋なる殺戮のために完成された恐るべき陣立てである。


(……父上の武威は、まさに鍛え抜かれた一本の名刀よ)

 勝頼は心の中で、眼下に展開する自軍の列を静かに解析していた。

 信玄の敷く陣には、軍学書に記された理屈や算段を遥かに超えた、将兵の魂の共鳴がある。床几に座す大将の一挙手一投足が、見えざる熱となって末端の足軽にまで波のように伝播し、二万の兵が一つの巨大な殺意の生き物となって脈動している。それは、軍という組織を感情を持たぬ絡繰りとしてのみ扱おうとする勝頼の思考とは全く対極にある、古き日ノ本の武が到達した最高純度の美しさであった。


 だが、その圧倒的な美しさは、勝頼が持つ一度目の生の記憶においては、兵糧の欠乏という致命的な不備によって煤け、ひどく濁ってしまっていたはずであった。あの時の三方ヶ原では、確かに勝利はしたものの、腹を空かせ、凍え、後方の不安に怯えながら振るう名刀は、その真価の半分も発揮することができなかったのだ。

 しかし、今は違う。

 勝頼の仕掛けた兵站の救済により、泥濘の地獄から這い上がった武田の本隊は、かつてないほどの凄まじい活力をその身に宿していた。胃の腑は満たされ、具足の泥は払われ、兵たちの瞳には一点の曇りもない。勝頼が過去の記憶にあった不備を先回りして消去したことで、信玄という名の天下の巨星は、その生涯の最終幕において、盤石の舞台を授けられたのである。


 そして本陣の前方、まさに魚鱗の切っ先に控える山県昌景や馬場信春ら宿老たちの背中からは、鬼気迫る悲壮なまでの気迫が立ち昇っていた。

 彼らは、自分たちが鼻で笑った勝頼の算段によって命を救われた。救われてしまったのだ。自分たちの力ではどうにもならなかった飢えを鮮やかに解決してのけた事実は、激しい屈辱であり、同時に決して返すことのできない底なしの恩義であった。


(若殿の施しにすがり、恵みを受けたままで終わってしまっては、武士として死んでも死にきれぬ)

 山県昌景は、赤備えの具足を荒々しく揺らし、己の太刀の柄をへし折れんばかりに握りしめていた。この身を焼くような屈辱を雪ぎ、大将と若殿に報いる道はただ一つ。信玄の指揮の下で、眼前の徳川の軍勢を完膚なきまでに蹂躙し、武田の武威が依然として天下無双の最強であることを、勝頼という次代に血を以て見せつけること。彼らの闘志は、長年の戦歴の中でもかつてないほどに極限まで研ぎ澄まされていた。


 信玄が静かに采配を振るった。

 その瞬間、台地を吹き抜ける冬の冷風がぴたりと止まったかのような錯覚を、武田の全軍が抱いた。

「突き崩せ。ただの一人も、生かして三河へ帰すな」

 地を這うような低く重い号令が、大将の本陣から響き渡った。


 地鳴りのような法螺貝の音が、三方ヶ原の空を激しく震わせた。

 それは、武田軍が放つ戦国史上最も純度の高い暴力が、完全に解き放たれる合図であった。

 先陣を切ったのは、山県昌景が率いる赤備えの精鋭三千。彼らはまさに燃え盛る赤い津波となって台地を駆け下り、徳川家康が敷いた鶴翼の陣の先端へと、怒り狂う獣のように襲いかかった。


 勝頼は馬上から、その凄惨な激突の瞬間を、まばたき一つせずに冷徹に見守っていた。

 信玄の軍配が閃くたびに、魚鱗の陣は巨大な生き物のようにうねりながら形を変え、徳川軍の防衛網を確実に、そして恐ろしいほど美しく食いちぎっていく。名匠が鍛え上げた名刀が、柔らかな布を音もなく裂くような、一切の迷いを持たぬ殺戮の律動であった。

 一度目の人生の記憶では、この戦いにおいて武田軍にこれほどの凄まじい力はなかったはずだった。兵糧不足による飢えと疲労が、兵の足取りを重くし、指揮の精度を著しく狂わせていたからだ。だが、自らが後方支援という下支えを完璧に完遂した今、父の放つ武威は、間違いなく歴史上の最高数値を叩き出し続けている。


「見事だ……父上」

 勝頼の深い呟きは、戦場を支配する怒号と悲鳴の中に静かに消えていった。

 信玄は吐血の苦痛を圧し隠し、覇者の威厳を微塵も崩さぬまま、徳川家康を果てしない絶望の深淵へと突き落としていく。


 一方、迎え撃つ徳川軍の陣営は、武田の猛攻を前にして瞬く間に瓦解の兆しを見せ始めていた。

 家康は一万一千の軍勢を鶴翼の陣に広げ、敵を包み込む算段であったが、陣中に蔓延していた不信の毒は、兵たちの足取りを鉛のように重くしていた。「味方の中に武田に通じる裏切り者がいる」「家康公は我らを見捨てるつもりだ」という疑心暗鬼が、将兵の連携を根底から狂わせていたのである。

 隣の味方すら信じられぬ軍勢が、死を恐れぬ赤備えの決死の突撃を防げるはずもない。山県の刃が徳川の陣を容易く引き裂き、馬場信春の軍勢がその裂け目を一気に押し広げる。家康の馬印は、武田の猛攻に耐えきれず、見る間に後方へと下がり始めていた。


 夕陽が三方ヶ原の赤土をさらに濃い血の色に染め上げる中、ついに徳川軍の完全な崩壊が始まった。

 勝利を確信した武田の本隊が、地響きを立てて容赦のない追撃へと移り、誇り高き魚鱗の陣が、血に飢えた追討の群れへと姿を変えようとするその瞬間。

 勝頼の冷え切った瞳だけは、狂熱に沸き返る眼下の戦場から静かに離れ、台地の北方に広がる暗い森の不自然な沈黙を鋭く射抜いていた。


 そこには、織田信長が家康への援軍として送り込んだ、佐久間信盛ら三千の兵が布陣していた。

 彼らは徳川軍と共に戦線を構築していたはずが、武田軍のあまりに凄まじい突撃と徳川軍の脆い崩壊を目の当たりにし、早々に戦うことを放棄しようとしていたのである。佐久間信盛は、自らの手勢を無駄に損なうことを恐れ、徳川を見捨てて戦線を密かに離脱し、浜松城とは逆の方向へと逃げを打とうと動き始めていた。


 だが、勝頼の脳裏には、一度目の人生において、この無傷で逃げ延びた織田の軍勢が、のちに武田の兵站線を執拗に脅かし、結果として父を死の絶望へと追いやる致命的な後方攪乱の楔となった忌まわしい記憶が焼き付いている。


(佐久間信盛。そなたらだけは、決して無傷でこの遠江から帰すわけにはいかぬ)

 勝頼は、手にした軍扇をゆっくりと前方に向けた。

 その後ろには、感情を完全に殺し、一寸の狂いもなく歩調を合わせる一千の常備兵が、死神のような静寂を保って控えている。


「昌幸。織田の逃げ腰の鼠どもが、背中を向けたな」

「はっ。御館様の猛攻に肝を潰し、同盟者を平然と見捨てて逃げ散る算段のようです」

「ならば、その逃げ道を我らで完全に塞ぐ。無傷で帰すな」


 勝頼の低く冷酷な号令が下された。

 本隊の猛将たちが徳川の首を狩ることに熱狂しているその死地の裏側で、勝頼が率いる一千の軍が、織田の軍勢の横っ腹を食い破るべく、音もなく森の闇へと滑り込んでいったのである。

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