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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第三十五話:羅網看破

第三十五話:羅網看破


 国境を越え、険しい山道に、武田の軍勢は長大な列を為して西へと突き進んでいた。

 主要な街道を往く武田信玄の本隊およそ二万余りは、まさに武田の黄金時代そのものといった勇壮な行進を続けていた。赤備えをはじめとする名だたる猛将たちが競い合うように放つ気迫は、道行く村々の空気を震わせ、天下を飲み込まんとする巨大な意思の塊であった。


 対して、それより数刻遅れ、人目の少ない険しい間道を選んで進む別働隊は、気味が悪いほどの完全な静寂を保っていた。

 その数は、わずか一千。

 陣太鼓が刻む単調な響き以外、甲冑の擦れる音も、足軽たちの私語も、足音の乱れすらも一切ない。日が落ちれば、定められた手順に従い、一言の号令もなく瞬く間に野営の陣が敷き終わる。火の扱いから見張りの配置に至るまで、感情を殺した兵たちが冷たく正確に時を刻むだけであった。


 その不気味な一千の野営地を、遠く離れた深い森の暗闇の中から、じっと注視している影があった。

 徳川家康の懐刀と恐れられる伊賀の頭領、服部半蔵である。

 半蔵の胸中には今、深い混乱と得体の知れない悪寒が渦巻いていた。配下の草の者たちが命懸けで集めた知らせにより、この奇妙な一千の別働隊を率いている大将の正体が、ようやく判明したからである。


(武田四郎勝頼……。謀反の疑いで世を去った嫡男の義信に代わり、事実上の武田の後継者と目されている男が、なぜこのような後方にいるのだ)

 半蔵の常識からすれば、到底あり得ない陣立てであった。武家において次代を担う後継者ならば、本隊の重要な一角を任されるか、あるいは華々しく先陣を切って己の武勇を天下に示すのが習いである。ましてや武田は、一族の結束と武功を何よりも重んじる家柄のはずだ。

 それがなぜ、本隊から遠く切り離され、わずか一千という小規模な、しかも騎馬すら持たぬ足軽ばかりの部隊を率いて、ひっそりと息を潜めるように進軍しているのか。信玄の勘気を買い、戦の表舞台から追放されたのか。


 しかし、半蔵の研ぎ澄まされた忍びの直感は、その安易な推測を全力で否定していた。

(冷遇された者の軍勢ではない。この一千の兵が放つ、音を殺した異質な重圧は何だ。個人の感情や手柄への執着が微塵も感じられぬ)

 半蔵は決断した。信玄本陣の様子を探ることも重要だが、この勝頼という男の底を測らねば、徳川は取り返しのつかない事態に陥るような気がする。あえてこの不気味な別働隊の野営地に潜入し、その真意と実態を暴き出す必要があると。


 同時刻、勝頼の仮本陣。

 行灯の火を極限まで絞った天幕の中に、真田源太左衛門尉昌幸と、透波の頭領である出浦盛清が音もなく呼び出されていた。

「……勝頼様。徳川の放った鼠どもが、すでに我らの警戒圏内へと深く侵入いたしました。数は十前後、かの服部半蔵本人の気配も間違いなく混じっているとのことにございます」

 盛清の低い報告には、隠しきれない緊張が混じっていた。

 忍び同士の暗闘は、本来不確定な要素の塊である。敵の忍びが闇のどこから現れ、何を狙ってどのように動くのか。それを未然に察知し防ぐのが盛清ら武田の透波の役目だが、服部半蔵ほどの凄腕を相手にするには、いかに厳重な網を張っても必ずどこかをすり抜けられる。盛清も昌幸も、自陣の奥深くを探られることへの強い危機感を抱いていた。


 しかし、勝頼は一片の動揺も見せず、卓上に広げられた詳細な野営地の見取り図の上で、扇子の先を三つの箇所にぴたりと止めた。

「昌幸、盛清。奴らがこの陣に近づくために選ぶ道は、この北西の涸れ沢、東側に群生する赤松の根元、そして荷駄を運び込む南の柵門の裏手だ。……亥の刻の終わり、月が雲に隠れるその瞬間に、奴らは必ずこの三箇所のいずれか、あるいは三箇所同時に姿を現すだろう」


