第二十八話:算盤国崩
第二十八話:算盤国崩
黒川金山の古き淀みを剛腕によって一掃した勝頼が、次に行ったのは、躑躅ヶ崎館の奥深く、政務の一室における静かなる国の仕組みの造り替えであった。
人払いをされた部屋に集められたのは、跡部右衛門尉勝資をはじめとする実務を司る若手の文官たちと、軍制の刷新を任されている真田昌幸だけであった。彼らの目の前には、これまでの武家の帳簿では見たこともない、縦横に細かい升目が引かれた白紙の束が山と積まれていた。
「昌幸、勝資。……これよりそなたらに、感情や勘ではなく、国を狂いなく動かすための『真の道理』を教える」
勝頼の声は、かつて中原の宮廷において、軍師である陳宮が卓を囲んで若い官吏たちを厳しく指導していた時と全く同じ、冷厳な響きを帯びていた。
勝頼の脳裏には、煤けた灯火の下で筆を執る、あの痩身の男の姿が鮮明に焼き付いている。
(国の運営に不可欠な銭と物の流れを、役人の情や主君への忠義などという、不確かな心に頼ってはなりませぬぞ。一文一粒に至るまで、ごまかしの利かぬ数字として明確に管理するのです。数字は決して裏切りませぬ。裏切るのは、常にその数字を管理できなくなった上の者の怠慢にございます)
かつて、0和帝として即位して間もない頃、勝頼は陳宮と共に、巨大な国の統治がいかにして内側から壊れていくかを実地で学んだ。
陳宮が持ち込んだ新しい計算の法を用いれば、数万人の兵を養うための兵糧の行方が一目瞭然となる。わずか三人の役人が、己の私腹を肥やすために少しずつ数字を書き換えただけで、倉庫の米にほころびが生じ、それがやがて飢えを生み、大きな反乱の種火となることを陳宮は鮮やかに暴いてみせた。あの時の陳宮の冷徹なまでの公正さと、嘘を許さぬ数字の残酷な説得力が、今の勝頼の統治の背骨となっていた。
「貸方、借方……。勝資、右に入ったものと、左から出たもの。この左右の数字がぴたりと一致せぬとき、そこには必ず人の欲という不純物が混じっておる」
勝頼が自ら筆を走らせ、升目に次々と数字を埋めていく。
これまでの日ノ本の帳簿は、ただ蔵に入ったものと出たものを、日付の順に縦一列に書き並べるだけの簡単なものであった。そこに勝頼が持ち込んだのは、一つの金の動きを『どこから来たか』と『何に使われたか』の二方向から同時に記録する、大陸から持ち込んだ知恵であった。両方の合計が必ず一致しなければ、どこかで計算が狂っているか、誰かがかすめ取っているかが即座に浮き彫りになるのだ。
「……若殿。この書き方、まるでごまかしの逃げ場がございませぬな」
跡部勝資が、顔に冷や汗をにじませながら筆を止めた。これまでの大雑把な帳簿ならば、金山奉行や蔵奉行のさじ加減一つで、予備や端数といった名目で闇に葬れた金も、この新しき法では、どこから来てどこへ消えたのかを正確に証明せねば、左右の均衡がたちまち崩れてしまう。
真田昌幸は、勝頼が書き記したその表を食い入るように見つめていた。
昌幸の知略は、これまで人心をいかに欺くか、敵の裏をどうかくかに特化してきた。しかし、今、目の前で若き主君が広げているのは、欺く隙すらも一切与えない、極限まで磨き上げられた統治の理法であった。人が嘘をついても、数字は嘘をつけない仕組みになっているのだ。
不意に、昌幸の目に異様な光景が映った。
勝頼が卓上の紙を扇子で指し示し、大陸で実際に起こったという国の壊れ方を語り始めた時のことである。勝頼の背後、行灯の火で陽炎のように揺らめく空気の中に、見知らぬ男の影が不気味に浮かび上がったように見えたのだ。
それは甲冑を着た武士ではなかった。漆黒の衣を纏い、痩せこけた頬に刃のような鋭すぎる知性の光を宿した、賢者のような姿。その影は、勝頼の言葉に合わせるように、静かに、しかし冷徹な手つきで架空の筆を動かしているように見えた。
(……何だ、今のあの影は。若殿の背後には、我らの全く知らぬ恐ろしき『軍師』がついているというのか)
昌幸の背筋を、形容しがたい戦慄が駆け抜けた。それは勝頼に対する単なる畏怖を通り越し、彼が背負っている『国の治め方』そのものに対する、絶望的な敗北感であった。
勝頼が語る言葉の端々には、日ノ本のいかなる軍学書にも一行も記されていない、膨大な歴史の重みと、血なまぐさい実感が宿っている。それは決して、二十六歳の若者が頭だけでひねり出した机上の空論ではない。実際に使い、国を動かしてきた者の手触りのようであった。
「……勝頼様。この算術は、常識を遥かに超えておりますな。軍略が敵を殺すための牙であるならば、この算法は、国を内側から整え、生かし続けるための強固な骨格にございます」
昌幸は、震える声でそう絞り出した。
彼は悟った。勝頼が目指しているのは、単に徳川家康の領地を奪うことや、織田信長との合戦に勝利することではない。信長が古い権威を破壊し、銭の力で天下を強引に回そうとしていたとしても、勝頼はこの逃れようのない緻密な法則で日ノ本全体の銭と物の流れを完全に支配し、自らの定めた秩序によってで天下を永続的に縛り上げるのだ。
「その通りだ、昌幸。かつてわしの半身であった男は、こう言った。『数字で支配できぬ暗がりから、国は必ず腐り始める』と。信長が今、生み出し始めている、銭による戦という異質な状況を、武田側からねじ伏せるには、単なる武力よりも先に、このごまかしの利かぬ理を以て、武田という国そのものを内側から強固に貫かねばならぬ」
勝頼の瞳の奥には、かつて中原の宮廷で、数字の山と格闘し続けた陳宮への深い追憶が宿っていた。昌幸の見た幻影では、その異国の男の名は分からなかったが、主君がどれほど途方もない『知の巨人』からこの理を引き継いできたのかを、その肌でひしひしと感じ取っていた。
静まり返った躑躅ヶ崎館の一室には、跡部ら文官たちが不気味なほど正確に算盤を弾く音だけが響き渡っている。
勝頼は窓の外、まだ雪を被った甲斐の険しい山々を静かに眺めた。
「昌幸。まずは、一部の兵を常備の軍へと整え、金山の富も我が手に収め始めた。……次は、この国を流れる血液そのものを、わしの色に染め上げる」
勝頼の視線は、ただ黒川金山から掘り出される黄金の量だけを見てはいない。その黄金の純度と重さを統一し、『武田の刻印』という信用を吹き込んだ新しい貨幣を創り出すこと。そして、その絶対的な信用を持つ銭を使って、織田の領国経済を内側から崩壊させようという、誰も思いつかない壮大な経済の戦いを見据えていた。




