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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第三十八話:泥土教導

第三十八話:泥土教導


 天竜川を越え、武田の軍勢が遠江の深くへと食い込み始めた頃、勝頼が間道に張った天幕には、真田源太左衛門尉昌幸がただ一人、密かな報告のために訪れていた。

 あらかじめ徳川家中にばら撒いておいた不信の毒は、昌幸の予想を遥かに超える恐るべき速度で敵陣の奥深くへと浸透していた。浜松城内では、服部半蔵が持ち帰った報告が暗い尾を引き、重臣たちの間で互いを武田の間諜と疑う不穏な空気が渦巻いているという。


「勝頼様、家康は今、外敵として迫る我ら武田の軍勢よりも、己の背後に伸びる見えざる影を恐れておりまする。城内では密談を禁じる触れまで出たとか」

 昌幸の言葉には、強固なはずの敵の組織を内側から崩しつつあることへの、知略家としての深い悦楽が滲んでいた。しかし、勝頼はその報告を聞いても表情を一切崩さず、夜の湿った空気を静かに吸い込んだ。


「昌幸。忍びによる暗闘も、流言の散布も、それ自体が最終の目的ではない。これは広義の兵站なのだ。すなわち、敵の精神的な支柱を削り落とし、我らが進むための心理的な土壌を平らにならす道筋の構築に過ぎぬ」

 勝頼の視座は、常に目先の小さな戦術を超え、統治と戦争という巨大な機構全体を遥か上空から俯瞰していた。かつて中原の皇帝として天下を統べた彼にとって、物理的な石垣を力で壊すことよりも、敵が立脚している信頼という名の脆弱な基盤を液状に溶解させることの方が、遥かに血を流さず確実な勝利の工程であることを熟知していたのである。


 これに対し、本隊を率いる山県昌景や馬場信春ら歴戦の宿老たちは、勝頼が水面下で行っている暗闘を草の者からの報告で薄々知ってはいたものの、武士の風上にも置けぬ小細工であると鼻で笑い飛ばしていた。

「若殿は相変わらず、鼠のような陰湿な真似を好まれる。戦とは、日ノ本の空の下、正々堂々と敵の喉元を食い破るものなのだ。そのような闇討ち紛いの工作など、我が武田の赤備えが踏み込めば一瞬で吹き飛ぶというのに」

 昌景は、新調された具足を鳴らしながら、勝ち誇ったように笑っていた。彼らにとっての今回の西上作戦は、勝頼の理によって失いかけた武士の誇りを、信玄という巨大な太陽の下で再び輝かせるための祭典であった。本隊の兵糧調達の全権を握った彼らは、腹が減れば敵から奪えばよいと固く信じて進軍している。彼らの目には、勝頼が用意した精密な情報網も、これから燦然と輝くであろう一番槍の武勲という果実を汚す、ただの泥水のようにしか映っていなかった。


 勝頼は、その宿老たちの時代遅れの熱狂を、別働隊の陣から冷ややかに見つめていた。

(昌景。そなたたちが狂信している武威という名の幻。それが、大自然という名の絶対的な理の前にいかに無力なものであるか。それを骨の髄まで知る刻限が、もう間もなく訪れるぞ)


 勝頼は、手にした竹筒の水をわずかに地面にこぼし、乾いた土に染み込んでいく様をじっと凝視した。彼の脳裏には、中原の大陸で学んだ天候の読み方と、気圧の微妙な変化を肌で感じる直感、そして何より、一度目の人生で実際に経験したこの時期の遠江の気候の記憶が、間違いようのない気象の予測を弾き出していた。

