第二百二十六話:無主増殖
第二百二十六話:無主増殖
坂本城の勘定所には、まだ藍色の闇が深く残っていた。
板敷き一面に、恵比寿屋の通い帳、車大工の差図、鍛冶屋の帳面、甚八の証文が、乱雑に散らばっている。四隅の火鉢の炭は灰を被り、息を吐けば、その白さが、そのまま冷え切った宙に溶けて消えていった。
比叡颪が、時折、城の瓦をガタガタと乾いた音を立てて鳴らしていた。徹夜で紙片と向き合い続けた二人の男の他には、この時刻、城内に動いている者の気配はない。
庄兵衛が、睡魔を堪えながら、鉄瓶から冷え切った白湯を、椀に注ごうとしていた。湯気すら立ち上らぬ、ただの水のような白湯であった。
光秀は、手にしていた筆を、静かに置いた。
両の目は充血し、目の下には、黒い隈が、色濃く張り付いている。だが、その瞳の奥には、疲弊を突き抜けた冷たい光が宿っていた。
「庄兵衛」
「は……」
「銀は、消えておらぬ」
庄兵衛は、鉄瓶を持ったまま、怪訝そうに首を傾げた。
「されど日向守様、大津の蔵も、草津の会所も、銀の納まり所は空でございました。どこを探しても、銀の山などは見当たりませぬ」
「空になるほど、使われたのだ」
光秀は、散らばる紙片の一枚を、指先で弾いた。
「銀がどこかの蔵に眠っていると思うたから、見つからなんだのだ。銀は、入ったそばから、使われておる。……だが、何に使われた。酒か。米か。違う。職人どもは車を作り、鍛冶屋は鉄を打ち、百姓は河原を買い取った。……使われた先を見よ。草津へ戻るぞ」
光秀は立ち上がり、泥のついた脚絆を、再び結び直した。
徹夜の冷えで、足元の関節がかすかに鳴った。だが、頭の中だけは、冷え切った刃のように冴えていた。
庄兵衛も、眠気の残る目をこすりながら、慌てて後に続いた。障子の外、東の空が、ようやく、薄い群青色に変わり始めていた。
草津宿の東、野洲川へ至る街道を、光秀と庄兵衛は、馬を降り、歩いて進んだ。
光秀は、ふと立ち止まり、周囲を見渡した。半年前、近江の検分で通った時の記憶と、目の前の風景とを、照らし合わせるように。
「庄兵衛。ここは以前、何であった」
庄兵衛が、周囲を見回しながら、記憶を探った。
「……腰まで浸かる泥深い低湿地にございます。夏場は水が引かず、葦が茂るばかりで、馬を通すことすら叶わぬ、捨て地でございました」
だが今、光秀の足元にあるのは、人の膝の深さまで川砂利が敷き詰められ、踏み固められた、白く乾いた広大な砂利の広場であった。荷車が何十台と行き交っても、車輪が沈む気配すら、どこにもない。
さらに歩みを進める。
かつて藪を分ける獣道であった土手の道が、幅二間半の直線道に削り広げられている。両脇には土砂崩れを防ぐ杭が打たれ、泥濘を避ける側溝までもが切られていた。
川岸を見れば、皮を剥いだ生松の丸太を打ち込んだ頑丈な桟橋が、等間隔に三つ、川面へと突き出している。丸子船が横付けされ、草の俵が、滑るように陸揚げされていた。
広場の奥には、十頭ずつ馬を収容できる仮設の厩舎が、四棟、並んでいる。柱の間隔や屋根の高さは、棟ごとに少しずつ違う。だが、どれも馬十頭規模に揃えられていた。
光秀は、道幅を歩測した。二間半。
車止め杭の間隔を見る。三尺。
場所を変えて測っても、ほぼ変わらなかった。
厩舎の柱の間隔、桟橋の丸太の太さ、どれを見ても、細部まで揃えられたわけではないのに、使いやすい寸法に収束しているように見えた。
「誰が、この普請を差配したのだ」
光秀が、呟いた。
「安土から普請奉行が出た記録はない。郡代も代官も、このような土木の届け出は出しておらぬ。……誰が、縄を入れた」
庄兵衛が、周囲を警戒しながら言った。
「これは……どこぞの大名か、あるいは草津の豪商が、人を雇って一気に作らせたのではございますまいか。偶然にしては、あまりにも整いすぎております」
