第三十七話:君臣離間
第三十七話:君臣離間
遠江、浜松城の奥座敷。春の夜の湿った空気が、息苦しいほどの重い静寂となって部屋全体に垂れ込めていた。
徳川家康は、行灯の微かな明かりの下で、片腕に深手を負い、すっかり血の気を失った服部半蔵と対峙していた。半蔵の左腕には、真田の忍びに深く抉られた傷が荒々しく布で巻かれ、今も赤黒い血をにじませている。
だが、家康の背筋を凍らせたのは、伊賀の頭領が負った傷の深さではない。平伏する半蔵の瞳の奥に宿る、かつて見たこともない得体の知れない恐怖の色であった。
「……そなたほどの者が、技で遅れを取ったと申すか」
家康の低く落ち着かせようとした声も、微かに震えを帯びていた。
半蔵はすぐには言葉を返せなかった。額から止めどなく溢れ出る冷や汗を拭うことすら忘れ、乾ききった喉から絞り出すように答える。
「殿……。某が選んだ忍び込みの道、身を潜めた死角、そして刃を交えて咄嗟に選んだ退路。そのすべてが、まるであつらえられたかのように、敵に先回りされておりました。武田は、少数の別働隊として、後継者とも目される四郎勝頼を後方に配置しておりまするが、あの男の陣の中には、こちらの思考のすべてを端から見通し、当たり前のように罠を張って待ち構えている、底知れぬ化け物がおりました」
半蔵のその報告は、家康にとって数千の兵を失う以上に致命的な一撃を与えたのであった。
武田信玄という男の強さは、その峻厳なる軍略と、神算鬼謀の用兵にあると家康は認識していた。だが、半蔵が語る勝頼の陣の不気味さは、武勇や計略といった枠組みを超えた、抗いようのない法則に呑み込まれたかのような絶望感を覚えさせるものであった。
天下の情勢を見極める家康の明晰な頭脳に、一筋の黒い疑念が鎌首をもたげる。半蔵ほどの男の行動がここまで完璧に読まれるなど、尋常の手段ではあり得ない。ならば、徳川の家中、それもごく身近な奥深くにまで武田に通じる耳目が入り込み、こちらの動きを逐一知らせている可能性もあるのではないか。
その家康の心の奥底に芽生えた疑念の種に、勝頼は絶妙な手際で水を注ぎ込み始めていた。
同じ頃、遠江の内陸、天竜川の西岸に広がる山間部。
勝頼があらかじめ密かに命じて構築していた兵糧の中継地周辺では、行商人に扮した真田昌幸の配下たちが、巧妙に練り上げられた噂を村々や宿場町に撒き散らしていた。
「聞いたか。二俣城が戦わずして落ちたのは、家康公がご自分の一族と三河の古参の家臣たちだけを浜松城に囲い込み、遠江の国衆を織田への捨て駒として見捨てる算段を立てておられるかららしいぞ」
「武田の若殿は、重さも純度も揃った本物の黄金で、我らの収穫を正当な値で買い取ってくださるという話だ。対して、徳川のばらまく粗悪な銅銭など、武田軍が浜松へやって来ればただの鉄屑同然になるわ」
事実の中に一分の嘘を混ぜ込み、人の不安を煽る見えざる言葉の毒は、驚くべき速度で人々の間に浸透していった。
徳川の家臣たちの間でも、口には出さねど不穏な空気が広がり始めていた。半蔵がすべてを読まれていたと報告した事実は、上層部の極秘事項であったが、なぜかその一部が歪められた形で陣中に漏れ伝わり、身内に武田と内通している者がいるという強迫観念へと姿を変えた。
遠江の国人衆と三河の譜代衆は次第に互いの顔色を窺い、密談を避け、疑心暗鬼に陥っていく。血と汗で結ばれていたはずの信頼という名の鎖が、音を立てて軋み始めたのである。
遠江の山中、武田軍別働隊の野営地。
