第二百二十五話:銀毛細流
第二百二十五話:銀毛細流
師走の朔日、大津湊は比叡颪に吹き曝されていた。
湖面から巻き上がる白い飛沫が、岸壁に並ぶ蔵の白漆喰を湿らせ、凍てついた石畳の上を滑っていく。港の空気は、銀の匂いではなく、ただの冷たい水の匂いと、乾いた縄の匂いに満ちていた。朝餉の煙すら、風に散らされてすぐに消える。波が防波堤を叩く鈍い音が、規則正しく繰り返されている。
明智光秀は、渋紙の羽織の襟を掻き合わせ、両替商『恵比寿屋』の門前に立った。供の溝尾庄兵衛が、無言で背後に控える。馬の息が白く凍り、石畳に細い水滴を落としていた。光秀の脚絆は泥に汚れ、羽織の裾も凍てついた霜を帯びている。
門を叩くと、番頭の治兵衛がすぐに現れた。五十絡みの男で、常に帳面を抱えているような、几帳面な目つきをしている。だが今日のその目には、明らかに焦燥が滲んでいた。袖口の汚れを隠すように、手を袖の中に引っ込めたまま、光秀を迎える。声が少し掠れている。
「日向守様……。お待ちしておりました」
治兵衛は、奥の土蔵へと案内した。廊下を進む足取りが重い。壁の漆喰がところどころ剥がれ、下地の土が露出している。
重い閂が外され、分厚い扉が内側へ開く。白漆喰の壁に囲まれた空間が、冷たい空気を吐き出した。光秀の息が、蔵の中で白く長く尾を引く。手燭の炎が、煤を吐きながら細く揺れる。炎の揺らぎが、棚の影を壁に伸ばした。
普段なら、千両箱や銀の小箱が隙間なく積み上げられている場所である。光秀は、その光景を知っていた。去年の秋、安土の普請のために銀を回したときも、この蔵は満ちていた。金属の冷たい輝きが、行灯の光を跳ね返していた。箱を積み上げる際の鈍い音や、銀を数える際の細かい金属音が、蔵の中に響いていたはずである。
だが今、棚の上の樫の木箱は、ことごとく蓋が開け放たれていた。底の白木が、埃をうっすらと被っている。金銀の金属音は微塵もない。蔵の隅に吹き溜まった乾いた落ち葉が、風の隙間から入った気配でカサカサと鳴った。埃が舞い、光秀の鼻腔を微かに刺す。古い漆喰の粉っぽい匂いと、反故紙が湿気を吸って饐えた匂いだけが、空間を満たしている。金属特有の、あの冷たく重い匂いは、どこにもない。
光秀は、棚の最上段に目をやった。そこだけ、木肌が白い。銀箱の形をした日焼け跡が、くっきりと残っている。つい最近まで、そこに銀があった。しかし今は無い。跡の輪郭が、箱の大きさを正確に示している。
足元の埃を払う。鼠の足跡すらない。蔵が空になって、まだ日が浅い。埃の層が薄い。
「ご覧の通りにございます」
治兵衛の声が、蔵の中で乾いて響いた。声が壁に吸われる。
「堺や大坂から持ち込まれた銀の手形は、確かにこの店を通過いたしました。されど、銀そのものは一晩もこの蔵に留まりませぬ」
「誰が持ち去るのだ」
「草津の馬方や、荷車の仲買でございます。手形を銀に換えるや否や、袋に詰めて草津の宿場へ運んでいく。銭に換える者などおりませぬ。銀のまま、飛ぶように使われていくのでございます」
治兵衛は、空になった通い帳を差し出した。頁をめくると、十一月下旬の日付が並んでいる。墨が掠れている箇所もある。
『十一月十九日 堺・大坂宛て荷受銀 百四十二匁 草津宿仲買・茂八引取 残高なし』
『十一月二十二日 同 二百八匁 草津人足頭・伝兵衛引取 残高なし』
『十一月二十五日 同 九十七匁 大津馬方・甚蔵引取 残高なし』
『十一月二十八日 同 三百十七匁 引取人名記載なし 極印のみ』
残高の欄は、常に白紙、あるいは「残なし」の殴り書きである。頁を繰るたびに、同じ「残なし」が繰り返される。
「昨日は」
「空でございます」
「一昨日は」
「空でございます」
「三日前は」
「空でございます」
「四日前は」
「空でございます」
「先月は」
「その頃は、まだ残っておりました。棚の半分ほどは埋まっておりました。十一月の初めまでは、確かに銀箱が積まれておりました」
光秀は、通い帳の頁を繰った。数字は流れている。だが蔵は空である。
