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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第三十九話:飢餓行軍

第三十九話:飢餓行軍


 天が底を抜いたかのように降り続く春の長雨は、武田の大軍から容赦なく体温と気力を奪い去っていた。

 遠江の内陸を西へと向かう主要な街道は、数万の軍靴と馬の蹄、そして重い荷駄の車輪によって執拗に踏み荒らされ、見渡す限りの泥沼と化していた。一歩足を踏み出すごとに、粘り気のある赤土が兵たちの脛までを絡め取り、底なしの泥濘が軍列の歩みを完全に麻痺させていた。


「荷駄を捨ててでも進め。御館様を待たせる気か」

 赤備えを率いる山県昌景は、馬上で全身に泥飛沫を浴びながら、深みにはまって動かなくなった隊列に向けて怒号を飛ばしていた。だが、その声にはいつもの覇気が欠けている。

 彼らが信じ、これまで拠り所としてきた無双の武威は、敵の鋭い刃に対してならば不敵に笑って跳ね返すことができた。しかし、兵たちの体を内側から蝕む疲労と、何よりも空腹という見えざる敵に対しては、あまりにも無防備であった。


「山県殿、いけませぬ」

 前方から馬を返してきた馬場信春が、険しい面持ちで首を振った。

「近隣の村々に放った刈り働きの兵が戻りましたが……一粒の米も手に入りませぬ。徳川の兵たちが我らの進軍に合わせてあらかじめ村を焼き払い、残ったわずかな穀物も、上方や堺の商人どもが法外な値で根こそぎ買い占めて去った後とのこと。兵糧の現地調達は、完全に絶たれました」


 昌景は、握りしめた手綱を泥に叩きつけるように振り下ろした。

 出陣の折、彼らは腹が減れば敵地で奪えばよいと豪語し、兵糧の算段を切り捨てることで己の武勇を天下に示そうとした。だが現実には、奪うべき食糧そのものが、敵の焦土の策と見えざる銭の力によって、目の前から完全に消し去られていたのである。

 雨に打たれながら泥にまみれ、空腹に耐えかねてその場にへたり込む足軽たちの姿が、昌景の目に焼き付く。いかに一騎当千の猛将が声を荒らげようとも、胃の腑が空の兵を動かすことはできない。武士の誇りと気力だけで越えられる限界を、大軍はとうに迎えていた。


 その泥にまみれてあがく二万余りの本隊の惨状を、主要街道から少し外れた高い位置にある険しい間道から、武田四郎勝頼は無言で見下ろしていた。

 勝頼の率いる一千の別働隊は、あらかじめこの長雨を予測し、兵たちに油を引いた雨よけの蓑を着せ、藁沓を二重に結びつけさせていた。さらに泥濘を避けて水はけの良い岩盤の道を選んで進んでいるため、隊列に乱れはない。兵たちの腹は事前の算段通りに行き渡った握り飯で満たされ、疲労の色は驚くほど薄かった。


「……勝頼様」

 背後に岩のように静かに控えていた真田源太左衛門尉昌幸が、声を潜めて報告を上げた。

「御下知の通り、遠江一帯の獣道や寺社に秘密裏に買い集め、隠匿させておいた莫大な兵糧と薬草、我が手足となる草の者たちに命じ、いつでも本隊の元へ運び出せる手配を完了しております。あとは、勝頼様の合図を待つのみにございます」


 勝頼は、泥沼で立ち往生する本隊から視線を外すことなく、低く応じた。

「ご苦労。……だが、まだだ。彼らが完全に腹を空かし、己の信じてきた武威というものが、大自然と経済の理の前にいかに無力であるかを骨の髄まで悟るまで、一粒の米も与えてはならぬ」


 勝頼の脳裏には、一度目の生で経験した、誉れ高き三方ヶ原の戦いの裏に隠された恐るべき虚飾の記憶が、鮮明な悔恨と共にまざまざと甦っていた。

 世間の者どもは、あの戦を信玄の生涯最高の大勝と称えそやした。だが、大将の陣にいた勝頼は知っている。あの戦の実態が、いかに悲惨で首の皮一枚の綱渡りであったかを。


 一度目の人生において、信玄は三方ヶ原の台地で徳川家康の軍勢を野戦に誘い出し、完膚なきまでに叩きのめした。しかし、戦場で敵の首を山と積んで局地的な勝利を得たその瞬間、武田軍という巨大な組織は、すでに兵站の限界を完全に超え、死に体となっていたのだ。

