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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第三十一話:猛虎西上

第三十一話:猛虎西上


 真夜中の躑躅ヶ崎館を、腹の底を重く揺るがすような陣太鼓の音が打ち破った。

 それは、数月のあいだ館を支配していた、ただ歩調を合わせるだけの無機質な調練の音でもなければ、文官たちが算盤を弾く静謐でもなかった。かつて幾度となく甲斐の山々を震わせ、武田の将兵の血を沸き立たせてきた、正真正銘の出陣を告げる響きである。


 深夜の冷気も厭わず、具足を鳴らして大広間へと駆け込んできた重臣たちの顔には、一様に隠しきれない驚きと、それに勝る強烈な期待の熱が張り付いていた。

 上座に姿を現した武田信玄は、病で削げ落ちた頬を隠すこともなく、しかしその双眸には、死の淵にある者とは到底思えぬ凄まじい眼光を宿していた。その傍らには、表情を一切崩さぬ若き後継者、勝頼が静座している。


 信玄は、居並ぶ宿老たちをゆっくりと見渡し、重く、かすれた声で口を開いた。

「皆の者。長らく退屈な思いをさせたな。……これより、我が武田の全軍は西へ動く。遠江、三河を平らげ、尾張の織田信長を食い破り、この風林火山の旗を京の都に立てる」


 広間を包んでいた息詰まるような静寂が、その一言で完全に吹き飛んだ。

 一瞬の空白の後、爆発的な歓喜のどよめきが壁を揺らした。


「おおおおっ」

「ついに、ついに御館様の御下知が下ったぞ」

 真っ先に身を乗り出したのは、赤備えを率いる山県昌景であった。その小柄な体躯は小刻みに震え、目には熱い涙すら浮かんでいる。

「御館様。この日を、この昌景はどれほど待ちわびたことか。若き文官どもの算盤の音を聞かされる日々に、我が槍はとうに錆びつく寸前でございました。この赤備え、必ずや徳川の首級を山と積んでご覧に入れまする」


 昌景の絶叫に呼応するように、馬場信春や内藤昌豊といった歴戦の猛将たちも次々と声を上げた。

 彼らにとって、この数か月間はまさに屈辱と暗闇の日々であった。勝頼が持ち込んだ理への対応に追われ、戦場という己の存在意義を示すはずの場所を奪われていたのだ。信玄の出陣の号令は、彼らが時代遅れのおいぼれとして朽ち果てることを拒絶し、再び誇り高き武士として命を燃やす機会を与えられた、まさに救済の光に他ならなかった。


 広間が熱狂の坩堝と化す中、勝頼はただ一人、その光景を天空から見下ろすような氷の瞳で見つめていた。

 かつての軍議において、西への進軍を理をもって否定し、半年待てと進言したのは勝頼自身である。血気にはやる宿老たちは、今度こそ勝頼が反論の声を上げるに違いないと、挑発的な視線をちらちらと投げかけていた。

 だが、勝頼は微動だにせず、口を開こうともしなかった。


(……思う存分、喜ぶが良い。昌景、信春。そなたたちのその熱こそが、わしが求めていたものなのだからな)

 勝頼の胸の奥深くでは、極めて精密な計算が狂いなく回っていた。

 彼らがここで不満を溜め込んだまま甲斐に押し込められていれば、いずれその鬱屈は内側に向かい、国を腐らせることとなったはずだ。だが今、彼らは信玄から戦場という外側の場所を与えられ、最高の獲物を前にして命の炎を極限まで燃え上がらせている。


 勝頼は、上座で重臣たちの歓声を受け止める父の横顔を盗み見た。

 信玄もまた、自らの命が尽きる前に、彼らに最高の華を持たせようとしているのだ。この西への遠征では、補給の苦難は予想されるものの、遠江の三方ヶ原において武田の猛将たちは徳川の軍勢を完膚なきまでに叩き潰し、その武威を天下に轟かせることになるだろう。そして、その歴史的な大立ち回りの絶頂において、父は命を終えるのである。

 残されるのは、己の誇りを一度完全に燃やし尽くした宿老たちと、偉大なる大将を失うという底知れぬ喪失感だけだ。その上で、恐らくは遺言により喪に服すこととなる三年間という絶対的な静寂の中で、勝頼は誰にも邪魔されることなく、新しい法治の国を根底から組み上げればよいのである。


