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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第二十三話:無情鉄陣

第二十三話:無情鉄陣


 躑躅ヶ崎館の北方に広がるなだらかな練兵場は、早春特有の刃のように冷たい風に吹き晒されていた。

 かつてのこの場所は、武田の武威を象徴する猛将たちが駿馬を駆けさせ、あるいは精鋭たる赤備えの騎馬武者たちが土煙を上げて武芸を競い合う、勇猛な熱気に満ちた神聖なる土地であった。しかし今、そこに広がる光景は、古参の武将たちの目にはあまりにも異様で、寒々しいものとして映っていた。


 練兵場に集められているのは、誇り高き武田の家臣団ではない。勝頼が領内の村々から強引な触れを出してかき集めた、一千人余りの足軽たちである。彼らの多くは、田畑を継ぐあてのない農家の三男坊や、冬の農閑期には路頭に迷うような、名もなき貧しい若者ばかりであった。甲冑はおろか、まともな陣笠すら行き渡っておらず、泥にまみれた粗末な麻の着物を纏っている。

 彼らは今、馬に乗ることも、木刀で打ち合うことも許されていなかった。ただ、果てしなく広がる泥濘の上を、揃って無言のまま前進し、停止し、また前進するという奇妙な所作を延々と繰り返しているのである。


 どん、どん、どん、どん。


 高台に設けられた本陣の傍らで、若き文官の跡部勝資が、一定の間隔で重い陣太鼓を打ち鳴らしていた。

 一千の足軽たちは、その腹に響く太鼓の音に合わせ、左、右、左、右と、不気味なほどに機械的な正確さで足並みを揃え、凍てつく泥土を硬く踏み固めていく。誰か一人が歩幅を違えれば、その隊列は即座に停止させられる。少しでも足並みが乱れれば、勝頼が自ら選び抜いた冷酷な教導の将たちが容赦なく怒声を浴びせ、竹の鞭で打ち据えては、また最初から延々と歩き直しを命じるのだ。


「槍の穂先を揃えよ。隣の者の肩と己の肩が触れ合うほどに密着しろ。一寸の隙も、一分の遅れも許さぬ。貴様らはもはや個別の人間ではない。一つの巨大な壁であることを骨の髄まで覚え込め」

 高台に立つ勝頼は、寒風に衣をはためかせながら、眼下で蠢く無機質な行進を、まるで人間ではない別の何かを眺めるような冷徹な眼差しで見下ろしていた。


(……この日ノ本の戦というものは、あまりにも個人の情に寄りかかりすぎており、ひどく未熟だ)


 勝頼は、一糸乱れぬ足軽たちの動きに、はるか中原の大陸で率いた巨大な軍陣の残像を重ね合わせていた。

 広大な大陸の平原では、数万、数十万の軍勢が正面から衝突することもあった。そうなれば、一人の将がどれほど武勇に秀でていようとも、個人の槍働きなどが戦局を左右する余地は一厘もなくなっていく。かつて強大な北方騎馬民族の突撃を粉砕した際に用いたのは、英雄の決死の突撃などではなく、幾重にも分厚く計算し尽くされた、鉄壁の槍衾であった。

 最前列の一人が敵の馬に蹴散らされて死ねば、背後に控える者が一切の感情を交えずに、即座にその死体を踏み越えて同じ位置を埋める。個人の恐怖も功名心も完全に消し去り、名乗る名すら持たない凡夫たちを、決して崩れぬ無情の盾と矛に変える。それこそが、勝頼がこの島国に一から創り上げようとしている、常備軍という名の怪物であった。


「……若殿。これは一体、何のふざけた遊びにございますか」

 背後から砂煙を上げて歩み寄ってきたのは、赤備えの将、山県昌景であった。その少し後ろには、馬場信春も沈痛極まりない面持ちで付き従っている。

 昌景の声には、隠しきれない深い侮蔑と、それを遥かに上回る激しい苛立ちが煮えたぎっていた。歴戦の猛将である彼らにとって、武田の鋭き牙を磨くべき神聖な練兵場が、町人の祭りの練り歩きのような、ただ足を揃えて歩くだけの無意味な行事に費やされている現状は、偉大なる信玄の築き上げた武威に対する、耐え難い冒涜に他ならなかった。


「遊びに見えるか、昌景」

 勝頼は、眼下の陣形から一切視線を外すことなく、ひどく凪いだ声で問い返した。

「左様に見えまする。武士に必要なのは、敵陣へ一番に乗り込み、敵将の首を叩き割る剛の力と、いかなる死地をも恐れぬ気構えにございます。足並みを揃えて泥の上をぞろぞろと歩く練習など、槍の穂先を鈍らせ、兵から戦の熱を奪うだけのこと。これでは武田の牙が丸く錆びつくだけにございまする」