勝頼は、己の天幕の中で、昌幸から届けられた徳川家中の不協和音に関する報せを読み、揺らぐ焚き火の明かりの下で静かに口の端を上げた。
「昌幸。言葉の真の価値とは、それが正しいか否かにあるのではない。それを受け取った者が、いかにして『己自身の優れた判断で見抜いた真実だ』と錯覚し、勝手に疑念を深めていくかにあるのだ」
傍らに息を潜めて控える昌幸は、主君の口から語られる恐るべき人心掌握の術を、かつてない知的な渇望をもって聞き入っていた。
「勝頼様……。それは、かつて中原の曹孟徳が行ったという策と同じ理にございましょうか」
昌幸の問いに、勝頼はゆっくりと首を振った。
「曹孟徳は官渡という大戦の折、自軍の家臣たちが敵の袁紹と密かに通じていた大量の書簡を手に入れた。だが、彼はその書簡を一切読まずに、諸将の目の前で燃やして捨てた。それによって、家臣たちの心中にあった発覚への恐怖を取り除き、逆に深い恩義を感じさせて軍の結束を強めたのだ。……だが、わしが今行っているのは、その全く逆の手立てよ」
勝頼は、手元にある一枚の白紙を扇子の先でなぞりながら語り続けた。
「わしは、あえて実在しない内通の証拠を匂わせる。半蔵の忍び込みのように、こちらのすべてが読まれているという圧倒的な事実だけを突きつけ、家康自身に、自らの忠臣たちを疑わせるのだ。主君が家臣の裏切りを恐れ、家臣が主君の器と保身を疑い始めた時、その軍勢はいかなる名将が率いていようとも、自らの疑念によって自壊する」
勝頼の瞳には、一度目の生で家臣たちの離反に苦しみ、情報の空白に喘いで涙したあの天目山の惨めな敗北者の姿は、すでに微塵もなかった。
そこにあるのは、はるか中原の大陸を平定した絶対者として培った、敵陣の拠り所となる人の絆を解体する、冷徹極まりない統治の作法だけであった。
「家康という男は、我慢強く誠実な武将だろう。ゆえに、彼はなぜ己の高度な忍びの技が見透かされたのかという敗北の理由を、身内の論理的な裏切りの中にどうしても求めてしまうのだ。彼が己の家中の裏切り者を躍起になって探し出し、身内を清めようとすればするほど、わしが用意した疑心暗鬼の罠は、より強固に彼自身を縛り上げることになる」
昌幸は、感嘆と愉悦の入り混じった溜息を微かに漏らした。
勝頼がやっていることは、日ノ本の軍学における常識の範疇を完全に逸脱している。敵の首を直接獲りに行くのではなく、敵が立っている信頼という名の足場そのものを内側から溶かして、泥沼に沈むのをただ待つ。それは、武士が重んじる名誉や誇りを根本から踏みにじり、無力化させてしまう恐るべき所業であった。
「……昌幸。敵の目と耳を狂わせる手立ては既に完了した。浜松城は、今や互いを信じられぬという重い病に侵されていることだろう」
勝頼は立ち上がり、天幕の入り口から、深く沈みゆく遠江の夜空を見上げた。
「次は、泥だ。いかに勇猛な武士であろうと、空腹には決して勝てぬ。このまま進み、道中の食糧が尽き果てた時、武勇と天命を叫んで進んだ父上の本隊は、必ず湿った冷たい泥の中に足を取られ沈み込むだろう。……その時こそ、わしが密かに築き上げている兵糧の蔵だけが、この武田を救い、そして作り変える唯一の命綱となる」
徳川家康の心中で燃え盛る疑心暗鬼の業火。
そして、勇猛さを頼りに突き進む武田信玄の本隊を待ち受ける、兵站破綻という現実。
それらが勝頼の構築した強固な法と算段に衝突した時、この日ノ本の歴史は後戻りのできない必然へと向かって動き出すのである。