光秀は答えず、眉間に深い影を落としたまま、歩き続けた。
武士として、これまで数え切れぬほどの戦場を歩き、数え切れぬほどの城や街道の普請場を検分してきた。だが、これほどまでに、誰の差配かも分からぬまま、ただ景色だけが塗り替えられていく現場に立ち会ったことは、一度もなかった。
昼過ぎ、光秀は、草津宿の会所の奥へと足を運んだ。
町年寄の茂右衛門を呼び出し、過去三月の、周辺の土地売買記録、証文の控えを出させる。
野洲、草津、大津、山崎。街道沿いの証文が、机の上に、山と積み上げられた。
光秀は、一枚ずつ、証文を繰った。
買い手の名を見る。
堺の大商人・今井宗久の名はない。津田宗及の名もない。京の豪商の名もない。草津の問屋頭の名すらない。
そこにあるのは、無数の、泥臭い小民の名であった。
『野洲郷百姓・三吉 荒地一反歩 代銀十七匁』
『草津宿馬方・権六 土手下藪地半反 代銀八匁』
『大津日雇い・助八 川端空地二反歩 代銀三十五匁』
『車大工弟子・友吉 道端敷地一反歩 代銀二十匁』
『茶屋女房・おきち 道端敷地半反 代銀六匁』
一反、半反、二反。
誰も、大きく買っていない。誰も、広大な土地を一括で買い占めてなどいない。証文の日付を追えば、最初の一枚から最後の一枚まで、二月余りのうちに、なだれのように書き重ねられていた。
だが、その小口の証文が、百枚、二百枚と集まった結果として、野洲川から草津宿に至る広大な低湿地が、残らず、荷車の道と砂利広場に姿を変えていた。
庄兵衛が、証文を指差した。
「日向守様、これは名義を偽っているのではございませぬか。誰か一人の金主が、百姓や馬方に小銭を握らせて名義を借り、土地を買い集めさせているのでは」
光秀は、しばらく証文の爪印を見つめた。
「……かもしれぬ。だが、そうとも言い切れぬ。爪印の深さを見よ。代金を支払った折の筆跡を見よ。……細かく地目を分け、境界の杭をめぐって名主の前で争っている。名義を借りただけなら、ここまでするだろうか」
茂右衛門が、青ざめた顔で、机の上の紙の束を見つめていた。
「日向守様……この二月で、控え帳が三冊目に入りましてございます。持ち込まれる紙が多すぎて、綴りが追いつかぬのでございます」
茂右衛門は、それ以上何も言わなかった。理由を説明する言葉を、持ち合わせていない顔であった。
その日の昼下がり、野洲川の土手を歩く光秀の前に、枯れ葦の束を背負った老人が、通りかかった。
十年前からこの河原の洲に、掘っ立て小屋を建てて住んでいるという古老、与平であった。歯の抜けた口に、煙管をくわえている。
光秀は、足を止め、声をかけた。
「爺さん。この河原に長く住んでいると聞いた。問いたいことがある」
与平は立ち止まり、光秀の身なりを、煙管越しに見やった。
「……あんたも、土地を買いに来たお侍かい」
「違う。……この道を見よ。この砂利広場を見よ。半年前には泥沼であったものが、これほど整えられておる。いったい、誰が指図してこれを作らせたのだ。誰が最初に差配した」
与平は、煙をふうと吐き出し、歯のない口で、カカカと笑った。
「指図? 差配? そんなもん、あるわけねえだろ、お侍さん」
与平は、背中の葦を土手に下ろし、腰を叩いた。
「最初は、秋の初め頃だったかね。……気づけば、砂利が増えておった。いつの間にか広場になっておった。誰が始めたのか、わしにも分からん。馬方が一人、泥に車輪を取られて砂利を敷いた。……それから、隣も敷いた。甚八が銭を取り始めた。向かいも真似をした。船頭が桟橋を作った。車大工が小屋を建てた。……いつの間にか、こうなっておっただけじゃよ」
光秀は、与平を見つめた。
与平は煙管を灰落としで叩き、また葦の束を背負い直した。
