第三十四話:残照西上
第三十四話:残照西上
評定が散会した後の躑躅ヶ崎館は、数月ぶりに古き良き武田の荒々しい熱狂を完全に取り戻していた。
薄暗い廊下を行き交う将兵の足音は重く猛々しく、武者たちの間では、理屈ばかりをこね回す頭でっかちな若造がようやく戦の表舞台から退けられ、御館様の圧倒的な武威が戻ってきたのだという歓喜が、地鳴りのような喧騒となって渦巻いていた。
「見たか、あの若殿の顔を。戦は算盤と理屈でするものではないということを、御館様が直々に教えられたのだ。これで少しは、武士の何たるかを思い知ったであろう」
山県昌景は赤備えの具足を鳴らしながら、意気揚々と声を張り上げていた。その傍らでは馬場信春が、胸をなで下ろしたように深く頷いている。彼らにとって、先の軍議で下された勝頼の別働隊への追放は、単なる軍の分割ではない。自分たちが生涯を懸けて磨き上げてきた武士の美学と矜持が、主君の手によって守り抜かれたという、何よりの勝利宣言であった。
宿老たちは先を争って陣触れを出し、これから天下を震撼させるであろう最強の騎馬軍団の出征に心酔していた。その背中には、兵站の不安という不吉な予感など微塵もなく、ただ輝かしい上洛への夢だけが、鮮やかな軍旗となって冬の風に翻っていたのである。
その喧騒から遠く離れた、館の北外れの離れ。
武田勝頼は、冷え切った自室の静寂の中で、真田源太左衛門尉昌幸と対峙していた。
「……昌幸。あの宿老たちの浮き立つ声が聞こえるか。あれこそが、父上が自ら命を懸けて燃やし尽くそうとしている武田の残照よ」
勝頼の言葉は、氷のように冷たく、それでいて深淵のような重みを孕んでいた。
(一度目の生において、わしにとっての父上は、決して乗り越えることのできない峻厳な絶壁であったな……)
勝頼は目を閉じ、遠い過去の記憶を呼び起こす。
常に偉大なる父の顔色を窺い、家臣たちに己の才覚を認められることを渇望し、源氏の嫡流としての重圧に押し潰されそうになりながら、それでも父の遺した巨大な遺産を守ろうと必死に足掻き続けた。だが、その結末は長篠の泥濘であり、天目山の悲劇であった。
当時の勝頼は、信玄という大将の威光に怯え、その偉大さを自らを縛る呪いのように感じていた。父が自分を心底では信じていないのではないか、自分は父の築き上げた武田を枯らす不肖の息子なのではないかという得体の知れない恐怖が、一歩ごとに彼を苛み、致命的な焦りを生んでいたのである。
しかし、はるか中原で民を法と理で操る天子として生き抜き、三度目の生を得た今の勝頼にとって、父に対する想いは劇的な変容を遂げていた。
(かつてのわしは、父上の背中にある強大な武だけを見て、その影に怯えていた。だが、今のわしにははっきりと見える。あの病に蝕まれた背中に隠された、悲壮なる浄化の覚悟がな)
今の勝頼には痛いほどに理解できていた。信玄は、勝頼がもたらした冷徹な理が、これからの武田を永続させるための唯一の正解であることを、誰よりも早く、そして正確に察知出来ているのだ。
しかし同時に信玄は、その理をどうしても受け入れられない古き家臣たちの心の限界をも完全に悟っていた。このまま甲斐にこもって内政の縛りを強めれば、家中の古き者たちは必ず勝頼を拒絶し、武田は内側から自壊することを。
ならば、自分という先代の棟梁が、古き時代の象徴として、宿老たちの行き場のない執念も、武士の誇りも、すべての責任を背負って戦場という名の火葬炉へ飛び込む。そこで自分もろとも旧弊を完全に焼き尽くすことで、新世代の息子に、古い不純物の残らない真っ白な武田を託そうとしている。
(父上……。あなたは、かつて若き日に自らの父を駿河へ追放した時と同じ、身を切るような非情な孤独を、今度は自らを歴史から排除することで味わおうとしているのですね)