「四郎。そなたは、この出陣をどう見る」

 信玄が、ふと勝頼へと問いを投げかけた。広間の視線が一斉に勝頼に突き刺さる。

 勝頼は静かに姿勢を正し、深く頭を下げた。


「父上の御決断として、しかと承知いたしました。我ら武田の威光を天下に示すための必要な出陣と考えておりまする。この四郎も全霊を懸けて任を果たしましょう」


 その言葉に、山県や馬場らは拍子抜けしたような、しかし安心したような顔を見せた。

 理屈を捏ねて進軍を止めるかと思われた勝頼が、すんなりと大将の決定に従ったのだ。彼らにとってみれば、うるさい算盤侍が文句なく引っ込んでくれるのは好都合以外の何物でもない。戦の華は、すべて自分たち古参の宿老が独占できるだろう。


 だが、末席からそのやり取りをじっと見つめていた真田昌幸ただ一人は、背筋に強烈な悪寒を走らせていた。

(なんという……なんというおぞましい光景か)


 昌幸の目には、大広間で歓喜の声を上げる猛将たちが、まるで巨大な祭壇の生贄にしか見えなかった。

 勝頼は、一歩引いて信玄の決定に逆らえない素振りをしつつ、その実、これからの行軍の責任が宿老にあることを明確に線引きしている。恐らくはこの西上において、勝頼がかつて危惧していた兵站や補給の困難が必ず訪れるだろう。それは戦場でいかに山県たちが槍を振るおうとも、決して解決できない問題だ。そして今、それを解決出来る力を備えたのは勝頼の造り上げた組織だけであり、銭と物の命綱を握っている以上、いずれ宿老たちは勝頼を絶対者として認めざるを得ない状況に陥るだろう。

 そして信玄もまた、己の死と引き換えに彼らを戦場という死地に放り込み、武士としての最後の花道を用意してやったということであり、それは鬱憤の溜まる宿老たちを共に道連れにする意図は明白で、死後の勝頼の改革へのこれ以上ない後押しとなるわけだ。父と息子の両者が、互いの思惑を完璧に読み切った上で、この宿老たちを盤上の駒として使い潰そうとしている。


(御館様も、勝頼様も、一言も本音を交わさずして、これほどまでに残酷な絵図面を共有しておられるのか。……ここにいる者たちで、その真実に気付いているのは、恐らくわしだけであろう)

 昌幸は、己がこの途方もない怪物たちの側に仕え、裏の意図を知る数少ない存在であることに、恐怖を遥かに凌駕する狂おしいほどの悦びを感じていた。


 軍議は瞬く間に進み、各将の陣立てが次々と決められていった。

 先陣は山県昌景、それに馬場信春、内藤昌豊らが続く。これぞ武田が誇る最強の布陣である。

 一方で勝頼は、自らが新たに徴用し、無機質な歩調の調練を重ねてきた一千の常備兵を、別働隊として動かすことを願い出た。宿老たちはこれを「実戦で使い物にならぬ兵を隠したいのだ」とあざ笑ったが、勝頼の真意は全く別のところにあった。

 この一千の兵は、これからの新しき武田を支える土台となる純粋な兵である。彼らを旧時代の武将たちの手柄争いの巻き添えにして無駄死にさせるわけにはいかない。古い熱は古い者たちだけで処理させ、新しき種はしっかりと無傷で次代へと残す。それが勝頼の冷徹な配剤であった。


「出陣の刻限は、七日後の暁とする。皆の者、しっかりと準備し、存分に暴れてこい。天下に武田の恐ろしさを骨の髄まで刻み込んでやるのだ」

 信玄の重厚な号令が広間に響き渡る。

「おおおおっ」

 宿老たちが一斉に勝鬨を上げた。その声は館の柱を震わせ、甲府の夜空へと響き渡っていく。


 それは、武田家が天下に最もその名を轟かせる、輝かしい絶頂の響きであった。

 父と子の巨大な意思が絡み合う中、歴史を揺るがす過酷な西上作戦の幕が、ついに切って落とされたのである。

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