第二十六話:理情相克
第二十六話:理情相克
早春の凍てつく闇が、甲斐の山々から這い下りて躑躅ヶ崎館をすっぽりと包み込もうとしていた。
だが、その夜の静寂を拒絶するかのように、館の北方に広がる練兵場の方角からは、依然として規則正しい重い地鳴りが絶え間なく響いてくる。かつての武田の夜であれば、それは夕刻の調練を終えた武者たちがあちこちで酒を酌み交わして一番槍の武功を語り合う、熱気を帯びた喧騒であったはずだ。
しかし今、館の石垣を低く震わせているのは、人間の熱や感情というものを一切濾過し去った、無機質で冷え切った軍靴の連動音であった。
どん、どん、どん、どん。
薄暗い回廊の曲がり角で、馬場美濃守信春はその陣太鼓の音を聴きながら、思わず鉛のように重い足を止めた。彼の内側にある歴戦の武将としての血肉が、その響きに対して強い拒絶反応を示していた。それは恐怖などという単純なものではなかった。自らが血を流し命を懸けて積み上げてきた数十年という武士の月日が崩れ去り、全く別の血の通わぬ何かに置き換えられていくことへの拒絶であった。
信春は、主君である武田信玄の寝所へと向かった。
固く閉ざされた障子を静かに開けると、室内にはむせ返るような強い薬草の匂いと、微かな炭の香りが澱みのように漂っていた。枕元の行灯の火に照らし出された信玄の顔は、かつての天下を睨んだ威厳を辛うじて保ってはいるものの、その土気色の肌と削げ落ちた頬は、死の淵を彷徨う者のそれであった。
「……信春か。そなたも、あの単調な音が耳にこびりついて離れぬようだな」
分厚い夜着に身を包み、わずかに上体を起こした信玄の声はひどく掠れていた。だがその視線は、閉ざされた障子の向こう、練兵場からどこまでも正確に響き続ける太鼓の音を鋭く射抜いている。
「御館様……。若殿が始められたあの奇妙な教練、一月を経て、人の業を超えた異様な域に達しはじめております。集められた兵たちは、血の通った一人の人間として動いておりませぬ。太鼓の拍子に合わせ、瞬きや呼吸までもが一つに溶け合い、巨大な土壁となって前進と停止を繰り返しておりまする。そこには、武功への気概も、熱き忠義も見受けられませぬ。ただ、命じられた通りに足を運び、槍を突き出す。……それはもはや、我らの知る誇り高き武田軍ではございませぬ」
信春の声は、主君の御前であるにもかかわらず微かに震えていた。
武田の知恵袋と称される歴戦の宿老として、彼は勝頼が造り上げようとしているあの軍陣の正解を、信玄と同様に十分に理解出来てしまっていた。個人の感情や名誉を完全に消し去った巨大な軍勢は、これから間違いなく戦の主流となるであろう面の戦において、いかなる豪将の突撃よりも有効であろうことを。
だが、それは同時に、信玄という絶対的な大将の絶大な威光と、主従の熱い情念の下で固く結ばれていた武門の共同体、すなわち古き良き武田の死をも意味していたのだ。
「信春よ。わしも夜陰にあの音を聴くたびに、背筋に冷たい風が吹き抜けるのを感じておる。……四郎は、この武田を我らが築き上げた情で結ばれた家ではなく、理と掟によって成る国に造り替えようとしておるのだよ」
信玄は、震える手で枕元に置かれた軍配に触れた。
「わしの戦は、わしという大将を仰ぎ見る者たちが、その熱に当てられて奮い立ち、誉れのために命を散らすものであった。だが、四郎の戦には、わしという大将の熱など最初から不要なのだ。四郎は、誰が大将の座に就こうとも同じように戦うことの出来る、冷徹な理をこの国に敷こうとしておる。……それは確かに、これからの戦乱を生き残り、天下を統べる唯一の道なのかもしれぬ。だがな、信春。その四郎の理の中に、わしの生きてきた証、この信玄が築き上げた武威という名の熱が、欠片も残らぬのではないかという恐怖が、この老いた胸を容赦なく締め付けるのだ」
二人の老いた武士は、しばらくの間、言葉を失って深い沈黙に沈んだ。
館の外では、太鼓のリズムが一段と速まり、一千の兵が一言の号令もなく一斉に陣形を変えたことを示す、空気を切り裂くような鋭い衣擦れと砂煙の音が響いた。
「確かに、勝頼様の冷え切った瞳の奥に映っているのは、我らではございませぬ」
信春が、喉の奥から絞り出すように言った。
「何故か、我らとは違う遥か天空から、ずっと先の遠い地平を見つめておられる。そこでは、我らが重んじる武勇や武士の美学などという、あの方にとっては不確かと思われているものはすべて無価値な塵として処理され、法と数字だけが世界を支配しているのでしょう。……御館様、私は、勝頼様が恐ろしゅうございます。あのお方の理に従えばきっと武田の領地は広がるでしょう。されど、それは我らが愛し、命を懸けてきた武田そのものではなくなってしまう」
信玄は、深く、深く嘆息した。
「半年、半年だ……。四郎は、あの日このわしに、軍を止めて半年待てと言ったな」
信玄の独白が、薬草の匂う闇に溶け込んでいく。
「……待てぬ。待てぬぞ、信春。わしの命の灯が完全に消え果てる前に、やはり、わしはこの手で、武田の牙の鋭さを日ノ本の歴史に強烈に刻みつけねばならぬのだ。四郎の理がこの家を完全に呑み込み、塗り替えてしまう前に、我らが武田の誇りを、天下という名の炎の中に叩き込んでやらねばならぬ」
信玄の血を吐くような言葉には、天下を狙う覇者の威厳を超えた、死を目前にした者の不条理な執着がどす黒く宿っていた。それは、冷徹な理性と時代の必然を凌駕しようとする、情の最後の抗いでもあった。
一方、その頃。
練兵場を見下ろす高台からその足音を聴いていた勝頼は、背後に控える真田昌幸と跡部勝資に向き直った。
「昌幸、勝資。軍の土台の第一歩は成った。感情を殺し、一寸の狂いもなく動く軍勢がなんとか揃ったと言えよう。……だが、どれほど強固な軍を造り上げようとも、それを動かす内なる血液が滞れば、国は必ず内側から腐る」
勝頼の視線は、練兵場を越え、甲府のさらに奥深く、武田の軍資金を産み出す源泉である山々へと向けられた。
「兵を土地の縛りから切り離し、銭で雇う常備兵とする以上、彼らを生かし動かすのは故郷の土の匂いではなく、わしが保証する信用の重みだ。次は、金だ。黒川金山をはじめとする金山衆に溜まった長年の不透明な澱を一掃し、この国を流れる貨幣の質を統一する。属人的で曖昧な帳簿をすべて破り捨て、武田の商いを正しき理の下へと収めるぞ」
館の奥で死の淵に燃え上がる信玄の情と、練兵場で着々と磨き上げられる勝頼の理。
夜空から、音もなく雪が降り始めた。
白く冷たく塗りつぶされていく躑躅ヶ崎館を、人間の感情を捨て去った規則正しい足音だけが、絶えることなく震わせ続けていた。