「盗賊か」
「盗賊なら、蔵が破られております。閂も扉も、無事でございます。鍵も掛かったままでございます」
「横領か」
「帳面は合います。入った銀は、すべて出の記録がございます。差はございません」
「隠しているのではないか」
「なら、私が儲かります。だが、私は儲かっておりませぬ。手元に銀が残らぬ両替屋など、看板を下ろしたも同然にございます。私は、ただ手形を銀に換え、それを渡しているだけでございます」
治兵衛の声は、乾いていた。目の下に、薄い隈ができている。寝不足の色が濃い。
「今月だけで二つ、隣の土蔵を借り受けました。借りた蔵も、同じく空でございます」
光秀は、空の木箱の底を指で撫でた。冷たい白木の手触りだけが、掌に残る。埃が指先に薄い膜を作った。指を擦ると、白い粉が舞う。
溜め込んでいる者は、ここにはいない。
銀はある。来ている。だが無い。
意味が分からぬ。
光秀はしばらく、空の棚を見つめたまま動かなかった。庄兵衛が背後で、微かに咳をした。蔵の冷気が、肺の奥まで染み込んでくるようであった。手燭の炎が小さく揺れる。
昼前、光秀と庄兵衛は草津宿の外れ、車大工と鍛冶屋の集落へと馬を進めた。
通りに入った瞬間、空気が一変する。鞴の吐き出す赤黒い煤煙が空を覆い、金床を叩くカン、カン、カキンという耳を劈く音が、地響きのように腹に響く。通りの両側には、削り立ての松材と樫材が山と積まれ、路上には鉋屑が雪のように白く降り積もっている。炉の周囲は顔が焼けるほど熱く、一歩通りへ出れば比叡颪が汗を凍らせる、極端な寒暖の落差がある。松脂が焦げる脂っこい煙の匂いと、焼けた鉄の鼻を突く鉄錆臭が混じり合っている。
車大工の作業場の前で、老百姓の作平が、刃先の割れた鍬を抱きしめて立ち尽くしていた。柄の木目が割れ、刃がぐらついている。作平の手は、寒さで赤く腫れ上がっていた。草鞋の紐が切れかけている。
「久五郎さん、頼む、この鍬を直してくれ。これがないと、春に耕せん」
上半身裸で大鋸を引いていた久五郎が、血走った目で怒鳴りつける。鋸の歯が松材を噛む音が、ザク、ザクと重く響く。
「春の話なんぞ知らん! 鍬一本で三文だ。こっちは車輪一本で三十文、四十文の銀が動いてるんだ! あっちへ行け!」
作平は壊れた鍬を抱えたまま、泥道を引き返していく。光秀はその背中を、しばらく見送った。泥が跳ね、草鞋の紐が緩む。作平の背中は、ますます小さくなっていった。
庄兵衛が作業場へ踏み込む。
「棟梁。これほどの大八車、どこから頼まれたものだ」
久五郎は大鋸の手を止めず、汗みずくの顔を歪めて笑う。腕に削り屑が張り付き、煤が染み込んでいる。汗が肌を伝い、冷たい風に当たって白く凍りつきそうになる。
「草津の河原で荷車を引いてる連中からだ。一台につき銀十五匁、前払いでポンと置いていく。次から次へ注文が来る。作っても作っても足りねえ。昨日渡した車を、今日また買いに来やがる。弟子を五人増やして夜なべしてるが、追いつかねえ」
「誰が買う」
「知らん」
「どこの荷だ」
「知らん」
「何を運ぶ」
「知らん」
「知らんばかりだな」
「金を置いていくから作るだけだ。誰が何を運ぼうが、知らん。知らんが、銀は確かにある」
光秀が足元を見る。鉋屑の中に、銀の包み紙が泥に塗れて落ちている。紙は湿気を含み、墨の跡がにじんでいる。
壁の作業板には、殴り書きされた数字。
『新造大八車 七十三台(代銀済)』
『修繕・心棒替え 百四台』
『車輪鉄輪巻 八十一組』
光秀は、数字を見つめた。
「去年は、どれほど作った」
「去年一年で、新造は二十台そこそこだ。修繕も三十台前後だった。今年はもう、この数字だ。半年で去年一年分の三倍を超えている」
隣の鍛冶屋では、親方の鉄蔵が、真っ赤に熱した鉄の輪を金床の上で叩き据えている。鞴の炎が赤く舐め、焼き嵌められた鉄輪が木を焦がす白煙が、鼻腔の奥をツンと突く。金床の上に置かれた真っ赤に焼けた鉄の塊が、槌で叩かれるたびに、バチバチと激しい火花を周囲に撒き散らす。
