第三十話:大網始動
第三十話:大網始動
躑躅ヶ崎館の眼下に広がる甲府の町は、ほんの数月の間に全く異なる血脈の鼓動を響かせるようになっていた。
土煙を上げて馬を駆けさせ、血気盛んな武者たちが肩で風を切って歩く野卑な景色は消え失せた。代わりに町を埋め尽くしているのは、周辺諸国から押し寄せた商人たちの喧騒と、新たに鋳造された金貨が擦れ合う澄んだ音である。
甲府を直轄の巨大な市場として開放する。そして純度と重量を統一した金貨と、それを裏付けとする手形の発行により、勝頼は武田領内を流れる物の巡りそのものを、完全に己の掌中に収めつつあった。
「昌幸よ。商いというものを、ただ銭を稼ぐ卑しい行いと侮ってはならぬ。これは国という巨大な器に血を巡らせる、最も精緻な臓腑なのだ」
整然と区画が引かれた市場を見下ろす高台で、勝頼は背後に控える真田昌幸に静かに語りかけた。
「織田信長が古い権威を求めて京を押さえても、わしはこの甲斐に集まる圧倒的な富の引力で、奴の足元の土台を干上がらせてやる。戦とは、戦場で槍を交える前に、すでに帳簿の上で勝敗の理が定まっているものだ」
事実、甲府には他国の物資が流れ込み始め、西へ向かうための膨大な兵糧と武具の算段は、一定の成果を見せ始めつつあった。
だが、その盤石の備えを前にして、昌幸は勝頼の背に向かって密かに懸念を口にした。
「……勝頼様。商いが栄え、戦の備えが揺るぎなきものとなるのは重畳にございます。されど、山県殿や馬場殿をはじめとする歴戦の宿老たちは、槍を握る場を奪われ、若き文官の下風に立たされたことに、腹の底で煮えくり返るような鬱屈を溜め込み始めております。武士の誇りを踏みにじられたという彼らのあの熱、いずれ内側から暴発するやもしれませぬ」
昌幸の問いに対し、勝頼は振り返ることもなく、ただ冷ややかに口の端を吊り上げた。
「昌幸。そなたはわしが、古い武士どもの不満に気付いておらぬとでも思ったか」
勝頼は静かに振り返り、昌幸の眼を真っ直ぐに射抜いた。
「彼らが反乱を起こすとして、どうやって兵を動かすのだ。領地の米を売ろうにも、武田の印がなければ他国の商人には換金できぬ。武具を買い揃えようにも、商いの道はすべてわしの直轄だ。……既に牙を抜かれた古き虎たちは、ただ吠えることしかできぬだろう」
昌幸は息を呑んだ。勝頼は、宿老たちの反発を武力で抑え込むのではなく、彼らから軍を動かすための手足を、見えざる縄ですでに根こそぎ縛り上げていたというのだ。
「では、勝頼様はあの猛将たちを、誇りを奪ったまま牙の抜けた老いぼれとして見捨て、この国の片隅で朽ち果てさせるおつもりでございますか」
「捨てるだと?」
勝頼の瞳に、氷のように冷え切った光が宿る。
「わしはあの猛将たちを捨てるつもりなど毛頭ない。だが、感情で動き、手柄に固執する今のままでは、わしの創る国の中で彼らは不自由をすることになる。……昌幸、そなたの眼力ならば読めるはずだ。もし今、父上に万が一のことがあった場合、あの用意周到な父上は我らにいかなる遺命を残されると思うか」
唐突な問いに、昌幸は一瞬言葉を失い、素早く思考を巡らせた。
周辺には織田、徳川、上杉、北条という強敵が虎視眈々と隙を窺っている。その状況で、武田の絶対的支柱である信玄が身罷ったとすればどうなるか。
「……御館様が亡くなられたと知れれば、四方から敵が一斉に攻め寄せてまいりましょう。武田の崩壊を防ぐため、御館様はおそらく『己の死を三年間は秘匿せよ』と命じられるはず。国主の死を伏せたまま、外への戦を避け、領国を固く閉ざして守りを固めよ、と」
「左様。三年だ」
勝頼の言葉の重みに、昌幸の背筋が冷えた。
「国を根底から解体し、強固な理の国へと生まれ変わらせるには、最低でもそれだけの絶対的な時間と静寂が要る。だが、不満を溜め込んだ宿老たちがいては、その静寂は保てぬ。彼らの熱を、一度どこかで完全に燃やし尽くさせねばならぬのだ」
勝頼は、はるか遠く、西の空を見つめた。
「わしは軍議の席で、父上に半年待てと進言した。だが、己の命の炎が消えかけている猛虎が、ただ黙って寝所で死を待つはずがなかろう。……死期を悟った父上は、最後に己の命の残滓をすべて燃やし尽くし、武田の牙の恐ろしさを天下に刻みつけるため、必ず自ら動く」
その言葉を聞いた瞬間、昌幸の脳裏に、散らばっていた無数の点と点が、落雷に打たれたように一つに繋がった。
(……まさか。勝頼様は、御館様が反発して出陣されることすら、初めから待ち望んでおられたのか)
宿老たちの鬱屈。信玄の死への焦燥と大将としての誇り。それらすべてを、勝頼は一から十まで見透かしているのだ。
信玄が全軍を率いて西上すれば、山県や馬場ら不満を溜め込んだ宿老たちは、これ以上ない死に場所を得て、水を得た魚のように暴れ回るだろう。徳川を相手に、その生涯で最も輝かしい大立ち回りを演じ、武田の武威を天下に轟かせる。
