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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第四十話:無火軍進

第四十話:無火軍進


 天が底を抜いたかのように降り続く春の長雨は、遠江の土をひどく粘り気のある泥濘へと変えていた。主要な街道が赤土の沼に沈み、武田信玄の率いる本隊が荷駄の泥詰まりと飢えに喘ぎながら遅々とした歩みを進めているその頃。

 勝頼率いる一千の別働隊は、霧に包まれた遠江北部の険しい山中の間道を、驚くべき速度で西へと突き進んでいた。


 道は狭く、岩肌が露出した険しい起伏が続く。しかし、真田源太左衛門尉昌幸の配下である透波たちがあらかじめ地脈を綿密に踏査し、水はけが良く地盤の固い道筋だけを選定していたため、降り続く豪雨も兵たちの足元を掬うまでには至っていない。

 さらに彼らの装備は、従来の武家の常識を覆すものであった。通常の足軽が身につける藁の蓑は、雨を弾くものの次第に水を吸って重くなり、兵の体力をじわじわと奪う。だが、勝頼の一千の兵が纏っているのは、和紙に幾重にも桐油を引いて仕立てた軽量の雨合羽であった。足元には泥の侵入を防ぐために高く縛り上げた脚絆をつけ、二重に硬く編み込まれた水はけの良い藁沓を履いているのだ。


 だが、昌幸が真に驚愕していたのは、道の選定や水弾きの良い装備ではない。その上を進む軍勢の、あまりに異様で静まり返った行軍の姿であった。


 そこには、日ノ本の合戦場に付き物の、士気を鼓舞する法螺貝の音も、隊列を整えよと怒鳴り散らす侍大将の荒々しい声も、泥に悪態をつく足軽たちの私語も、一切存在しなかった。

 ただ、先頭を行く跡部右衛門尉勝資が鳴らす陣太鼓の乾いた音が、一定の周期で静寂を刻んでいる。その単調な響きに合わせ、一千の兵たちは一糸乱れぬ歩幅で歩き続けていた。かつて甲府の練兵場で宿老たちが嘲笑したあの無機質な行進の教練が、今、実戦の過酷な山道において、一つの巨大な絡繰となって恐るべき真価を発揮していたのである。


「勝頼様……驚くべきことに、これほどの強行軍を三日も続けているというのに、隊列から脱落する者がただの一人も出ておりませぬ」

 馬上から後ろの隊列を振り返った昌幸が、震える声で報告した。

 雨に打たれながら険しい山道を進めば、通常であれば足の腫れや極度の疲労、あるいは冷えからくる腹下しによって、必ず隊列から遅れる者が出る。大軍の行軍において兵の損耗は避けられない常識であった。しかし、勝頼の一千の兵は、まるで見えない糸で操られる土人形のように、無機質な正確さを保ち続けている。


「当然だ。彼らは己の意思や気力で歩いているのではない。わしがあらかじめ敷いた軌道の上を、ただ滑るように前進しているに過ぎぬのだからな」

 勝頼は馬上から、歩き続ける兵たちが時折、懐から取り出して口に運んでいる小さな黒い塊に視線を向けた。


 それこそが、勝頼が金山の不正を一掃して得た余剰の富を惜しみなく投じ、はるか大陸で学んだ練丹術と医食の知見を融合させて完成させた密かなる手立て、兵糧丸であった。

 当時の日ノ本の武士が携帯する陣中食といえば、天日で干した糒や炒り米、塩分を補うための芋がら縄などが主流である。だが、これらはかさばる上に、そのまま食せば胃の腑を痛めるため、腹を満たすには大量の水を沸かし、火を通して湯漬けにする必要があった。

 しかし、このような長雨の降る中では、乾いた薪を拾うことも火を起こすことも叶わない。冷水で強引に戻した糒を食せば、兵たちはたちまち腹を下し、行軍の足を引っ張ることになる。何より、大軍が食事のために火を焚けば、その立ち昇る煙で敵に己の居場所を正確に知らせることになってしまうのだ。


