第二十五話:英雄否定
第二十五話:英雄否定
薄暮の光が甲斐の山嶺を深く沈んだ紫に染め上げる頃、練兵場の隅に張られた簡素な天幕の中で、真田源太左衛門尉昌幸は、机上に広げた数枚の和紙を食い入るように見つめていた。
そこに墨書きされているのは、この一月のあいだ勝頼の命によって続けられてきた調練における、隊列の乱れる度合いと、模擬戦において兵が損なわれる数の算段を、昌幸自身が細かく書き留め、集計した記録であった。
(……信じがたい。個々の武芸を磨くことを一切禁じ、ただ太鼓の拍子に合わせて歩幅と槍の角度のみを揃えさせただけで、これほどまでに陣立ての力というものが揺るがなくなるものか)
昌幸は、その書状を持つ己の手が微かに震えを帯びているのを感じていた。それは寒さから来るものではない。自らの培ってきた智謀が、これまでの日ノ本に存在しなかった全く次元の違う理法によって、跡形もなく上書きされていくことへの知的な愉悦であった。
武田軍においては、兵の強さとはすなわち個の力と意地の集積に他ならなかった。いざ戦が始まれば、誰が一番に敵陣へ駆け込むか、誰が名のある敵将を討ち取って恩賞に預かるか。その猛烈な功名心と血の気が、赤備えをはじめとする武田の軍団を天下最強たらしめていたのである。
しかし、それは裏を返せば、手柄を焦るあまりに隊列を乱し、突出した者が敵の策に嵌まって討たれるという危険を常に抱え込むことを意味していた。今、昌幸の目の前で行われているのは、その武士にとって当然の情念を、徹底的に濾過し、剥ぎ取っていく作業であった。
天幕を出た昌幸の視界に、冷たい夕闇の中で蠢く一千の影が映った。
どん、どん、どん。
若き文官の跡部勝資が叩く陣太鼓の重い音は、もはや兵たちの耳で聞くものではなく、彼らの骨と血肉に直接突き刺さり、体を強制的に動かす呪縛のようであった。
「昌幸。結果はどうだ」
高台から静かに下りてきた勝頼が、歩みを止めずに背後から問いかけた。昌幸は深く頭を垂れ、主君の半歩後ろへ付き従うように並んだ。
「はっ。驚くべきことに、歩幅と槍の構えを徹底して十日を過ぎたあたりから、隊列の乱れや模擬戦における同士討ち、転倒の数が、これまでの五分の一以下にまで減っておりまする。さらに……」
昌幸は言葉を切り、無言で槍を突き出す兵たちを見渡した。
「兵たちの瞳から、手柄を立ててやろうという功名心や、死への恐れといった揺らぎが、見事に消え失せはじめております。彼らはもはや、自分が誰を討ち取るかなどと考えておりませぬ。ただ太鼓の音に従い、隣の者と肩を揃えて槍を突き出す。それだけを、自らの存在のすべてとして受け入れ始めておりまする」
「それで良いのだ、昌幸」
勝頼の視線は、眼下の泥濘を這う兵たちを越え、はるか遠くの美濃の空を射抜いていた。
「わしは一騎当千の豪将など初めから求めてはおらぬ。そのような突出した存在は、そいつが討ち死にすればその一団はたちまち瓦解し、そいつが功を焦れば全軍の均衡が音を立てて崩れる。国を永きにわたって維持するための軍とは、いかなる凡夫がその場所を担おうとも、必ず同じ成果を出すものでなければならぬのだ」
勝頼の口から紡がれる言葉は、武功を至上の誉れとする武田の将にとっては、残酷なものであった。
しかし、勝頼は、かつて中原の大陸で、勇名に頼った豪傑が率いる血気盛んな軍勢が、規律と法のみで動く名もなき凡夫たちの壁に、文字通りすり潰されていく様を幾度となく見てきたのだ。
「日ノ本の武将たちは、今だに戦というものを己の名を上げるための個人の舞台だと勘違いしておる。昌幸、そなたには、わしが創り上げようとしているこの凡夫の壁が、いかに底知れぬ価値を持つか分かるか」
「……はっ。突出した天才や豪将を必要としない軍勢こそが、いかなる不測の事態にも揺るがぬ、最も永続的な強さを持つ。左様でございましょうか」
昌幸の答えに、勝頼は初めてその口元に微かな笑みを浮かべた。
「その通りだ。一人の一騎当千の将を育て上げるには、その才能だけでなく、数十年という途方もない年月と、数え切れぬ実戦の経験、そして莫大な富が要る。だが、この型にはめられた凡夫の壁を一千人揃えるには、わずか三月の調練と、太鼓の拍子、それに数冊の教えの書があれば事足りるのだ。この圧倒的な速さと手間の差こそが、いずれ、この日ノ本の戦国という名の未熟な歴史そのものを、根底から創り直す最強の武器となろう」
昌幸は、自らの喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じた。
信玄は、家臣一人ひとりの気質を掴み、その自尊心を満たし、情をかけることで強固な結束を築き上げた。それは血の通った熱く、生命力に溢れた支配であった。
対して、目の前の勝頼が体現しているのは、法則そのものである。怒りも、恩義も、武士の誇りすらもいらない。ただ、国の安寧を維持するための算段の一部として兵を機能させる。そこには確かに、兵を無駄に犬死にさせないという人としての救済はあるのだろうが、それは慈悲や愛といった生ぬるいものではなく、ただ国を保つための最も無駄のない手立てに過ぎないのだ。
突如、練兵場の一角で陣形が大きく動いた。
勝頼が軽く手を挙げ、指先をわずかに動かしただけである。
それを見た跡部が陣太鼓の打ち方を変えた瞬間、一千の兵が音もなく、巨大な四角い陣から、外敵の突撃を全方位で凌ぐ分厚い円の陣へと、水が流れるように形を変えた。
そこには怒声も、将の号令も一切ない。ただ太鼓の響きの変化だけがあった。すでにこの名もなき農民崩れの兵たちは個別の意志を完全に捨て去っているようであった。
昌幸の背筋を、幾度となく形容しがたい戦慄が駆け抜けていく。
(やはりこのお方は、ただ戦に長けた将などではない。この国の古びた歴史を、力ずくで書き換える天上の支配者に間違いないのだ……)
昌幸は、若き主君の背後に宿る、果てしなく透き通った孤独な理の景色を幻視していた。
これから、法と算術がすべてを統べる世が来る。自らは、その巨大に膨れ上がっていくであろう新たな国の仕組みを支えるための、最も精緻で残酷な歯車でありたい。
その狂気じみた悦びを胸の奥深くに抱え込みながら、昌幸は無言で主君の背に従い、雪の降りしきる静まり返った躑躅ヶ崎館へと戻っていった。