そして、その歴史的な大勝の絶頂の後に、信玄は華々しく己の生涯を終えることとなる。
偉大なる主君を失った深い喪失感と、大勝の余韻。燃え尽きた宿老たちは、勝頼の法度と理に逆らう気力を失い、ある程度は従うこととなるだろう。その時に与えられるであろう三年の猶予こそが、勝頼がこの国を完全に造り替えるための、誰にも邪魔されぬ時間となるのだ。
(なんという……なんという恐ろしきお方だ)
昌幸の全身の毛穴が粟立ち、激しい戦慄が背筋を駆け抜けた。勝頼は、宿老たちの誇りも、やがて下されるであろう父の遺言すらも、すべてを自らの国造りの土台として利用し尽くそうとしている。情も恨みもなく、ただ淡々と歴史のうねりを己の掌の上で転がしているのだ。
昌幸は、深々と平伏するしかなかった。この若き後継者の眼には、人間の業すらもが、算段の具として映っているに違いない。
一方、その頃。
館の最深部、行灯の火が微かに揺れる静寂の中で、武田信玄は、自らの掌に吐き出された赤黒い鮮血をじっと見つめていた。己の死の足音は、もはや枕元に立ち、肩に手をかけている。だが、その瞳には、病者特有の焦燥と共に、天下の戦場を俯瞰し続けてきた大将としての、驚くほど澄み切った眼差しが宿っていた。
(……四郎。そなたの造り上げた新しい国の骨格、実に見事な出来映えよ。不満を抱くであろう宿老たちの手足を先に銭と物の網で縛り上げ、抗う術を奪い去ってしまった。この日ノ本に、そなたほどの理を真っ向から押し返せる大名などおらぬかもしれんな)
四郎の冷徹な手腕に任せておけば、武田家が内乱で割れることもなく、強固な国として永続していくだろう。信玄にもそれは痛いほどに分かってきていた。
だが、信玄という一人の天下人の魂は、算術では測れぬ人間の心というものの尊さと、その悲しき性を誰よりも熟知していた。
(四郎の理は正しい。だが、正しすぎるがゆえに、人の心の泥を掬い取る術を持たぬ。あの猛将たちの誇りをただ押し殺し、無用の長物として生き恥を晒させることなど、共に死線を潜り抜けてきたこのわしが断じて許さぬ)
信玄は、震える手で枕元の軍配をきつく握りしめた。
古い武士たちを、四郎の新しい国の中で無気力に腐らせてはならない。彼らが己の存在意義を疑うことなく、最も光り輝く熱を放ち、武士としての魂を極限まで燃焼させるための、壮大な大舞台を用意してやらねばならないのだ。
それこそが、情で彼らを縛り、戦場へと駆り立ててきた大将としての、最後にして最大の恩返しであった。
「……御館様、山県昌景、および重臣一同、拝謁を願いとうございまする」
閉ざされた障子の向こうから、昌景の重苦しく沈んだ声が響いた。入ってきた宿老たちの顔には、戦場での居場所を失い、銭勘定と法度で手足を縛られつつある者特有の、悲痛なまでの鬱屈が色濃く刻まれていた。
「……昌景。そして皆の者。そなたたちが何を思い、何を苦しんでいるか、このわしには痛いほどに分かっておる」
信玄の声は掠れていたが、かつて武田軍を率いて信濃を平らげた頃のような、途方もない威厳と慈愛を孕んでいた。
「四郎の進める理は、国を富ませ、永遠に保つためにはきっと正しいだろう。このまま間違いなく進んでいければ、いずれ武田は、誰もが飢えぬ強固な国となろう。だが……そなたらが心血を注いで磨き上げてきた武勇を、ただ無残に腐らせて消し去ることを、この信玄が許すわけにはいかぬのだ」
宿老たちの沈み切った瞳に、驚きと、そして失われかけていた熱き火が再び猛烈に燃え上がった。
信玄は静かに立ち上がった。その立ち姿には、死を目前にした病人の衰えなど微塵もなく、まさに天下という最大の獲物を見定めた老いた猛虎の、恐るべき凄みが宿っていた。
「四郎には半年待てと言った。あれは新しい国の土台を造るためには必要な刻限ということであったろう。……だが、わしにはもう待てぬぞ。四郎の理がそなたらの誇りを完全に窒息させてしまう前に、これより、我が武田の牙のすべてを以て、織田信長の野望を食い破るのだ」
信玄の眼光が、居並ぶ宿老たち一人一人を真っ直ぐに射抜いた。
「評定だ。直ぐに評定を開け。そなたらの内にくすぶるすべての熱を、戦場にぶつけよ。西への進軍こそが、我ら武士の意地を天下に轟かせ、その誇りを永遠の歴史に刻み込む唯一の道よ」
山県も、馬場も、その目に熱い涙を浮かべながら深く平伏した。彼らは信玄の言葉に、大将としての深い愛と、武士としての最高の戦場の賜り物を見出していた。
勝頼がすべてを計算し尽くして待ち構える巨大な大網と、信玄が己の命を代償に引き受けた武士たちの最後の花道。
互いの思惑が完璧に噛み合いながらも決して交わることのない、武田家を次なる時代へと引き渡すための、あまりにも過酷で壮絶な西上作戦が、今ここに幕を開けるのである。