 勝頼が職人に作らせた黒い丸薬は、これまでの常識とは全く異なる代物であった。

「蕎麦粉と大豆の粉を練り合わせ、そこに味噌と蜂蜜を混ぜ込んで強い甘みと塩気を持たせる。さらに、体を内側から芯まで温める生姜や陳皮、血の巡りを強くする桂皮や高麗人参といった薬種を、大陸の秘伝の比率で配合し、極限まで高密度に圧縮して丸薬としたものだ」


「昌幸よ。戦における最大の無駄は、敵との刃の交えで生じる死傷ではない。食のために軍の足を止める時間と、飯を炊く煙によって敵に位置を晒すことだ」

 勝頼の記憶では、中原の広大な原野において、補給の遅れと行軍の停滞は、すなわち軍の完全な死を意味していた。その過酷な極地で何万という兵を動かし、磨き上げられた兵站の真髄が、この直径一寸ほどの小さな球体に凝縮されていたのである。


「この一粒を噛み砕くだけで、兵の半日分の活力を十二分に維持できる。火を焚いて湯を沸かす必要もなく、隊列を組んで歩きながら摂取できる。つまり、我が別働隊には食事のために足を止めるという概念が存在せぬ。敵が天候の回復を待ち、難儀して炊飯の煙を上げている間に、我らは足音一つ立てず、数里先まで進み続けることができるのだ」


 昌幸は、主君が差し出したその黒い兵糧丸を受け取り、自らも口に含んで噛み砕いた。

 舌の先に広がるのは、濃厚な味噌の塩気と、蜂蜜の強烈な甘み。そして、遅れてやってくる薬種の鋭い香りが喉を通り、雨に打たれて冷え切っていた胃の腑を、内側から熱く燃え上がらせるのを感じた。手足の先まで血が巡り、爆発的な力が染み渡っていくのがはっきりとわかる。


「……これは、単なる腹を満たす糧食ではありませぬな。いわば、人の命を無理やりに駆動させる、恐るべき薪にございます」

「左様。兵とは、武勇を誇る一人の武士ではない。国の意思を確実に遂行するための、替えの利く手足なのだ。手足であるならば、その働きを最大にまで引き上げ、余計な動きによる疲労と消耗を最小限に抑え込むのが、上に立つ者の当然の務めよ」


 勝頼の言葉は徹底して冷酷であったが、その結果としてもたらされた軍の秩序は、圧倒的という他なかった。

 一千の兵たちは飢えと寒さの恐怖から完全に解放され、腹の底から湧き上がる薬草の熱に支えられながら、ただ陣太鼓の音に合わせて足を動かすことだけに全神経を集中させている。空腹による苛立ちもなく、沿線の村々を襲って食糧を奪おうとする衝動も起きない。略奪を行う必要がないため、軍の規律は完璧に保たれている。


 勝頼は、雨に濡れる馬の鬣を撫でながら、かつて一度目の人生で経験した、あの三方ヶ原の戦いの真実を再び脳裏に呼び起こしていた。


 一度目の生において、織田信長は遠江や三河の商人たちを莫大な銭で操り、米を買い占めさせて武田の補給路を完全に封鎖していた。さらに信長が派遣した佐久間信盛や平手汎秀ら三千の援軍は、平手こそ討ち死にしたものの、佐久間は戦を巧みに避けて兵を無傷で後退させ、浜松城に立て籠もった。

 この無傷で温存された佐久間の軍勢が、背後から執拗に武田の糧道を脅かし、進軍を遅らせる恐るべき後方攪乱の楔となったのである。

 戦場では勝っていても、腹が減れば兵は動けず、寒さに凍えれば馬は倒れる。信玄は三方ヶ原の勝利の後にさらに西へと兵を進めることを望んだが、食糧の完全な枯渇と、追い討ちをかけるような冬の長雨、そして後方からの絶え間ない兵站線への攻撃によって、ついに進軍の継続を断念せざるを得なかったのだ。


(父上。あなたの圧倒的な武威を最後に行き詰まらせ、死へと追いやったその兵站の不備。わしがこの丸薬で、跡形もなく消し去ってご覧に入れよう)


 勝頼の深く暗い瞳には、かつて中原の天下を完全に統一した際の、あの果てしなく透き通った理の景色だけが映っていた。

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