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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第四十二話:落日死地

第四十二話:落日死地


 遠江の空を重く塞いでいた鉛色の雨雲が、にわかに割れた。

 雲の裂け目から差し込んだ西日が、連日の長雨に濡れそぼった広大な台地を、まるで夥しい血が流されたかのような赤銅色に染め上げていく。

 三方ヶ原。

 のちに戦国の歴史において、甲斐の猛虎と三河の若き獅子が唯一直接刃を交えた死地として語り継がれるはずであるその台地は、いま、底知れぬ殺気を孕みながら二つの軍勢を迎え入れようとしていた。


 刻を少し遡る。

 浜松城の物見櫓にて、徳川家康は欄干の木肌が白く変色するほどに強く握りしめ、遠く台地の上に集結しつつある武田の軍列を凝視していた。

(……なぜだ。なぜ、奴らはあの泥沼から這い出し、動けているのだ)

 家康の胸中に、濃密な焦燥と疑念がどす黒く渦巻いている。この異常な春の長雨と、街道を底なしの沼に変えた泥。さらに上方から織田の力も借りて買い占めた兵糧の策。いかに無敵の武田軍といえども、小荷駄はとうに尽き果て、飢えと疲労によって自ら崩壊していくはずであった。家康は、武田が自重に耐えかねて撤退を始めるその時を待ち、背後から襲い掛かる算段を立てていたのだ。


 しかし、家康を真に苦しめているのは、予想を裏切って進軍してくる武田の底力だけではない。数日前に服部半蔵が持ち帰った、あの身の毛もよだつ報告である。

 武田の陣には、こちらの思考のすべてを端から見通している化け物がいる。その言葉は、まるで不可視の病のように浜松城内に蔓延していた。身内の誰が武田に通じているのか。この城内で、家康自身を売り渡して保身を図ろうとしている者がいるのではないか。家康が軍議を開いても、将たちは互いの顔色を窺い、視線を合わせようとしない。

 城の外には息を吹き返した武田の大軍、城の内には疑心暗鬼の沼。家康は今、精神的な孤立によって完全に身動きが取れなくなっていた。


 さらに時を遡る。

 主要街道の泥濘の中で、文字通り死の淵を彷徨っていた山県昌景は、目の前で起きている現実に、深い戸惑いと怒りを交錯させていた。

 わずか数刻前まで、山県が率いる誇り高き赤備えは、飢えと疲労で完全に立ち往生していた。馬は痩せこけて足を取られ、兵たちの瞳からは戦意という名の光が消え失せ、天下に恐れられた最強の騎馬軍団は、ただ泥の中で死を待つだけの惨めな群れへと成り下がっていた。己の武勇がいかに絶大であろうとも、空になった胃の腑を満たすことはできない。山県は泥に塗れながら、己たちの兵站の考えが根本から甘かったことを思い知らされかけていた。


 だが、絶望の底に沈む彼らの前に、突如として近隣の村々の庄屋や寺社の者たちが、大量の米や味噌、薬草を荷車に積んで次々と現れたのである。

「武田の皆様方、どうかこれをお召し上がりくだされ」

 ひれ伏す地元の者たちが差し出す温かな粥の匂いに、飢えた兵たちは歓喜の声を上げて群がった。本来であれば、部下を預かる将として何よりも喜ぶべき光景である。しかし、山県昌景の目は鋭く細められ、手綱を握る手には力がこもっていた。隣に立つ馬場信春もまた、怪訝な面持ちでその光景を睨んでいる。


「待て。食うのは待て」

 山県の低く押し殺した怒声が、周囲の空気を凍りつかせた。彼は泥を跳ね上げて庄屋の胸ぐらを掴み、その顔を間近に引き寄せた。

「貴様ら、一体誰の差し金だ。我らが刈り働きに出ても、一粒の米も出さなかったではないか。織田の商人が根こそぎ買い占め、村には何も残っていないと泣き喚いていたはずだ。それがなぜ、これほどの兵糧を無償で差し出す。我らを毒殺する気か、それとも家康の罠か」

 あまりの剣幕に庄屋は顔面を蒼白にし、震え上がって言葉を出せない。強奪すらできなかったこの荒れ果てた遠江の地で、地元の民が自ら進んで大軍を賄うほどの食糧を差し出すなど、都合が良すぎる。百戦錬磨の将である山県たちが、そんな不自然な慈悲を信じるはずもなかった。


「おやめくだされ、山県殿」

 その時、泥の影響を全く受けていないかのように軽やかに間道を抜けてきた一団が現れた。勝頼の側近として働く土屋昌恒である。

「彼らに罪はありませぬ。それはすべて、安全な兵糧にございます」

「土屋か。ならばこの不自然な供出は何なのだ。答えよ」


 土屋は感情を交えぬ淡々とした声で、真実を口にした。

「勝頼様は、御自らの手柄とはせず、あくまで地元の者からの献上という形を装って本隊を救えと命じておられました。ここにある莫大な兵糧と薬草はすべて、勝頼様が数月前から甲斐の金山を正して得た黄金を用い、商人の手を介して密かにこの遠江の寺社や村々に買い集め、秘匿させておいたものにございます」


