第四十一話:無援救済
第四十一話:無援救済
天を重く覆う鉛色の雲は、なおも容赦なく冷たい春の雨を降らせ続けていた。
遠江の山間にある険しい峠の頂。そこに陣を構える勝頼の視線の先には、深い霧と雨に包み込まれた主要街道が眼下に広がっていた。そこには、武田信玄が自ら率いる二万余りの本隊が、無惨な泥濘にもがき苦しむ光景が、数日前よりもさらに深刻な度合いを増して刻みつけられている。
数万の兵が吐き出す荒い熱気と、泥を跳ね上げる悲痛な足音、そして飢えと極度の疲労に倒れ伏した軍馬のいななきが、激しい雨音の底から一つの重い塊となってせり上がってくるのがはっきりと分かった。
勝頼の半歩後ろで馬を止めた真田源太左衛門尉昌幸は、その惨状を凝視し、思わず身震いをした。
「……御館様の本隊、もはや軍としての体を全くなしておりませぬ。あれでは、戦場に着く前に兵たちの魂が枯れ果ててしまいましょう」
昌幸の言葉には、天下無敵を誇る武田の軍勢が、遠征の途上で自然の猛威の前に無様に崩れ去っていくことへの、痛切な憐れみが滲んでいた。だが、隣で馬上にある勝頼の横顔は、石の彫刻のように微動だにしない。笠の端から雨垂れを落とすその表情は、味方への同情を完全に消し去っていた。
「昌幸。あれこそが、わしが軍議の席で再三にわたり警告し、彼らが鼻で笑って無視した不備の正体だ。彼らが信じて疑わぬ個人の武勇や精神論など、容赦のない泥濘の現実と兵糧不足の前には、一文の価値も持たぬ」
勝頼の声は、凍りついた冬の湖面のように冷たく響いた。
勝頼には痛いほどに分かっていた。山県昌景や馬場信春ら歴戦の宿老たちが今、泥の中で呪っているのは、決して天候の悪さなどではない。自らが生涯を懸けて信じ抜いてきた「気力と武威で全てをねじ伏せる」という武士の価値観そのものが、この理不尽な自然の摂理と圧倒的な物量不足の前に、ただ無力に磨り潰されていくことへの根源的な恐怖なのだ。
昌幸は、眼前の若き主君から放たれる、人間としての情念を切り離した圧倒的な隔絶感に、形容しがたい畏怖を覚えた。勝頼は、決して宿老たちを憎んでいるわけではない。むしろ、彼らの武名を歴史において不滅のものにしようと、誰よりも深く考えている。だが、その大局的な手法が、あまりに非情なのだ。
「昌幸。そろそろ彼らの限界だろう。すぐに街道沿いの村々や寺社に隠匿させておいた兵糧と薬草の放出を始めよ。……だが、決して我らの名を出すな。あくまで、地元の者からの自発的な献上という形を装わせるのだ」
勝頼が扇子で指し示したのは、本隊が進むべき主要街道の先々にある、あらかじめ目を付けておいた数箇所の寺社と、豊かな庄屋の屋敷であった。
「御意に……。各地の寺社、および有力な庄屋たちには、すでに意向を伝え、十分な根回しを終えておりまする。彼らの手を通じ、すぐにでも本隊の各陣へ兵糧が提供される手筈となっております」
昌幸はあらためて、主君が水面下で張り巡らせていた仕組みの巨大さに息を呑んだ。
勝頼は、ただ単に別働隊の荷駄を増やしたのではない。既存の商流と宗教の情報網を、新しく鋳造した武田金による絶対的な信用で縛り上げ、現地で補給が自己完結するように、見えざる兵站線を構築していたのである。それは、兵糧が尽きれば敵地で略奪すればよいという野蛮な戦国の常識を完全に否定した、新たな統治思想の具現化であった。
「……しかし、勝頼様。実に見事な、そして絶妙な時期を見計らわれましたな。今の本隊は、餓死者が出てもおかしくないほどの惨状になりつつありました。これであの誇り高き宿老たちも、救いの手を差し伸べた者の姿を必死に探し、結果として勝頼様の深き配慮に感謝することになりましょう」
