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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第三十六話:暗夜伏網

第三十六話:暗夜伏網


 深い森に囲まれた山中に敷かれた武田別働隊の野営地。春の湿り気を帯びた夜の闇は鉛のように重く、時折、遠くで不吉な夜鳥が鳴く声以外、生命の気配は完全に殺されていた。

 武田に仕える忍びを束ねる出浦盛清は、陣の外縁に積まれた防塁の陰にその身を完全に同化させ、主君である勝頼から授けられた恐るべき絵図面を、息を潜めて反芻していた。


(亥の刻の終わり……この北西の涸れ沢。勝頼様は確かにそう断言なされた)

 死線を幾度も潜り抜けてきた盛清ほどの実力者であっても、勝頼が示したあまりに正確すぎる予見には、いまだにわずかな懐疑を拭いきれずにいた。戦場における忍びの潜入とは、その場の機微や風の向き、さらには警備の兵のわずかな気の緩みといった不確定な要素を、その時々の直感で拾い上げて突破口を開くものである。あらかじめ数刻も前から、敵の達人が現れる時刻と場所を一点の狂いもなく言い当てるなど、神仏の領域に他ならない。しかもここは、地の利を知り尽くした甲府の館などではない。数日前に急造されたばかりの、国境を越えた不慣れな野営地なのだ。


 だが、その瞬間は、疑いを挟む余地もなく音もなく訪れた。

 かちり、と。

 微かな、しかし乾いた硬質の音が、石積みの隙間から盛清の耳に届いた。

 陣地の排水のために掘られた涸れ沢を塞ぐ、竹製の柵の閂が外される音。それは、数多ある侵入経路の中でも、最も警備の視線が切れ、突破が成功しやすい情報の空白地帯であった。

 漆黒の闇の中から、周囲の夜に溶け込むような濃い影が滲み出るように現れる。

 徳川家康の懐刀、伊賀の頭領である服部半蔵。彼は自らの掌に伝わる確かな手応えに、無言の満足を覚えていた。武田の守りは確かに硬いが、所詮は急造の陣。綻びを突けば、伊賀の隠密の術を遮るものなどない、と。


(……ここだ。この地点の巡回兵の足取りは、あえて交代の時間を三息ほどずらしてある。そのわずかな空白の時間を、奴らは天の恵みと信じて踏み込んでくるだろう)

 勝頼が以前、真田昌幸に語った「情報の罠」の理論が、盛清の目の前で恐ろしい現実の形を得ようとしていた。


 半蔵が涸れ沢を抜け、陣内へ最初の足場を確保しようとしたその刹那。

「――遅かったな、徳川の鼠」

 頭上から、感情を完全に濾過したような盛清の声が氷のように降ってきた。


 瞬間、半蔵の全身に凄まじい戦慄が走った。

 伊賀の術において、最も恐れるべきは単なる待ち伏せではない。「自分の行動を完全に読み切った、あつらえたような待ち伏せ」である。盛清の放った苦無が、半蔵がまさに次に足を踏み出そうとした場所を、寸分違わず深く抉った。

「何っ……」

 半蔵は空中で咄嗟に身を翻し、即座に第二の退路、東側の赤松の根元へと転身を図る。それもまた、万が一包囲網に嵌った際に脱出するための、伊賀の伝書に記された最も確実な最適解であった。


 しかし、命からがら辿り着いたその松の陰には、すでに真田の忍びたちが、槍の穂先をぴたりと揃えて待機していたのである。

「……馬鹿な。なぜ、ここが分かる」

 半蔵の心に、己の長年鍛え上げた技量ではどうにもならない、未知の恐怖が滲み始める。

 通常の忍びの戦いは、敵の意表を突くことで優位に立つ。だが、今の状況は全く違う。自分の思考、選択、そして窮地に陥った際の逃走の癖までもが、あらかじめ何者かによって一枚の紙に記され、その通りに舞台が整えられているような、絶望的な不自由さであった。


 勝頼は、かつて大陸の宮廷で、軍師である陳宮から「虚実」の極意を骨の髄まで学んでいた。

『人は、自らが最も自由であると信じた時にこそ、最も強い行動の法則性に支配されることになります。特権的で確実に見える情報を信じ込ませれば、敵は必ずその情報の価値を疑わず、自ら進んで用意された檻へと歩を進めるでしょう』

 勝頼が今回行ったのは、特定の警備の隙間をあえて作ることで、敵の思考を強制的に誘導することであった。半蔵という名手に「ここしかない」という完璧な正解を与え、その正解を致死の罠へと塗り替える。それは力によるねじ伏せではなく、知性の圧倒的な格差による精神の接収であった。


「服部半蔵、貴様の技が届くのは、あくまで人間が想定した戦の枠組みまでよ。我らの主には、貴様の命運すら算段の一部として既に明確に計上されてしまっているのだ」

 盛清が闇を裂いて肉薄する。半蔵は必死に太刀を振るうが、すべてを読み切っている盛清の動きには一分の迷いもなかった。


 きぃぃん、と激しい火花が夜の闇に散る。

 盛清の刃が、半蔵の左腕を深々と捉えた。

「ぐっ……」

 半蔵は咄嗟に煙幕を焚き、自らの血を地面に撒き散らしながら、背後の急な崖下へと身を投じた。常人であれば確実に命を落とす高さだが、伊賀の頭領にとっては唯一の、死中に活を求める賭けであった。


 盛清の部下たちがすぐさま追撃しようと動いたが、盛清はそれを片手で静かに制した。

「追うな。逃がせとの仰せだ」

「よろしいのですか、頭領。あれほどの男、ここで仕留めておかねば、のちの憂いとなりましょう」

「勝頼様の御意図は、あやつの物理的な死ではない」

 盛清は、半蔵の腕から滴り落ち、地面を黒く汚した鮮血を冷ややかに見下ろした。

「あやつが今、心に深く刻み込んだのは『武田には、己の思考そのものを完全に掌握している化け物がいる』という、死よりも重い呪いなのだ。それを家康の元へ、その絶望という名の毒を持ち帰らせることこそが、勝頼様の望む真の戦果だからな」


 深い闇の中、逃げ延びる半蔵の乱れた呼吸と、木々を揺らす足音が次第に遠ざかっていく。

 武田の野営地を包囲し、情報を抜き取ろうとしていたはずの徳川の影は、今や逆に「勝頼という名の巨大な知性」によって内側から完全に侵食され、恐怖を植え付けられていた。


 盛清の背筋にも、勝頼への忠誠を遥かに超えた、形容しがたい戦慄が走っていた。勝頼の見せている景色は、日ノ本のいかなる軍学書にも一行も記されていない、絶対的な知の力であった。

 こうして、直接的に軍勢同士が刃を交えることなくして敵の心を折る、新しい戦いの幕開けが、深い三河の山中でひっそりと、しかし確実に告げられたのである。

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