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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第三十二話:兵站論争

第三十二話:兵站論争


 「おおおおっ」

 宿老たちが一斉に上げた勝ち鬨が躑躅ヶ崎館の太い柱を震わせ、出陣の熱狂がまさに頂点に達しようとしたその時であった。


「……父上の御決断、しかと承知いたしましたが、同じく陣を張る者として、出陣の前に諸将へ明確な事実を突きつけておかねばなりませぬな」

 勝頼の氷のように冷たく、しかしよく通る声が、地鳴りのような勝ち鬨をすっぱりと断ち切った。


 大広間を支配したのは、耳に痛いほどの沈黙と、出陣の熱狂に冷水を浴びせられた歴戦の将たちが放つ、強烈な憤怒の熱気であった。


「……事実、だと。この期に及んで、軍の士気を削ぐような真似を申すのか」

 上座の武田信玄が、地を這うような低い声で繰り返した。その眼光は、死の淵にある者のそれとは思えぬほど鋭く研ぎ澄まされ、実の子である勝頼を射抜いていた。山県昌景は今にも太刀の柄に手をかけんばかりに肩を震わせ、馬場信春は深い嘆きを隠さぬように目を伏せた。


 勝頼はその殺気の中に、たった一人で端座していた。しかし、彼の瞳に宿るのは、血気にはやる若者の無鉄砲な反抗ではない。かつて広大な中原を平定した帝王としての、底冷えのするような透徹であった。

「父上。我が軍を西へ進める気ならば、二十万石という兵糧の備えが必要でございます。我が軍三万が遠江、三河を越え、さらに尾張を貫いて長きにわたり戦線を維持するには、最低でもそれだけの兵糧が不可欠にございます」


 勝頼は懐から、真田昌幸や跡部勝資らと共に密かに完成させた兵站予測の絵図面を取り出し、畳の上に広げた。そこには、進軍経路ごとの物資の消費率と、道中で調達可能な米の限界値が、残酷なまでに正確な算術と共に記されていた。

「現状の我らの荷駄の輸送力と甲斐の備蓄、それに金山の余剰金をすべて投じたとしても、七日後の出陣までに用意できるのは、恐らくは十万石が限界にございます。残る十万石をいかにして調達なされるおつもりか。この算段がつかぬまま西へ向かえば、いずれ必ずや取り返しのつかぬ苦難が訪れ、本隊は二月と経たずに飢えに喘ぎ、自壊いたしましょう」


「算盤の数字で戦を語るのですか、若殿」

 馬場信春が、喉の奥から絞り出すように言った。

「武田の強さは、兵の練度と御館様の神算鬼謀にございます。腹が減れば敵の城から、あるいは道中の村々から奪えば良い。それを案じて天下への好機を逃すなど、武士の風上に置けぬ振る舞いにござる」


「奪えば良い、か。その奪うべき敵地を、既に完全に握り込んでいるのは誰かを忘れたか」

 勝頼は信春の言葉を、冷徹な事実で切り捨てた。

「織田信長は、上方や堺の商人を使い、既に西の物流を銭の力で縛っているのだ。我らの進軍に合わせ、銭の価値を操作して我らの買い付けを組織的に妨害することすらも可能。敵の領地で米を奪おうにも、奴らならばあらかじめ道中の村々を焼き払い、一粒の米も残さぬ焦土の策に出る覚悟すら持っておる。……猛将の武勇だけで飯は食えぬのです」


 勝頼は、かつて中原の歴史で学んだ圧倒的な事実を突きつける。

「いかに知略に優れ、天下無双の英雄であれども、兵站が破綻すれば軍は瓦解する。飢えた兵が泥を啜り、ついには互いを食い合う地獄となるのだ。英雄たちの骸を積んだ歴史の痛烈な教訓を、なぜ無視するのか。不足分を補う算段がなければ、途中で必ず本隊の足は止まるのだぞ」


 勝頼の脳裏には、一度目の生で見た凄惨な光景が焼き付いていた。

(……長篠のぬかるんだ泥の中で、飢えと疲労に喘いだそなたらは、鉄砲の雨を浴びて無残に死んだのだ。わしは、その不備を二度と歴史に刻ませぬと誓ったのだ)


 だが、その冷徹な正論は、出陣の熱狂に沸く宿老たちには届かない。山県昌景が畳を力強く叩いて立ち上がった。

「若殿。それは戦を、町人の商いと同じに考えておられる証拠。我が赤備えが先陣を切り、敵の胆を潰せば、理屈など後からついてくるものにございまする。それを兵糧の数字などで大軍の足を引っ張るとは何事か」


