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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第三十三話:猛虎深淵

第三十三話:猛虎深淵


 一千の足軽を引き連れて別働隊として勝手に動けという、大将からの苛烈な厳命。事実上の本隊からの追放宣告に対し、勝頼は一片の反発も見せることなく、ただ静かに頭を下げて大広間を後にした。


 勝頼の背中が完全に障子の向こうへ消え去ると、評定の間の空気は、堰を切ったように安堵と嘲笑の入り混じったものへと変わった。

 山県昌景や馬場信春ら歴戦の宿老たちは、互いに目配せをして深く息を吐き出した。彼らの目には、勝頼の退出は、戦の現実を知らぬ若造が理屈をこね回した挙句、大将の怒りを買って哀れに尻尾を巻いて逃げ出したようにしか映っていなかった。

 これで心置きなく、自分たち古参の武将だけで戦の表舞台にて戦をすることができる。武田の誇り高き戦の真髄を、天下の者どもに存分に見せつけることができるのだと、彼らの胸の内は出陣の熱狂と優越感で満たされていた。


 その喧騒と熱気を上座から見下ろしていた武田信玄は、宿老たちに手短に出陣の支度を命じると、静かに評定の間を後にした。


 館の最深部、厳重に人払いがなされた暗い寝所に戻った信玄は、布団の上に身を横たえるや否や、激しい咳の痛みに身をよじった。

「……ごほっ、ごほっ、はぁ……っ」

 胸の奥から込み上げる熱く生臭い鉄の匂い。手にした懐紙には、先ほどまで無理やりに飲み下していた赤黒い鮮血がべったりと吐き出されていた。己の命の灯火が、文字通り風前の灯であることを、信玄の肉体そのものが残酷なまでに告げている。


 だが、その衰え切った病身とは裏腹に、信玄の意識は驚くほど静寂の深淵に沈み込んでいた。


(……見事だ、四郎。そなたが広間で突きつけてきたあの兵站の予測、何一つとして間違っておらぬぞ)

 信玄は、血に染まった懐紙を握りつぶし、暗い天井をじっと見上げた。

 勝頼が突きつけてきた兵糧の備えの致命的な不足も、西の物流を完全に握り込み始めた織田信長の恐ろしさも、天下の戦場を俯瞰し続けてきたこの大将の眼から見れば、決して目を背けることのできない絶対的な正解なのである。


 いかに我が軍が精強であろうとも、腹が減れば兵は動けぬ。算段もなく敵地での略奪に頼れば、たちまち民心を失い、一揆を誘発し、やがて軍は内側から崩壊する。そして、何より武田の兵は領地に縛られ、季節が来ればそれぞれの土地に帰らねばならないのだ。死の淵にある信玄の濁りなき目には、勝頼が構築しようとしている、個人の突出した武勇に依存しない常備の兵による不変の国の骨格こそが、これから先の長い年月を武田が生き残るための、正しい道であることがこの数ヶ月の間で痛いほどに理解してしまっていた。


 それゆえに、信玄はあえて鬼となる道を選んだのである。

 信玄の脳裏には、かつて若き日に、自らの手で実の父である信虎を駿河へと追放した際の、あの凍てつくような雪降る夜の記憶が、鮮烈な痛みを伴って焼き付いている。当時、自分は武田という家の存続のために、時代の流れを読めず国を疲弊させていた父を、冷酷に排除した。血を分けた親を捨てるという非情を背負ってでも、前へ進まねばならなかったのだ。

 そして今、歴史は残酷なまでに形を変え、再びこの躑躅ヶ崎館で繰り返そうとしている。


(四郎よ。そなたの理は、これからの国を統べる為政者として間違いなく正しい。だがな、この国をこれまで支えてきた古き武士たちは、まだそなたの冷徹な理についていくことはできぬのだ。彼らにとって、そなたの無慈悲な正しさは、己の生きてきた証と誇りを根こそぎ否定し、生き恥を晒させる残酷な暴力に他ならぬ)


 信玄は、先ほどの広間で歓喜に沸いていた山県や馬場の横顔を思い出し、深い憐れみを含んだ嘆息を漏らした。

 彼らが出陣の号令に狂喜しているのは、決して天下を取れるという勝利の算段があるからではない。自分たちの美学と生き様が通用した、あの輝かしい古き時代への未練と逃避に過ぎないのだ。