 昌景の吐き捨てるような言葉は、この時代の武士たちが疑うことなく抱き続けてきた、純粋で、しかし勝頼にとってはとうの昔に終わっている過去の遺物に過ぎない美学であった。

「昌景。そなたが誇らしげに語る武士の気構えとやらが、いかに脆いものか分かっておらぬようだな。そなたたちの強さは、恩賞の土地という私欲と、己の名を高めたいという浅ましい自尊心で辛うじて結びついているだけの、極めて不安定な不純物の集まりだ」


 勝頼はそこで初めてゆっくりと振り返り、激怒に身を震わせる昌景を真っ直ぐに正視した。その深く暗い瞳の奥には、血気盛んな若者の高揚など微塵もない。国家の興亡と、山ほどの死体の山を見届けてきた絶対者としての、揺るぎない正解だけが凍りついたように宿っていた。

「己の領地が焼かれれば兵は勝手に引き返し、恩賞が足りねば不満を抱く。大将が討たれれば、烏合の衆となって逃げ惑う。そのような情念で動く集まりを、わしは軍とは呼ばぬ。そなたが手柄のために一人の敵将の首を追う間に、わしは一千人の凡夫を己の手足として自在に操り、戦そのものを制圧する術をここに刻み込んでいるのだ」


「な……若殿は、武士の誇りを愚弄なさるのか」

「誇りでは国は保てぬと言っているのだ。わしが求めている兵は、名のある英雄や一騎当千の猛将などではない。命じられた時に、命じられた場所へ一寸の狂いもなく移動し、恐怖すらも持たずに隣の者と死を共有する、無機質なからくりだ。言うことを聞かぬ英雄を数人育てるよりも、わしは感情を持たず一糸乱れぬ一千人の凡夫を統率する。……それがわしの創る、新しき武田の戦だ」


 昌景は、あまりの暴論に言葉を失い、さらに猛烈な反論を叩きつけようと口を大きく開いた。

 だが、その言葉が発せられるよりも早く、高台で控えていた跡部が、勝頼の扇子の合図を受けて陣太鼓のリズムを突如として変えた。


 どん、どん、と二度、短くも鋭い音が響く。

 その瞬間、眼下の泥濘を歩いていた一千人の足軽たちが、一斉にその場にぴたりと静止した。怒声も、将の号令もない。ただ太鼓の音一つで、一千人の人間が呼吸すらも止めたかのように、不気味なほどの完全な静寂を創り出したのである。

 続く一拍。

 跡部が太鼓の縁を鋭く打ち鳴らすと同時に、一千本の長い槍が、寸分の狂いもなく全く同じ角度で、一斉に前方へ向かって突き出された。


 しゅっ、という空気を鋭く切り裂く音が、一千の重なりを持って一つの巨大な風切り音となり、練兵場の空気を激しく震わせた。その衝撃波が、物理的な圧力を伴って、高台に立つ昌景らの肌をびりびりと叩きつけた。


 そこには、戦場で名を上げようとする個人の功名心も、血湧き肉躍るような武士の熱気も存在しなかった。

 あるのはただ、勝頼の命令に従って動く、巨大な鋼の百足のような、意思を持たない軍事の怪物だけであった。昌景の背筋に、数多の修羅場を潜り抜けてきた生涯の中で一度も感じたことのない、得体の知れない強烈な寒気が駆け上った。


(なんだ、これは。若殿は、武田の軍を精強に鍛え上げているのではない。武田の兵そのものを、人間ではない全く別の、恐ろしき生き物に造り替えようとしているのか……我らには、もうこの陣立ての意味すら分からぬというのか)

 横に立つ馬場信春もまた、顔面を蒼白にさせて眼下の異様な槍衾を見下ろしていた。


 その光景を、高台の少し離れた陰から静かに見つめていた真田昌幸は、主君の横顔に宿る絶対的な冷気と、眼下に広がる人間性を剥奪された軍列を眺めながら、歓喜とも戦慄ともつかぬ深い震えを噛み締めていた。

 古い宿老たちには、これが武士の堕落に見えるのだろうか。だが、昌幸の慧眼ははっきりと見抜いていた。この情も誇りも一切持たない名もなき槍の壁こそが、いずれ武士という存在そのものを歴史から完全に駆逐する、最強で最悪の刃となることを。


 夕闇が迫る甲斐の冷たい空に、規則正しく響き渡る陣太鼓の音。

 それは、個人の武勇に酔いしれ、名誉を重んじてきた古き良き時代の終わりを冷酷に告げる、逃れようのない葬送の響きとして、いつまでも重く刻まれ続けていた。

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