「静まれッ」

 信玄の重厚な怒声が広間を震わせた。

 信玄は震える手で膝を叩き、息子を睥睨した。だが、勝頼はその父の瞳の奥に、怒りとは別のわずかな揺らぎを見た。それは、自分の正しさを息子が堂々と証明し続けていることへの、隠しきれない安堵と慈愛であった。


(……父上。あなたは、わかっているのだな。この進軍がはらむ兵站の危うさを。だからこそ、あえてわしに不合理な怒りをぶつけておられるのだ。わしを大軍の兵站の責務から完全に切り離し、算段の甘い宿老たちにすべての重荷を背負わせるために)


 信玄はわざと軍配を床に叩きつけるように置いた。

「わしは天命を掴んだと言っておるのだ。四郎、そなたの言葉には、武士としての魂が一分も宿っておらぬ。腹が減るのを恐れて戦ができるか。……昌景、信春」

「ははっ」

「本隊三万の陣立て、および道中における兵糧の調達と差配のすべてを、そなたら宿老たちに一任する。四郎の言うような算盤の理屈が戯言であることを、そなたらの武勇と知恵で天下に証明してみせよ」

「承知つかまつりました。必ずや、武田の戦の真髄をお見せいたしましょう」

 昌景らは、誇らしげに胸を張り、深く平伏した。彼らにとって、本隊の全権と兵站の管理を任されたことは、自分たちの武家としてのやり方が完全に認められたという勝利の証であった。


 信玄は再び勝頼へと冷たい視線を向けた。

「四郎。そなたは別働隊として動きたいと言っていたな。良かろう。戦を恐れ、数字ばかりをこね回す者を本隊に組み込むわけにはいかぬ。そなたは、自ら集め、奇妙な歩調の調練を重ねていたあの一千の足軽どもを引き連れ、別働隊として勝手に動け。本隊の指揮にも、兵站にも一切関わるな。己の食い扶持は己の算段でどうにかしてみせよ。足手まといになるようならば、容赦なく切り捨てるぞ」


 突き放すような厳命であった。大軍から切り離され、わずか一千の兵で別行動をとれというのだ。

 この処分を聞いた山県や馬場ら宿老たちは、胸の内で密かな安堵と留飲を下げる思いを抱いていた。二俣城の功績で少しばかり頭でっかちになり、口うるさく数字を並べ立てていた若殿も、御館様に一喝されてこれで己の青さを思い知るだろう。戦の何たるかをあらためて学ばせるには、少しは良い薬になったはずだ、と。


 だが、勝頼は一片の動揺も見せず、ただ静かに頭を下げた。

「……御意にございます。我が一千の別働隊、御館様や諸将の御手を煩わせることなく、己の理に従い、独自に動かせていただきまする」


 父と息子の視線が、激しく火花を散らした。

 末席でそのやり取りを息を殺して見つめていた真田昌幸は、再びその恐るべき真実に到達し、全身に鳥肌を立てていた。

(……なんという恐ろしき手立てか。勝頼様は、大将に叱責されて引き下がったのではない。自ら望んで本隊という泥舟から降りたのだ)


 宿老たちは己の武勇を証明するために意気揚々と本隊の兵站の責任を引き受けたが、その実、自らの首に死の縄をかけたことに気付いていない。織田の経済封鎖や焦土の策に遭えば、彼らの力押しによる兵糧調達はきっと破綻する。本隊が飢えと疲労に苦しみ、完全に立ち往生した時、どうなるか。

 本隊の兵站に関わるなと命じられた勝頼は、己の別働隊一千の兵糧と銭の巡りだけを、甲府の直轄市場と新しい貨幣によって完全に潤沢に保つことができるのだ。宿老たちが万策尽き、絶望したその瞬間に、豊富な物資と無傷の常備兵を率いた勝頼が悠然と現れる。

 その時、誇り高き山県も馬場も、己の非を認めて勝頼の前にひざまずき、兵糧を乞うしかなくなる。武士の誇りをへし折り、彼らに勝頼の絶対的な理を魂の底から服従させるための、これはあまりにも残酷で完璧な布石であった。


 武勇と天命を叫び、旧時代の幕引きをその背に請け負う父。

 数理と兵站を説き、自らの兵だけを切り離して新しき時代を冷徹に担う息子。

 二人の決裂を装った完璧な芝居は、誰の目から見ても対立に見えた。だがそれは、誇り高き武田の宿老たちを次代へに向けて平伏させるための、苛烈で容赦のない罠だったのである。

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