「鉄が足りねえ。堺から買い集めてるが、それでも足りねえ」
炉端の帳面には、煤けた文字が残っていた。
『堺南蛮鉄・古釘買付 銀五百四十三匁』
『車輪用鉄輪打込 九十四組』
『農具修繕受取 零』
「去年は、鉄輪の注文は二十組ほどだった。今は九十四組だ。農具の修繕は、もう受けておらん。鍬も鎌も、今年はほとんど手をつけていない」
鍛冶屋の裏庭で、身なりの良い堺の鉄問屋の手代が、棒鉄の束を検分していた。棒鉄には上等の極印が打たれている。手代の手が、極印を指でなぞっている。
手代が鉄蔵に銀の包みを渡し、短く言った。
「次も同じ値で頼みます」
それだけだった。光秀は、その短さにわずかに息を止めた。
通りの奥で、桶屋の暖簾が閉ざされている。光秀は足を止めた。
桶屋の主人は、大きな仕込み桶の材料を隅に押しやり、浅い飼葉桶と水桶ばかりを積み上げていた。主人が顔を上げ、光秀を見てから、乾いた声で言った。
「去年までは味噌樽を三十組作っていた。今は誰も頼まねえ。職人も木材も鉄も、全部荷車へ流れた。銀はある。仕事はある。なのに本業が死ぬ。仕込みの時期だというのに、大桶のタガすら締め直せぬ。醤油屋の番頭が毎朝来るが、断るしかない。断れば、向こうの仕込みが止まる。だが、こっちも荷車の水桶を優先せねば、職人を食わせられぬ」
醤油問屋の番頭が、頭を抱えて座り込んでいる姿が、遠目に見えた。桶の割れ目から黒い液が滲んでいる。番頭は何度も立ち上がっては、また座り込んでいた。
光秀は、熱を帯びた空気の中に立ち尽くした。
銀を探しに来た。だが、ここにあるのは銀ではない。木と、鉄と、車輪の山である。本業は死に、荷車だけが生きている。味噌樽が死に、飼葉桶が生きている。鍬が死に、鉄輪が生きている。
草津宿の裏通りでは、泥まみれの馬方や日雇いが、上がり込みの座敷を占領し、銀の小粒を畳に投げ出して酒を食っている。旅姿の商人が店先で断られていた。商人の袖口は綺麗で、脚絆に泥がない。
「銭なら払う。倍出す」
「銭じゃ困る。銀で払ってくれる衆で埋まってる。座敷も馬房も、全部だ」
商人は、袖口の綺麗な手で銀を探したが、持っていなかった。結局、店を出ていった。銀を持たぬ者は、宿に入れない。
月代剃りの店では、泥まみれの日雇いが、銀を放り出して月代を剃らせている。剃刀の音が、規則正しく響いている。日雇いの一人が、剃り終わった顔を手で撫で、満足そうに笑った。
昼過ぎ、光秀たちは野洲川が琵琶湖へ注ぐ辺りへ向かった。
かつて泥水に浸かっていた広大な葦原が、見渡す限り切り拓かれ、砂利敷きの広場に変貌していた。足元を踏みしめると、ジャリ、ジャリと硬い音が鳴る。泥の街道から来た馬の蹄が、急に乾いた音を立てて響く。
見渡す限り、荷車が並んでいる。松丸太の柵で囲われ、干し草の山が壁のように聳え立っている。松明の熱気が、昼なお残る煙となって立ち上っていた。皮を剥いだばかりの生松の丸太で作られた、頑丈な荷車留め置き用の柵が、幾重にも組まれている。
砂利を敷き詰めていた百姓の甚八を、庄兵衛が呼び止めた。甚八はもっこを下ろし、息を弾ませている。泥と砂利で汚れた手を、袖で拭った。息が白い。
「この土地は誰のものだ。野洲郷の入会地のはずだが」
甚八は懐から、泥に汚れた証文を差し出した。「荒地三反歩 代銀五十匁」。名主と地頭の判がある。紙は湿気を含み、端が少し波打っている。
光秀は証文を手に取り、しばらく見つめた。
「本当に、そなたが買ったのか。背後に誰かがいるのではないか。問屋か、金主か、あるいはもっと大きな者が」
「へえ。草を運んで稼いだ銀で。畑を耕して年貢を取られるより、河原を砂利で固めて荷車を止めさせる方が、よっぽど銀になる。去年は地代二匁だった。今は十五匁だ。倍どころじゃない。七倍以上だ」
光秀は証文を返した。判は本物である。本人が買っている。背後に誰かがいる気配はない。甚八の目には、ただの計算があった。