 遠州灘の方角から吹き込んでくる、べったりと湿った東風。低く重く垂れ込める雲の密度。そして、古い古傷が疼くような大気の重み。


「昌幸。空を見ろ。……三日後だ」

「三日後……。天候の崩れにございますか」

「ああ。この遠江の台地を、底なしの泥濘へと変える長雨が来る。主要な街道は赤土の泥沼に呑み込まれ、荷駄の車輪は埋まり、騎馬の足は完全に奪われる」


 勝頼は立ち上がり、さらに冷徹な事実を付け加えた。

「それだけではない。織田信長はすでに堺や上方の商人を介して、東海一帯に銭をばら撒き、物流の相場を意図的に狂わせている。加えて徳川の兵たちは、我らの進軍に合わせて沿線の村々に焦土の策を敷き始めているのだ。泥に足を取られ、略奪すべき村には一粒の米もない。本隊の兵站は、長雨の到来と同時に完全に立ち往生し、飢えによる自壊を始めるだろう」


 昌幸は息を呑んだ。宿老たちが意気揚々と引き受けた本隊の兵站は、やはり最初から破綻することが約束されていたのだ。勝頼はそれを完全に読み切った上で、彼らに全責任を負わせて大軍を西へ進めさせたのである。


 勝頼は昌幸に向き直り、一際低い声で最終の指示を下した。

「昌幸。そろそろ、黄金と手形をすべて注ぎ込んで主要な街道から外れた獣道の村々や寺社に隠匿してある兵糧と薬草を、いつでも運び出せるよう手配しておくのだ。ただし……」

 勝頼の瞳に、刃のような鋭い光が宿る。

「本隊が泥の中で完全に立ち往生し、宿老たちが誇りとする武威が空腹という現実に無惨にひざまずくその瞬間まで、決して姿を現すな」


「……それは、徹底した教導ということにございますな」

 昌幸は勝頼の意図を瞬時に察した。これは単なる味方への救済ではない。言葉でいくら説いても理を理解できぬ古き者たちに対し、理不尽な死の淵を実際に体験させることで、勝頼の用いる兵站と銭の理法の絶対的な正当性を、強制的に刻み込むための残酷な演出なのだ。


「そうだ。わしは彼らを見殺しにはせぬ。彼らの持つ突出した武勇は、今後も必ずやこの武田を守る力となるだろう。しかし、彼らはもしわしが中途半端に助ければ、……いや、もし助けなかったとしても意地のみで表面上の勝利を取り繕うだけの強さを持っているのだ。まずは、彼らが自らの不備を骨の髄まで認め、古い誇りを完全にへし折られるよう、その自尊心が泥に沈み切った瞬間にのみ、圧倒的な物資をもって助ける必要がある。……父上が己の命を賭して望んだ古き武士の浄化を、わしがこの手で完遂しなければならないのだ」


 数刻後、進軍再開を告げる陣太鼓が鳴り響いた。

 信玄の乗る輿を中心とした二万余りの本隊は、勝利を確信した地鳴りのような勝ち鬨と共に、主要な街道を悠然と西へと向かって歩みを進めた。

 対して、後方を守るように配置された勝頼率いる千の別働隊は、一切の掛け声もなく無機質な静寂を保ったまま、本隊の通る泥の街道を避け、岩盤が固く水はけの良い険しい間道へと足を踏み入れた。彼らの足には、長雨を見越した藁沓がすでに二重に結びつけられていた。


 その直後であった。

 勝頼の予言通り、遠州灘から吹き付けてきた冷たく重い風が、黒い雨の一滴を勝頼の頬に打ち付けた。

 最初は、乾いた土をわずかに湿らす程度の小さな雫に過ぎなかった。しかし、それは瞬く間にその激しさを増し、遠江の大地を白く塗り潰し、視界を遮るほどの暴力的な豪雨へと変貌していった。


「始まったな」

 馬上、勝頼は冷たい雨に打たれながら、遥か前方の谷間を往く本隊の長大な列を無言で見据えた。

 武士たちの熱狂は冷たい雨に冷やされ、威勢の良い叫び声は重い泥の中に消えていく。

 大自然という名の理によって容赦なく彼らの誇りが磨り潰される、凄惨な教導の試練の幕が今、静かに上がったのである。

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