 もしこのまま、四郎の冷たい内政の檻に彼らを閉じ込め続ければどうなるか。四郎の理が完全に完成する前に、必ずや力ある家中の鬱屈が限界を超え、古き武田は自ら粉々に砕け散ってしまうだろう。


(ならば……このわしが連れて行く。このわしが、旧き時代の象徴として、宿老たちの行き場のない執念も、古き武士の誇りも、そのすべてを引き連れて、戦場という名の巨大な火葬炉に身を投じてやる。そこで彼らの命の炎を極限まで燃え上がらせ、一息に燃やし尽くすことこそが、わしが彼らにしてやれる最後の大仕事よ)


 信玄の胸の内に秘められたこの西上作戦の真の姿は、もはや単なる領地拡大や天下への野望といった域を遥かに超えた、武田家そのものの巨大な浄化であった。

 あえて兵站の不安に目を瞑り、不合理な西への進軍を強行する。そこに必ず生じるであろうすべての不備、すべての苦難、そしていずれ敗れ去るであろう旧き時代の戦法への恨み言を、自分という大将の墓標と共に、歴史の闇の底へ完全に葬り去るつもりなのだ。その後には、反対する勢力がすべて消え去り、旧弊という名の膿をきれいに出し切った、四郎のための汚れなき国だけが残されることとなる。


 勝頼を広間で激しく叱責し、本隊から無慈悲に切り離したのも、息子を真の支配者として君臨させるための、最も愛情深く、残酷な布石であった。


(宿老どもは今、兵站の全権を任されたと意気揚々としておるが、勝頼の言う通りになれば、いずれ飢えと疲労に苦しむ時が来る。時代遅れの力押しの戦法が限界を迎え、兵が泥を啜る地獄を見た時……その悲惨な有様を、四郎、そなたは外側から一切の情を交えずに冷徹に眺めておれ)


 信玄の口元に、凄絶な笑みが浮かんだ。

 宿老たちが万策尽き、兵糧の欠乏に完全に絶望したその瞬間に、きっと直轄の市場と銭の力で豊富な物資を蓄え、無傷の兵を率いた勝頼が、彼らの前に悠然と姿を現すのだ。

 その時初めて、山県も馬場も、己の考えの甘さと古き戦の限界を骨の髄まで思い知り、誇りを完全にへし折られる。そして、己らの命綱を握る勝頼の理の前に平伏することになるのだ。

 信玄は、愛する宿老たちの誇りを戦場で華々しく散らすと同時に、生き残る者たちに四郎への絶対の服従を強いるという、二重の罠を仕掛けたのである。


「……四郎よ。きっとそなたは、すべて分かった上で、わしに泥を被らせる大根芝居を打ったのだろうな」


 信玄は一人、暗い寝所の中で低く呟いた。

 広間での言い争いの最中、息子の瞳の奥に宿っていた氷のような静寂。四郎は、信玄が己の命と引き換えにこの行動に出るであろうこと、最初から完璧に見透かしていたようだった。その上で、父の決断を尊重し、あえて憎まれ役として対立を演じ切り、自ら別働隊へと退いたのだ。


 信玄の心は、かつてないほどの誇らしさと、そして身を引き裂かれるような深い悲しみに満たされていた。

 天下に甲斐の猛虎ありとして、自らの存在を残したいという気持ちは本物だ。しか、自分という存在を遥かに乗り越え、遠い地平を見つめている息子。その若き後継者の未来を守るためならば、己の最後の出陣が無謀な企てであったと後世に嗤われ、不合理に走った老害として歴史に名を刻まれることになっても、いっそ本望である気がしてきた。


(四郎……。わしが己の命もろとも古き武田を焼き尽くした後、誰も見たことのない強固な国を築き上げよ。……このわしの死の運命さえも、そなたの算段の一部としてすでに計上されているのならば、それこそが、乱世に生きた父と子の、最後にして最高の愛情の形ではないか)


 信玄の視界が、ふと薄闇の中で滲んだ。

 大広間で繰り広げられた宿老たちの狂おしいほどの熱狂と、その中心で静寂を保って向き合った父と息子。

 それは、武田という家が真の国へと脱皮するための、最も残酷で、最も慈愛に満ちた継承の儀式であったのである。

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