 勝頼の言葉は、神仏の予言というにはあまりに冷たく無機質で、確固たる答えを読み上げるような響きを帯びていた。

「な……勝頼様、なぜその場所と時刻がはっきりと分かるのですか。出浦ら武田の透波でさえ、いまだ奴らの正確な潜入の経路は掴みきれておりませぬぞ」

 昌幸が思わず問い返した。

「理屈だ、昌幸。人の選択には、必ず己の生存の確率を高めようとする無意識の偏りが生じるのだ」


 勝頼の脳裏には、中原の宮廷で、軍師である陳宮が煤けた灯火の下で静かに筆を走らせていたあの夜の姿が甦っていた。

『敵の侵入を防ぐため、全方位に等しく手厚い守りを敷くのは、かえって下策にございます。敵の最も優秀な者が、ここしかないと確信して飛び込んでくる絶好の死角を、こちらが意図的に計算してあらかじめ用意してやるのです。人は自らの知恵を頼みとしますので、己が最も賢いと信じた瞬間にこそ、最も容易く我らの予測の中に収まるものです』


 勝頼は昌幸の目を見据え、一際低い声で続けた。

「服部半蔵は、名にし負う老練な忍びの達人だろう。だからこそ、奴は最も合理的で、最も成功の確率が高く、かつ相手が盲点としている場所を必ず選ぶ。……この野営地の起伏、今宵の風向き、月の落ちる角度、そして我らが配置した見張りの兵が交代するわずかな時差。それらの条件をすべて計算の型に当てはめれば、奴が己の命を懸けて踏み込んでくる座標は、必然的にその三点に絞られるのだ」


 昌幸の背筋を、強烈な戦慄が駆け抜けた。

 目の前の主君が見ているのは、武功や戦術といった表の世界の戦いだけでなく、忍びの術という裏の不確かな技の応酬すらも完全に支配する領域であった。敵の思考や心理の動きをすべて計算で処理し、相手の選択をあたかも自然に選ばせたかのように強制することで、読み切る。

 もはや、人間同士の化かし合いではない。絶対的な知恵の格差による、情報の完全な支配であった。


「盛清。そなた自ら精鋭を率い、その三点にあつらえたように潜ませた伏兵を置け。……だが、決して服部半蔵本人は殺してはならぬ」

「殺さず、にございますか。しかし、あれほどの忍びをみすみす逃がせば、こちらの布陣の情報が家康の元へと漏れましょう」

「構わぬ。むしろ、知らねばならぬのだ。刃を交えず、ただ奴らの退路を塞ぎ、そしてわざと少しだけ隙を開けて逃がしてやれ。奴に、己の思考のすべてが事前に読み取られ、掌の上で踊らされていたという絶望的な不自由さを、骨の髄まで分からせてやるのだ」


 勝頼の冷え切った瞳には、容赦のない意志が宿っていた。

「肉体を傷つけるよりも、己の知恵が全く通じぬ怪物がいるという真実を持ち帰らせる方が、敵の心にはるかに深い絶望を植え付けることができる。家康の心に、決して消えぬ暗い恐怖の種を蒔いておくのだ。……行け、盛清。敵の最も賢い鼠に、絶対の理の恐ろしさを叩き込んでこい」


 深く平伏した盛清が、音もなく闇へと消えた。

 天幕の外では、勝頼が予告した亥の刻の終わりが、一秒の狂いもなく確実に近づいていた。


 深い闇の中、半蔵は息を殺し、自らの勘と計算によって選び抜いたただ一つの侵入経路へと歩みを進めようとしていた。

 しかし、彼を待ち受けているのは、偶然の隙などではない。勝頼が冷徹に敷いた、逃れようのない知恵の網であった。

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