第二十二話:旧弊残照
第二十二話:旧弊残照
評定が終わり、重臣たちがそれぞれの任へと戻ったと同時に、躑躅ヶ崎館の空気は、勝頼の冷徹な手によって強引に再定義された。
かつて荒々しい武者たちが廊下で槍を立てかけ、互いの手柄を自慢し合い、主君への忠義を声高に誓い合っていたその熱を帯びた場所は、今や墨の匂いと紙の擦れる音が静かに支配する役所へと変貌を遂げる。勝頼が父から強引に引き出した「半年間の軍事停止」。それは武田にとって単なる休息や補給の期間ではなく、情で束ねられた氏族の寄り合い所帯を、勝頼が、誰も逆らえぬ法治国家という名の巨大な機構へと造り替えるための、大工事の始まりの期間であった。
数日後、勝頼は、館の一角に新たに設けさせた政務所で、跡部右衛門尉勝資と真田安房守昌幸の二人を前に、領内の広大な地図と分厚い帳簿を広げていた。
「……勝資。領内の全村における余剰人員の洗い出しは、どこまで進んでおる」
「はっ。信濃および甲斐の国衆が秘匿していた隠し田の検地と並行し、既に三分の一の帳簿を改め終えました。田畑を継ぐあてのない次男や三男、あるいは土地に縛られぬ流民たちを新たに銭で召し抱える手筈も整えつつあります。彼らこそが、勝頼様が求められる、土地の私欲から切り離された『規格の兵』の種火となりまする」
二十四歳の跡部は、その瞳にかつてない高揚感を宿していた。
代々武田家の公事を担いながらも、山県や馬場といった戦場での武功を至上とする宿老たちからは、「算盤侍」「腰抜けの文官」と軽んじられてきた彼である。だが、勝頼が新たにもたらした「勇猛さではなく、数字と法こそが国を動かし、天下を制する」という強固な理は、自らの隠された才能がようやく日の目を見るための、福音に他ならなかった。
勝頼は、跡部が恭しく差し出した帳簿の数字を細かく精査しつつ、満足げに頷き、今度は昌幸に向き直った。
「昌幸。そなたには、集めた者たちの調練を命じる。ただし、従来の武士のように個人の技量を競わせることは一切禁ずる。一人が倒れれば即座に次の者がその穴を埋め、一糸乱れず前進を続ける、不滅の壁を造り上げよ。武士が尊ぶ名乗りも、一番槍への執着も、わしが望む組織においては、足並みを乱すだけの邪魔な物でしかない」
「御意に……。勝頼様の描かれる軍団は、それが完成した暁には、この日ノ本における戦の常識そのものが無価値となり果てましょう。恐ろしきことながら、この昌幸、その歴史の転換に加担できることに、武者震いが止まりませぬ」
昌幸の口元に浮かぶ不敵な笑み。勝頼はそれに応えることもなく、ただ次に手をつけるべき施策――甲州金の品質統一と、領内の関銭を統制するための手形の発行計画へと、冷ややかに視線を移した。
一方で、このあまりに急速で異質な変革作業を、言葉にできぬ底知れぬ疎外感と共に見つめている者たちがいた。
夕闇の迫る練兵場。赤備えの猛将・山県昌景は、寒風が吹きすさぶ中で一人、無銘の木刀を黙々と振るっていた。
かつてはここが、武田の将兵たちが血と汗を流し、大将の御威光に応えるために己の武勇をひたすらに磨き上げる神聖な場所であった。しかし今、昌景の眼下で繰り広げられている練兵は、勝頼に抜擢された若き文官たちが、新たに集められた兵たちに歩調の合わせ方を教え込み、隊列の行進の距離と時間を細かく算術で測らせるだけのものだ。
そこには、命を懸けて敵陣に突っ込むような、研ぎ澄まされた武の熱量はない。ただ、決められた型を機械のように淡々とこなす、単なる作業としての寒々しい風景があるだけであった。
「……昌景。そなたも、この底冷えのする風に身を晒しておったか」
背後から静かに声をかけたのは、馬場信春であった。
「信春か。……我らが心血を注いで守り抜いてきた武田の戦は、一体どこへ消えてしまうのだ。若殿の仰る数字の理屈は、確かに頭では正論だと分かる。だが、あのお方の冷たい瞳には、我ら武士の血の通った『心』が微塵も映っておらぬように思えてならぬ」
「左様だな。勝頼様は、情で動く軍の脆さを突き、我らを破滅から救おうとしておられるのかも知れぬ。だが、その救い方は……我らの誇りを傷つけて、まったく別の物に作り変えるような無慈悲な暴力としか思えん。我らがこれまで積み上げてきた武勲も、御館様への尽きせぬ忠義も、ただの不用物としてしか処理されておらぬようにしか見えないからな」
武田を支えてきた両宿老の交わす言葉は、二俣城での勝利の余韻など微塵も感じさせないほどに苦く、重いものであった。
自分たちの培ってきた生涯と歴史が、勝頼という突如として現れた強力な意思の前に、ただの非効率で古びた残照として、音もなく消え去ろうとしているのだ。
その夜、館の最深部、信玄の寝所には、死の淵を彷徨うような不吉な喘鳴が低く響き渡っていた。
「……ごほっ、ごほっ……はぁ、はぁ……」
信玄は、激しい咳き込みの末に、震える手で赤黒い血に染まった懐紙を握りしめた。名医たちの献身的な処置も、高価な薬湯も、もはやこの甲斐の巨星の崩壊を止めることはできない。
信玄の脳裏には、先日の評定の席で息子が突きつけてきた、完膚なきまでの冷酷な正解が、残酷なほどの輝きを持ってまざまざと焼き付いていた。
(四郎……。そなたの言うことは、天下を統べる理法として間違いなく正しいのだろう。そなたの冷徹な理に従い、正しく進んでいけるのであれば、武田は決して滅びず、織田をも凌駕する強大な国となるだろう。わしにも、その未来図ははっきりと見える。だが……)
信玄は暗闇を睨みつけ、胸の奥からせり上がってくる、理屈では抑えきれぬ激しい拒絶感を覚えた。
(少なくとも半年、だと? ……わしの命に、もはやその半年すら待ち続ける時間が残されているとは思えぬ。そして、そなたの造る強固な法治の国とやらには、わしがこの一代で築き上げてきた誇り……この武威の武田という熱き命の証が、欠片すらも残らぬではないか)
信玄は、その飛び抜けた知性を持って、息子の恐るべき器を認めることは出来る。
だが、一人の戦国大名としての、そして死を目前にした一人の男としての、生きた証を残したいという不合理な執着が、信玄の心をどうしても狂わせ、侵食してしまう。
自分がこの世から消え去った後、武田という家が勝頼によって完全に塗り替えられ、武田信玄という存在が、偉大な領主ではなく、単なる「非効率な前段」として冷たく処理されてしまうことへの、耐え難い恐怖。
「……待てぬ。やはり、半年など待てぬのだ。わしの命の火が消える前に、京の都に風林火山の旗を立てねば、わしの人生は何であったのだ……」
信玄の血を吐くような独白は、誰の耳にも届かぬまま、雪の積もる夜の静寂に吸い込まれて消えた。
翌朝。躑躅ヶ崎館は、美しくも残酷な純白の雪にすっぽりと覆われた。
勝頼が自らの完璧な論理で押さえ込み、従わせたつもりでいた古い価値観の残照は、死を目前にした信玄の絶望と自己顕示欲を最後の燃料として、この武田という家そのものを焼き尽くすほどの、不条理な暴発の種として水面下で育み始めていたのであった。