 その言葉が落ちた瞬間、山県と馬場は雷に打たれたように絶句した。

「……若殿が、あらかじめこの地に兵糧を隠しておられたと申すか」

「左様にございます。本隊が長雨と織田の買い占めによって必ず立ち往生することを、勝頼様は出陣前の軍議の席で明確に予見しておられましたでしょう。ゆえに、大軍の足が完全に止まるその時、命の糧が必要となるその瞬間にのみ蔵を開くよう、厳命されておりました」


 山県の握りしめていた手が、ゆっくりと庄屋の胸ぐらから離れた。

 自分たちがかつて鼻で笑い飛ばした、あの理屈。武士の風上にも置けぬと蔑んだ銭と帳簿の論理。それが今、無惨に餓死しかけていた二万の大軍の命を、完全に救い上げたのである。

 勝頼は、ただ兵糧を与えたのではない。宿老たちが己の力押しではどうにもならない限界を骨の髄まで悟るまで放置し、最も無様で惨めな姿を晒したその瞬間に、己の絶対的な理を見せつけたのだ。


(我らは、戦をする前からすでに若殿の掌の上で生かされていたというのか)

 感謝よりも先に、勝頼という男の底知れぬ恐ろしさが、山県の胃の奥を冷たく凍らせていた。己の武勇がいかに絶大であろうとも、軍を動かす巨大な仕組みの前では無力であることを、完全に思い知らされたのである。若き後継者は、自分たちの自尊心を泥の中に完全に沈め、へし折った上で、己の支配下に組み込んでいるのだ。

 だが、その圧倒的な物資の補給により、飢えと疲労から解放された武田の本隊は、間違いなく息を吹き返していた。


 そして現在。三方ヶ原を臨む武田本陣。

 床几に深く腰を下ろした武田信玄は、激しく込み上げてくる咳を、口元に当てた白い布で強引に抑え込んでいた。布に広がる赤黒い血の染みは、この偉大なる巨星の命の刻限が、間もなく尽きることを告げている。

 だが、布を隠した信玄の瞳には、死の恐怖を微塵も感じさせない、かつてないほどの凄絶な輝きが宿っていた。


 彼の眼下には今、一分の隙もない完璧な勝利の舞台が整えられていた。

 もし四郎が後詰めをしていなかったら、信玄は兵糧不足と将兵の疲弊により、戦う前に惨めな撤退を余儀なくされていた可能性もあったはずだ。それは大将として最も無念なことである。信玄自身、あえて泥を被る覚悟で西上を強行したが、戦えなければ、その意味すらなかったかもしれない。しかし、四郎はその父の覚悟を踏み台としながら、一番残酷な形で宿老たちの誇りを打ち砕き、その上で全軍の飢えを消し去り、後方の不安を完全に拭い去ったのだ。


(四郎よ……。そなたは、泥を被って無様に退くことになるかもしれなかったこの老いぼれを、歴史に燦然と輝く大勝という名の豪奢な棺に入れて、華々しく葬送するつもりなのだな)

 信玄は、傍らに静かに歩み寄ってきた勝頼を仰ぎ見た。

 勝頼は、父の血濡れた口元も、その身から漂う死の気配も、すべてをあらかじめ定められた事象として受け入れているかのように、静寂を保っている。


「父上。舞台は完全に整いました」

 勝頼の言葉は、まるで天地の理を司る絶対者が下す宣告のように、冷たく澄み渡っていた。

「宿老たちは己の限界を知りました。その上で、彼らは武田の猛将としての最後の意地を、この戦で見せつけてくれるでしょう。そして徳川の獅子は、すでに情報の毒の中で己の影に怯え、身内で腹を探り合って自滅の縁におります」


 信玄は満足げに、そして先達としての強烈な意地と、己を超える怪物へと育った息子への深い愛情を込めて、わずかに口角を上げた。

「……よかろう、四郎。この舞台、そなたの算段の通りには終わらせぬ。それを超えるほどの、わしのすべてを懸けた最期の武、この台地で存分に躍らせてみせるわ」


 夕闇が三方ヶ原の台地を包み込み始める。

 冬の名残を孕んだ冷たい風が、赤土の平原を吹き抜ける。勝頼の耳には、これから激突することになるであろう徳川の軍勢が、恐怖と絶望に駆られて城から這い出してくる足音が既に届いていた。

 そして息を吹き返した武田軍二万余り。信玄が悠然と軍配を振り下ろし、大軍が静かに、しかし確実に魚鱗の陣を敷き始める。

 古き武士の誇りと新しき理が交錯する、歴史的な戦の幕が、今まさに切って落とされようとしていた。

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