河原の一角で、百姓同士が口論していた。刀は抜かない。声だけが、風に乗って届く。
「そこは俺の車留めだ。先に砂利を敷いたのはこっちだ」
「銀を払ったのはこっちだ。証文を見ろ」
証文を出す者が、押し勝つ。刀より証文が強い。戦国では異常な光景であった。誰も刃を見せない。証文の紙切れが、武力に勝っている。一人の百姓が、証文を胸に抱き、もう一人の百姓を睨みつけていた。睨まれた方は、結局、肩を落として砂利の上を歩き去った。
隣地では、別の百姓が砂利を敷いている。昨日まで葦を刈っていた。もっこの中身が、葦から砂利に変わっている。
「隣が儲かるなら俺もやる。おれも証文を取る」
子供たちが、葦の束を運んで銭を貰い、飴を買っている。一束で一文。二束で二文。小さな手が、銭を握りしめている。飴を舐める子供の横で、大人が砂利を敷いている。
麻を扱う軒先では、女や老人が総出で青い麻を綯っている。庭先には、まだ乾燥しきっていない青い麻の束が山積みにされている。繊維の匂いが、湿った空気に混じっている。
「来年の夏に刈るはずの麻まで、前払いで置いていかれましてね。青たままでいいから縄にしろ、と。こんな青い麻で縄を綯っても、すぐに千切れちまうのにねえ。でも銀を置かれたら、断れぬ」
足元の縄は、水分を含んで重く、指で引けばぷつりと千切れた。来年まで畑にあるはずの麻が、青いまま引き抜かれ、縄の形をして泥の上に転がっている。老女の指先が、寒さと灰汁で紫色に腫れ上がっていた。
光秀は、土手の上に立ち、河原を見下ろした。風が強く、羽織の裾が激しく翻る。庄兵衛が、無言で隣に立っている。
堺の手代はただ値を確認するだけであった。銀を渡し、次を頼むだけである。
証文は野洲郷の名主と地頭の判である。東国の影は、どこにもない。
甚八はただの百姓であった。問屋の手代ではない。河原で砂利を敷いている者たちも、皆、同じような顔をしていた。
庄兵衛が呟く。
「日向守様……銀は見つかりましたか」
光秀はしばらく答えなかった。
車が入る。車が出る。また入る。車輪の軋む音が、間断なく続く。火の粉が風に乗って飛び、砂利の上で消える。
やがて、低い声で言った。
「銀が見えぬ」
光秀は足元の砂利を拾った。冷たい。硬い。ただの石。
握る。掌の紋に、砂利の微細な傷が残る。
銀を追って来たはずなのに、掌には石しかない。石を握りしめたまま、光秀はしばらく動かなかった。
坂本城へ戻った夜、光秀は勘定所の別室に、集めた紙片を並べた。
恵比寿屋の通い帳。
車大工の作業板から写し取った走り書き。
鍛冶屋の炉端の帳面。
野洲川河原の証文。
それらを机の上に広げ、算盤を引き寄せ、足し合わせようとした。算盤の玉が、冷たい音を立てる。
堺からの銀。草津への銀。河原への銀。
数字は追える。横領もない。隠匿もない。盗難もない。消失は零である。
なのに、蔵は空である。
光秀は、頁を戻した。もう一度繰った。数字は合う。全て合う。入った銀は、全て出の記録がある。差はない。
だが、現実の蔵は空である。
「足しても合わぬ……ではない。足すと合う。だが、合った先に何もない」
光秀は算盤を伏せた。玉が、静かに止まった。
銀はない。
車はある。
鉄はある。
砂利はある。
どれも勘定に載る。だが、どれも勘定が合わない。数字は正しく、現実は空である。
行灯の火が、小さく爆ぜた。油の減った芯が、微かな音を立てて揺れる。
光秀は、散乱した紙片の上に、朱の筆を置いたまま動かなかった。
琵琶湖から吹き込む風が、障子を微かに揺らす。障子の紙が、風に当たって薄い音を立てる。
その向こうで、草津の河原の松明が、まだ消えていないことを、光秀は知っていた。
風の音の合間に、遠くから荷車の軋む音が聞こえる気がした。幻か、現実か、分からない。
光秀は目を閉じ、また開いた。紙片は、依然として散乱したままであった。
銀を捕まえようと伸ばした手が、ただの冷たい川風と砂利の粒を掴んでいる。
暗闇だけが、音もなく広がっていた。