勝頼の暗い瞳の奥に、深く静かな熱が走る。それは単なる肉親への情を超えた、同じ孤独な高みに立つ者同士の共鳴であった。勝頼は、父が西上を選択することは予測していたものの、まさか、息子が一人で古い怨念を背負うのを助けるために、自らを歴史の生贄として投げ捨てようとしてくれるまでは考えられてなかったのだ。
勝頼はゆっくりと目を開き、居住まいを正して昌幸に鋭い眼光を向けた。
「昌幸。父上の深い慈悲にただ甘えるのは、ここまでだ。わしは、父上が仕掛ける敗北を前提とした壮大な救済を、さらに外側から包み込む大網を構築する。今武田の蔵にある黄金と、発行した手形をすべて注ぎ込め」
「御意にございまする。……それはつまり、本隊の宿老たちが進む主要街道の先々、遠江や三河の村々の庄屋や寺社に対し、商流を装って我らの手で秘密裏に食料と医療品を買い集め、各所に秘匿させておく、ということでございますな」
昌幸の問いに、勝頼は微かに頷いた。
「そうだ。宿老たちが信じて疑わぬ力押しの武威が破綻し、彼らが腹を空かせて泥を啜る状況となったその瞬間、彼らは初めてわしが口にしていた理の重要さを、己の干上がった胃袋で知ることになる。……わしは、彼らをただ見捨てるようなことはせぬ。父上に輝かしい勝利をお渡し、彼らの燃やしきった魂の欠片を、わしの理で拾い上げ、必ずや新しき国の一部となるよう鍛え直してやるのだ」
「はっ。勝頼様の思い描くその深き網、この昌幸の手で寸分の狂いもなく張り巡らせてご覧に入れまする」
7日の後、初冬の刺すような冷たい風が吹き荒れる中、武田の軍勢二万五千が甲府を大々的に出陣した。
先頭を行く信玄の本隊およそ二万余りは、山県昌景や馬場信春ら名だたる宿老たちが誇らしげに馬首を並べ、華やかな軍旗を風に躍らせていた。彼らは、勝頼がかつて提言した兵站の危機など、御館様の天命と自分たちの武勇がすべて解決すると信じて疑わなかった。その華麗で圧倒的な進軍は、まさに武士の時代の最高の、狂い咲くような輝きを放っていた。
一方で、最後尾から数刻遅れて静かに動き出した、勝頼率いる一千の別働隊。
そこには勇ましい鬨の声もなく、法螺貝や陣太鼓の勇壮な軍楽もない。ただ、跡部勝資が打ち鳴らす銅鑼の一定の無機質なリズムに合わせ、足軽たちが機械的な正確さで地面を鳴らし、ひたすらに無言の行進を続けていた。
本隊の放つ情熱の不協和音と、別働隊が奏でる理の律動。
その対照的な二つの音は、武田という一つの家が二つに割れた証ではない。武田という巨大な怪物が、古い皮を脱ぎ捨てて永続する法の国へと脱皮しようとする、あまりにも過酷で静かな産声であった。
「昌幸。父上の熱き戦は、いずれ遠江の空の下で終わりを迎えるだろう。……だが、我ら武田の真の戦は、ここからが始まりなのだ」
勝頼は、馬上から遥か前方を往く信玄の風林火山の旗印を、かつての恐怖や焦燥ではなく、深甚なる敬愛を込めて見つめていた。
その長大で威圧的な行軍を、沿道の雑木林の深奥から、感情を完全に消し去った無機質な瞳で見つめる影があった。徳川家康が放った忍びの頭領、服部半蔵である。
「……信玄本隊のすさまじい威圧感は、相変わらず厄介なことよ。兵の数も二万を優に超えている。しかし、それよりも最後尾を進むあの別働隊が放つ、異質な重圧は何だ。武田は、ただの武張った戦国大名ではなくなりつつあるのか」
半蔵の背中に、冷や汗が伝った。赤備えの突撃ならば対処のしようもある。だが、あの無言で歩調を合わせるだけの一群は、今までのいかなる軍勢とも異なる不気味さを漂わせていたのだ。
半蔵は、自らの主君へと一刻も早く持ち帰るべき、得体の知れない最悪の予感を胸に抱き、深い闇へと溶け込んでいった。
武田軍の華やかな西への大行進。だが、それは勝頼にとっても、新しき時代のための苛烈な整地への幕開けであったのである。