昌幸の感想に対し、勝頼は初めて僅かに瞳を細め、鋭い光を放った。
「勘違いするな、昌幸。わしは彼らの感謝など求めてはおらぬ。彼らが信じている旧き武田……武勇さえあれば全てを解決できるという慢心は、一度死の淵を見なければ決して消えぬのだ。救済とは、それが無ければ確実に滅びるという絶望のどん底を味わった瞬間にのみ、最も高い価値を持つ。この一度の苦難だけで、彼らがわしに完全に跪くことなどあり得ぬだろう。だが、それでも彼らの骨の髄に、わしの理をわずかでも刻み込むためには、この容赦のない試練がどうしても必要だったのだ」
勝頼の脳裏には、再び一度目の人生での凄惨な記憶が、生々しい悔恨として甦っていた。
かつての三方ヶ原の戦い。信玄は確かに野戦において徳川家康の軍勢を完膚なきまでに叩きのめしたが、その実態は深刻な兵糧不足と、織田による執拗な糧道の遮断によって、軍の体力が完全に尽き果てた首の皮一枚の綱渡りであった。
追撃も進軍の継続もままならず、飢えと寒さの中でその場に釘付けにされ、やがて撤退を余儀なくされた。世間が信玄の急病と呼んで片付けたあの撤退の真の理由は、病魔のみならず、補給が途絶えたことによる自壊だったのだ。
(父上。一度目の生であなたの武の限界を露呈させてしまったその不備は、今生ではわしがすべて補って見せる。死の宿命だけは免れないだろうが、最後まで、武田の虎が万全の牙を持ったまま天下を震撼させたと、あなた自身が間違いなく誇りを抱きながら眠りにつけるように、わしがその舞台を完全に整えて送り出してみせよう)
勝頼は、降りしきる雨の彼方、やがて決戦の地となる三方ヶ原へと視線を移した。
「昌幸。徳川の様子はどうだ。あらかじめ仕掛けておいた情報の毒は、どれほどの成果を上げている」
昌幸は馬上での居住まいを正し、凄惨な笑みを浮かべて報告した。
「はっ。浜松城内では、間違いなく服部半蔵が持ち帰った恐怖の報告が、目に見える不信となって家臣団の心を激しく蝕んでおります。家康は、自領内のどこに武田に通じる内応者がいるのかという強烈な疑心暗鬼に陥り、身内の腹を探り合うことに終始しているようだと報告が上がっております。互いを信じられぬゆえに、外に向けた防衛網の再編すらままならぬ状況とのこと。我が本隊は物理的な泥に足を取られておりますが、徳川の陣営は、それ以上に深い精神的な泥沼に完全に沈んでございます」
「上出来だな。もはや後戻りすることなく、歴史はわしの描いた解へと収束していくだろう」
勝頼は、雨音に消え入りそうな低い声で独白した。
「父上の戦は、この長雨の果てにある三方ヶ原の台地で、最高の輝きの中で終わる。……だが、昌幸。わしらの戦はそこからが始まりだ。父上が焼き尽くした後の灰の上で、わしが絶対の法を敷き、新しい文明を刻む、真の武田の胎動が始まる。そのための残酷な汚れ役を、わしと共に背負う覚悟はできているか」
昌幸は馬上で深く、深く頭を垂れた。
「御意に。……この真田安房守昌幸、勝頼様が創り上げる新しき国の露払いとして、地の果てまでお供させていただく所存にございます」
二人の足元で、跡部勝資が打ち鳴らす陣太鼓の音が再び規則正しく響き始めた。
空はなおも暗く重いが、勝頼の氷のような瞳の奥には、これから訪れる壮絶な戦の結末と、その先にある誰も見たことのない新たな国の姿が、すでに一寸の狂いもなく鮮明に描き出されていた。




