第二十四話:死地超越
第二十四話:死地超越
規則正しい重い地響きが、凍てつく練兵場の泥を硬く踏み固めていく。
一千人の足軽が、高台で若き文官が振るう采配と陣太鼓の音に従い、まるで巨大な百足のように這い進む。その光景を横から見つめながら、赤備えの猛将・山県昌景は、己の内に渦巻く言いようのない焦燥と不気味さを抑えきれず、再び若き主君へと鋭い視線を向けた。
「……若殿。恐れながら、一つだけお伺いしたい」
昌景の声は、武士としての本能から来る強い怒りで低く震えていた。
「武田の真の強さは、一騎当千の荒武者が自らの命を顧みずに死地を切り開き、その後ろを赤備えが疾風のごとく駆け抜けて敵陣を蹂躙するところにあると、この昌景は今でも信じて疑いませぬ。兵から個としての荒々しい牙を抜き去り、ただ命令通りに動くだけの臆病な羊の群れに変え、武士の誇りと熱を失わせて、若殿は武田を一体どこへ導こうとなされているのですか」
勝頼は、高台の縁に立ったまま、視線すら昌景に向けずに淡々と答えた。
「昌景。そなたが誇るその赤備えは、正面から一斉に飛来する百や千の鉛玉を、自らの槍で切り伏せることができるのか」
不意に、勝頼の脳裏に「一度目の生」の凄惨な残像が鮮明に閃いた。
長篠・設楽原の、あの血生臭い泥土。そこに累々と積み重なっていた、無残な赤備えの騎馬と将兵たちの骸。武田の誇り高き宿老たちが、三重の馬防柵の奥から放たれる無機質な銃弾の雨の前に、ただの物言わぬ肉塊へと変えられていったあの絶対的な絶望。
(……あの時、わしは武田の『個の武勇』という時代遅れの幻想に殉じ、この家の全てを泥の中で溶かした。同じ愚かな行為を、二度も日ノ本の歴史に刻むつもりは断じてない)
勝頼はゆっくりと振り返り、激高する昌景に向き直った。その深く昏い瞳にあるのは、底知れぬ冷え切った静寂であった。
「そなたは知らぬのだ、昌景。戦場を真に支配するものは、個人の突出した武勇や名将の勇姿などではないのだ。一寸の狂いもなく連動し、機械のように敵をすり潰す『仕組み』そのものなのだ」
勝頼は、かつての記憶を呼び起こすように言葉を継いだ。
「かつてはるか中原の大陸では、連弩という恐るべき機巧を用い、個の力と騎馬の突力に勝る軍団を、空を覆い尽くす面としての矢の壁によって完全に沈黙させた。敵に名乗りを上げる暇さえ与えず、圧倒的な物量と冷徹な数理によって敵を圧殺する。……それこそが、わしがこの日ノ本に構築しようとしている真の『戦の理』だ」
「理、にございますか……」
昌景は、勝頼の口から突如として飛び出した「諸葛孔明」という大陸の古の英雄の名に、怪訝そうに眉をひそめた。日ノ本の武将たちにとっても、大陸の歴史や兵法は教養として知られている。だが、勝頼の口から語られるその言葉の響きには、書物で読んだ知識をひけらかす若者の空虚さがない。あたかも「実際にその場で大量の死と絶望を見た者」だけが持つ、血なまぐさく冷徹な実感がこもっていたのだ。
「よく聞け。尾張の織田信長はいずれ、今の数倍、数千挺もの鉄砲を揃えてくるだろう。そして、そなたらが誇り高く一歩踏み込む間に、切れ目なく十の弾丸を撃ち込み続ける恐るべき仕組みを完成させるだろう。その時には、そなた個人の槍の技量がどれほど優れていようとも、決して届かぬ距離から一方的に、まるで虫けらのように屠られるだけになるのだ。赤備えの勇猛な突撃などは、単なる無価値な自殺へと変わるのだ」
勝頼の言葉は、昌景が四十年の歳月をかけて戦場で磨き上げ、誇りとしてきた価値観を、根底から完全に否定し、破壊した。
「わしが今、この泥にまみれた凡夫たちに叩き込んでいるのは、個人の恐れや功名心を完全に消し去り、隣の者と命を共有する『不変の壁』となるための術だ。最前列の一人が撃たれて倒れれば、背後の者が一切の感情を交えずに即座にその死体を踏み越えて隙間を埋め、一糸乱れぬ槍衾のまま最短の工程で敵の心臓を貫く。そなたらが尊ぶ『一番槍の美学』や『武士の誇り』は、この戦陣を維持するための歯車を狂わせてしまう、極めて危険な行為でしかないのだ」
もはや、昌景の口から絞り出せる反論の言葉は残っていなかった。信長が鉄砲を大量に集めているという噂は耳にしている。だが、それが束になって襲いかかってくる恐怖を、昌景はまだ実感として理解できていない。しかし、目の前に立つ若き主君は、その未来の敗北をすでに完全に「計算し尽くしている」ように見えるのだ。
「わしは、これから急ぎ一寸の狂いもなく動く手足を揃える。山県、馬場。そなたらの武田随一の勇猛さを否定するつもりはない。わが壁が敵をすり潰し、そこに最後に残った敵の大将の首を刈り取るために温存せよ。そこに至るまでの凄惨な盤面を作り上げるのは、わしの教え込んだ感情を持たぬ軍になるだろう」
再び目の前で陣太鼓が重く鳴り、一千の足軽が一斉に長い槍を前方へ突き出した。
しゅっ、という空気を裂く音が一つに重なり、凄まじい威圧感となって押し寄せる。その動作には、人間が本来持つ死への恐怖や迷い、あるいは手柄を立てて家族を楽にさせたいという私欲すら、一切感じられず、一つの冷徹な軍事の化け物のように見えるのであった。
(……若殿は、我らとは次元の違う『戦』をしておられるというのか)
昌景は、全身の毛穴が逆立ち、総毛立つような深い戦慄を覚えた。勝頼の言葉には、未来の地獄を的確に予言するような論理の確信と、人を人とも思わぬ深い虚無が同居していたからである。
「山県。これからの戦とは、熱狂や武勇を競うものではない。冷徹な算術による死の処理だ。わしの理に従い共に新たな世を見るか、あるいは古き誇りと共に鉛玉を浴びて泥に沈むか。……選ぶのは、そなた自身だ」
勝頼はそれだけを静かに言い残すと、再び無機質な練兵場へと視線を戻した。