「誰も命令なんぞしちゃいねえよ。お役人の指図もねえ。……皆、儲かる方へ歩いただけじゃ」
与平は、それだけ言うと、土手道を、ゆっくりと歩き去っていった。
枯れ葦を背負った老人の背中が、夕暮れの土手の向こうに、小さくなって消えていった。
川沿いには、白く踏み固められた道が続いていた。
光秀は、しばらくその背中を見送ったまま動かなかった。
「……そんなことで、ここまで広がるものか」
低い呟きが、風に消えた。
光秀は、足早に、草津の職人街へと引き返した。
夕暮れの冷気の中、鞴の火が、赤々と燃えている。
鍛冶屋の炉端の隅、板の間に、錆びた鍬が二本、転がっていた。
三日前、老百姓の作平が抱えていた、あの刃先の割れた鍬であった。埃を被り、泥がついたまま、同じ場所に放置されている。
作平が、寒さに震えながら、作業場の前で腰をかがめていた。
「親方……まだ、直らねえかい。もう三日待っておるんだが」
親方の鉄蔵は、金床から顔も上げず、真っ赤に焼けた車輪の鉄輪を槌で叩きながら怒鳴りつけた。
「手が空かねえと言ったろ! 大八車の鉄輪が先だ! 待てねえなら、その錆びた鍬を持って他へ行け!」
火花が飛び散り、作平は縮み上がって後ずさった。
隣の桶屋の軒下には、味噌屋から頼まれた大桶の側板が、雨除けの筵の下で黒ずんで黴が生えていた。職人の手は、すべて、馬用の飼葉桶を組み上げる作業に取られていた。百二十個の木桶が、通りへ溢れ出すように積み上がっている。
向かいの縄屋でも、琵琶湖の漁師が使う漁網の麻縄は、棚の奥で埃を被ったまま、注文すら途絶えかけていた。店先を埋め尽くしているのは、荷車用の太い荒縄と、荷締めの縄ばかりであった。
光秀は、鍬を見た。
桶を見た。
縄屋を見た。
どの店にも、同じ匂いがした。
庄兵衛が、耐えかねたように小声で言った。
「日向守様……銀が、人を動かしているのでございましょうか」
光秀は、煙を見つめたまま、首を振った。
「銀ではない」
「では、何なのです」
「……それが、分からぬ」
光秀の声は、低く、かすれていた。
庄兵衛は息を呑み、それ以上を問えなかった。
鍛冶場の炎が、二人の顔を、赤く照らしていた。
深夜、坂本城の書斎。
行灯の灯りの下、光秀は一人、机に向かっていた。
机の上には、安土の信長へ差し出すための、上申書の用紙が広げられている。
光秀は筆を執り、墨を含ませた。
だが、書き始めては、筆を止める。
『草津異変之首謀者』――そこまで書いて、墨を塗り潰した。首謀者などいないのだ。
『煽動の商人』――また塗り潰す。商人は、ただ利を追っただけだ。
『不正の代官』――塗り潰す。代官に不正は見当たらぬ。
破り捨てられた反故紙が、火鉢の中に、三枚、四枚と放り込まれていった。
光秀は、新しい紙を引き寄せた。
役人の文言を捨て、見たままの事実だけを、削ぎ落とされた筆致で書き留めた。
『草津大津の間、荷車道ならびに繋馬所、各所に増長仕り候。
調べ候えども、指図の主を見ず。
普請・売買ともに日々増加仕り候』
それだけであった。対策も書けない。首謀者の名もない。ただ、「主がおらぬのに増えておる」という事実だけが、紙の上に、黒々と残された。
光秀は、筆を置いた。
障子を開ける。冷え切った琵琶湖の夜風が、書斎の書類を、パラパラと揺らした。
湖面は、ただ黒かった。
風の音に混じって、どこかで車輪が鳴った気がした。
幻聴か。現実か。それすらも分からない。
光秀は、暗黒の夜気を見つめたまま、微動だにしなかった。
庄兵衛が静かに進み出る。
「日向守様……」
安土の天主が脳裏をよぎる。
信長様は必ず問われるであろう。
『誰がやった』
と。
光秀は首を振った。
「見つからぬ」
庄兵衛が息を呑む。「は……?」
「……見つからぬのだ」
光秀は帳面を閉じた。
障子が風に鳴った。