 織田信長が商人たちを動かして東海一帯の米を買い占め、徳川が村々を焼き払ったことで、奪うべき兵糧はどこにもなかった。大勝に沸き立った直後の武田の陣には、兵の腹を満たす飯すらなく、身を切るような寒さと蓄積された疲労によって、大切な軍馬と兵が次々と泥の中に倒れ伏していった。


 信玄は三方ヶ原の勝利の勢いのままさらに西へ進むことを強く望んだが、食糧の完全な枯渇と、織田の別働隊による執拗な後方攪乱によって、ついに進軍の継続を断念せざるを得なかった。

 あの輝かしい大勝の裏にあった真実は、兵站破綻による絶望的な撤退であった。そして、飢えと寒さに苛まれた惨めな退き口の途上で、疲弊しきった信玄はついに病に倒れ、血を吐いて歴史の表舞台から永遠に姿を消したのである。


(父上の圧倒的な武を真に殺したのは、徳川の刃でも織田の鉄砲でもない。敵地での略奪に頼り切った、この島国特有の稚拙な補給の考えだ)


 勝頼にとって、宿老たちが口にしていた精神論は、大陸での中原の経験に照らし合わせれば、児戯にも満たない失策の極みであった。戦場で敵の喉元に槍を突き立てる前に、あらかじめ自軍の胃袋を完全に満たし、敵の胃袋を干上がらせる。それこそが、時と物の巡りを支配する絶対者の戦なのである。


「昌幸。本隊は、あの泥濘の中で己の無力さを噛み締めている。……だが、わしは彼らを飢餓のまま戦場へ立たせるつもりはない」

 勝頼は、雨の彼方に霞む三方ヶ原の広大な台地を見据えた。

「父上は、己の命の炎が尽きる前に、あの台地で徳川を相手に最後の牙を剥くおつもりだ。ならば、その最後の戦場に立つ武田の軍勢は、飢えに苦しみ這いずるような敗残の群れであってはならぬ。天地を震わせ、いかなる敵をも粉砕する万全で最強の軍でなければならぬのだ」


 昌幸は息を呑んだ。

「では、我らは敵とぶつかる前に動くということでございますか」

「そうだ。宿老たちが己の非を骨の髄まで認め、自尊心を捨てて泥に額を擦りつけ、わしに兵糧を乞う。その瞬間にのみ、わしは動く。圧倒的な兵糧と物資を持って、泥にまみれた彼らの前に姿を現すのだ」


 勝頼の瞳に、冷酷なまでに研ぎ澄まされた理の光と、底知れぬ父への敬愛が静かに交錯する。

「彼らのちっぽけな誇りを完全にへし折り、圧倒的な理と富の力で命を救い上げる。そして完全に息を吹き返した無敵の軍団として、父上の指揮の下、徳川を完膚なきまでにすり潰させるのだ。わしの構築した兵站の理によって胃袋を満たし、気力を取り戻した兵たちが、父上の武威の下で天下に無双の力を見せつける。……それこそが、わしが父上に捧げる、完全なる大勝よ」


 それは味方に対する救済の策であると同時に、武田の古い常識を解体し、若き後継者への服従を強いるための、必要な行動であった。

 宿老たちに武士としての華々しい勝利を与え、誇りを全うさせるのは、偉大なる父である信玄の最後の仕事である。

 だが、その勝利の前に彼らの古い自尊心をへし折り、理の力で万全の軍勢へと生まれ変わらせることで、古い武田を新しい国へと引き渡す。それこそが、勝頼の担うべき真の役割であった。


 激しい雨に打たれ、泥濘に深く沈みゆく二万余りの本隊は、見えざる飢餓の影に怯えながらも、徳川の待ち受ける三方ヶ原の地へとじりじりと近づいていく。

 偉大なる父の武威を真の意味で完遂させ、古い武田を葬り去って新たな国を産み落とすための、最も過酷で凄惨な歴史の書き換えが、今まさにこの冷たい雨の中で決行されようとしていた。

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