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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第四十三話:死地出陣

第四十三話:死地出陣


 刻を少し遡る。

 遠江の冷たい冬風が、浜松城の天守に鋭く吹きつけていた。

 徳川家康は、高欄を掴む己の指が血の気を失い、白く強張っていることに気がついた。城内を支配しているのは、決戦を前にした士気の高まりや、心地よい緊張感などではない。いつの間にか陣中に浸透してしまった、腐った澱のような疑心暗鬼であった。


「……また一人、持ち場から姿を消したか」

 家康の独白は、冷たい風に虚しくさらわれた。

 この数日の間に、徳川家中の結束は見えざる魔物によって内側から食い破られていた。家康は織田に媚びて遠江の国衆を捨て石にし、三河の譜代だけを生き残らせようとしているという悪辣な噂。それが、水が乾いた砂に染み込むように、兵たちの心を容赦なく侵食していたのである。


 このまま籠城を続ければ、遠からず城の内側から裏切りの刃が向けられ、同士討ちが始まる。家康には、それが痛いほどに予見できた。いや、武田の陣にいるという正体不明の軍師が、自分にその絶望の結末を強引に選ばせようとしているのだという、恐ろしい確信があった。

 城内という逃げ場のない密室の恐怖。背後を振り返れば、固い忠義を誓い合ったはずの家臣たちの目が、わずかに泳いでいるように見える。この精神的な泥沼から抜け出すには、城を捨て、戦場へと打って出るしか道は残されていなかった。


 そんな折、同盟者である織田信長からの援軍が浜松へと到着した。佐久間信盛、平手汎秀らが率いるおよそ三千の兵である。

 家康の麾下にある三河と遠江の兵を合わせても八千。織田の援軍を加えてようやく一万一千という数になる。対する武田は、長雨に苦しんだとはいえ二万を優に超える大軍である。野戦を挑むにはあまりに分が悪い。

 佐久間信盛は、武田の本隊が進軍を焦って陣を乱す隙を待つべきだと主張し、城に留まることを暗に勧めてきた。


 だが、家康は首を横に振った。

 信長からの援軍すら、今の家康には疑わしく感じられるほどに心は疲弊していた。もしここで城にこもり、織田の顔色を窺うような素振りを少しでも見せれば、遠江の国衆を見捨てるというあの噂が完全に真実味を帯び、彼らは瞬く間に徳川を見限るだろう。

 勝頼の仕掛けた見えざる罠は、家康の取り得る大将としての最善の選択肢を、根こそぎ奪い去っていたのだ。


「籠城はならぬ。全軍、打って出る。三方ヶ原にて甲斐の虎を迎え撃ち、我らの意地を天下に示すぞ」

 家康の号令に応じた将兵たちの声は、どこか悲壮な響きを帯びていた。だが、彼らもまた、城内の不気味な疑心暗鬼に押し潰され、互いの腹を探り合うよりは、血みどろの戦場に打って出ることを求めていたのである。


 同じ頃、三方ヶ原の広大な台地へと続く緩やかな坂道を、武田信玄の率いる本隊二万余りが悠然と上り詰めていた。

 勝頼の算段によって用意された莫大な兵糧と薬草により、泥濘の地獄で完全に立ち往生していた軍勢は、見事に息を吹き返していた。だが、山県昌景や馬場信春ら宿老たちの瞳に宿っているのは、飢えを凌いだことへの安堵などではない。

 自分たちが鼻で笑った理屈に命を救われたという、骨の髄まで沁み込む激しい屈辱。それを雪ぐためには、眼前の敵の血をすすり、天下に武田の強さを見せつけるほどの猛烈な武勲を立てるしか道はない。彼らの全身からは、尋常ならざる闘志と殺気が立ち昇り、大軍を一つの狂暴な獣へと変貌させていた。


 その猛り狂う本隊から再び離れ、殿軍として最後尾を進む一千の別働隊の陣中から、勝頼は静かに前方の台地を見据えていた。

「昌幸。怯えた鼠が、ついに城という穴から這い出てきたな」

「はっ。勝頼様の御目立て通りにございます。家康は自らの足元に広がる影に耐えかね、自ら死地へと足を運びました」

 馬上、真田昌幸の口元に深い悦楽の笑みが浮かぶ。

 勝頼にとって、家康の出陣は武将としての勇猛さの表れなどではない。自らが城内に蒔いた見えざる毒がもたらした、必然の結末であった。いかに城の守りが固かろうとも、人の心の拠り所を奪い、すべての選択肢を不信で塗りつぶしてしまえば、敵は自ら崩壊への道を選ぶものなのだ。


「家康が最後の望みとすがっている織田の援軍三千。奴らは徳川と共に陣を敷いておりますが、いかがなされますか」

 昌幸の問いに対し、勝頼は一千の自軍を見渡し、冷ややかに首を振った。

「今は放っておけ。織田の将である佐久間信盛は、戦の趨勢を見極めることに長けた男だ。奴は共に陣を敷いてはいるが、本国からの援軍という立場を利用し、いつでも逃げ出せるように構えている。父上が率いる二万の怒れる獣が、徳川の陣を容赦なく食い破る様を見れば、自らの兵を損なうことを恐れて真っ先に背を見せるだろう。もしそれでも色気を出して我らの横槍を突こうとするならば、わが手元にあるこの一千の兵が、奴らの横っ腹に冷や水を浴びせてやるまでよ」


 勝頼の視線は、遠く床几に座す父の背中へと注がれていた。

「父上のこの戦は、今日、日ノ本の歴史上最も美しい輝きを放つことになるだろう。その陰で、もし織田の援軍が不必要な動きをするのであれば、このわしが跡形もなく消去してやる」


 ついに、二万を超える武田軍本隊が三方ヶ原の台地上にその威容を現した。

 信玄が選んだ陣立ては、魚鱗の陣。一点に戦力を集中させ、敵の心臓部を最短距離で貫き通す、純粋な殺戮のための陣形である。

 傾きかけた冬の夕陽を背負い、不動の姿勢で床几に座す信玄の姿は、病魔に深く蝕まれていることなど微塵も感じさせない。まさに甲斐の虎そのものの、圧倒的な威圧感を台地全体に放っていた。


 台地の下方では、徳川家康が織田の援軍を合わせた一万一千の軍勢を鶴翼の陣に広げ、決死の面持ちで待ち構えている。

 勝頼は馬上からその家康の陣立てを、かつて中原の戦場で見下ろした滅びゆく軍勢の幻影と静かに重ね合わせていた。

(家康よ。そなたが頼みとしている織田の援軍、その動きすらもすでにわが算段の内に収まっている。父上の武は今日、この台地で天下に最高の輝きを放つ。そなたらはその捧げ物となるのだ)


 冬の冷たい風が、赤土の平原を鋭く吹き抜ける。

 信玄が静かに、しかし確かな力で軍配を前へと振り下ろした。

 それは、彼が一生涯をかけて築き上げた武という名の誇りが放つ、最後にして最大の絶唱の合図であった。

 地鳴りのような法螺貝の音が天を劈き、武田の虎が三河の獅子へと牙を剥く、戦国の世に深く刻まれる最大の蹂躙劇が、今まさに幕を開けたのである。

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