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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第二百二十四話:異常発見

第二百二十四話:異常発見


 山城と近江を分かつ逢坂の切り通しは、夜明け前から重い霧の底に沈んでいた。

 赤土の切り立った崖肌には、冬枯れの笹が寒風に震えながら張り付き、霜解けの水が細い筋となって絶え間なく滴り落ちている。谷底を吹き抜ける風は、比叡の峰から吹き降ろす雪の匂いを微かに孕み、肌を刺すように冷たかった。

 その谷底を貫いて延びているのは、織田信長が自らの手で均させた、幅四間の新しい街道であった。

 だが、その大道が、初冬の長雨によって、底知れぬ泥の溝と化していた。

 両側の崖から流れ落ちた雨水は逃げ場を失い、赤土の路面一面に広がって巨大な赤泥の沼を作っている。泥濘の深さは人の脛半ばに達し、粘りつく赤泥は、草鞋の底に団子のようにへばりつき、一歩足を踏み出すごとに、ずぶりと音を立てて足首を泥の底へ引きずり込もうとする。

 その泥沼の真ん中に、太い松の角材で作られた真新しい高札が、時雨に濡れそぼって立っていた。

 雨水が木肌を黒ずませていたが、信長の直筆を几帳面に写した墨の文字は、削り取られたように鋭く、今も鮮やかに浮かび上がっている。

『駄賃定宿並び条々

 草津大津間 一駄につき銭五十文

 大津京都間 一駄につき銭四十文

 みだりに駄賃を増減し、あるいは往還の荷を留め置く輩は、身分を問わず厳科に処すべし

 天正九年十月 朱印』

 高札の末尾に押された信長の朱印の赤さだけが、鉛色の霧の中で、まるで乾かぬ血のように冷たく光っていた。


 明智光秀は、煤けた渋紙の羽織の襟を深く掻き合わせ、笠を目深に傾けながら、その高札の脇を静かに通り過ぎた。

 羽織の裾は泥水を含んで重く垂れ下がり、泥除けの脚絆には赤土の塊が幾重にもこびりついている。帯には、目立たぬように古びた黒漆の脇差を一本差しているだけであった。供の溝尾庄兵衛もまた、馬の口取りが着古した継ぎ接ぎだらけの麻の小袖を纏い、泥にまみれた手綱を握りしめて、光秀の三歩後ろを無言で従っていた。

 光秀の視線は、泥濘の底を這うように動いていた。

 道端には、荷崩れを起こして車輪を泥に取られた大八車が二台、車軸を折ったまま打ち捨てられていた。荷台に積まれていたはずの雑木薪の束は、縛り縄が解け、赤濁りの泥水の中に半ば沈んでいる。

 油の切れた荷車の車軸が、谷の奥で「ギギギ、ギギギ」と金切り声を上げ続けている。泥から足を引き抜く馬の蹄が、ズチュ、ズチュと重い音を立て、そのたびに馬の荒い息が、白く凍った塊となって寒風の中に飛び散っていた。

 街道が逢坂の峠へと差し掛かる辻の正面に、関所の番小屋が建てられていた。

 小屋の低い格子窓の内側では、安土から派遣された下級役人の平林忠左衛門が、火鉢の薄い灰に手をかざしながら、冷え切った帳面を広げていた。

 小屋の前を一頭の荷馬が通り過ぎる。忠左衛門は顔を上げもせず、差し出された通行手形に一瞥をくれただけで、手元にあった墨壺から木判を取り上げ、ペタリと冷たい音を立てて捺した。

「四十文。通れ」

 それだけであった。忠左衛門は荷の中身を改めない。俵の重みも量らない。引いている馬が息絶えそうに泡を吹いていることにも、一切目を向けない。ただ、紙の上に「炭・一駄・四十文」という文字が並んでいることだけを確認し、判を捺して先へ流す。

 その番小屋のすぐ向かい、泥濘の街道を挟んだ崖下に、茶屋『山中屋』の古びた暖簾が、冷たい時雨に濡れそぼって垂れ下がっていた。


 光秀は暖簾を押し分け、土間へと足を踏み入れた。

 茶屋の中は、外の寒気と大して変わらぬ冷気に満ちていた。客をもてなす気など端から持ち合わせていないような、油煙で真っ黒に燻された粗末な空間である。中央に据えられた素焼きの竈からは、湿った割り木が不完全燃焼を起こして、目も開けられぬほどの青い煙を濛々と吐き出していた。煙は低い天井に淀み、土間の隅々まで酸っぱい匂いを充満させている。

 筵を敷いただけの粗末な床几が、土間に三つ並んでいた。そのうち二つは、泥まみれの荷縄や濡れた藁草履が無造作に放り込まれ、使い物にならなかった。

 光秀は一番奥の、壁際に置かれた床几の端に腰を下ろした。

 竈の脇で、茶屋の亭主である六兵衛が、欠けた火箸で炭の燃え殻を無気力に突き回していた。六十をとうに超えた老爺であり、煤けた半纏の袖口からは、垢で汚れた痩せた腕が突き出ている。客が入ってきたというのに、いらっしゃいの一言すら口にしない。

 庄兵衛が無言で歩み寄り、懐から鐚銭を十文取り出して、竈の脇の汚れた板の上に置いた。

「白湯を二椀頼む」

 六兵衛は銭の数を目だけで確かめると、何も言わずに柄杓を取り、竈の上の鉄釜から白濁した湯を掬った。欠けた瀬戸物の椀に注がれた湯は、湯気すらろくに立ち上らない、ぬるい白湯であった。底には薄く灰が沈んでいる。

 庄兵衛が椀を光秀の前に置き、自らは床几の脇の泥土の上に、片膝をついて控えた。

 光秀は椀を両手で包み込んだ。温もりは指先に届かない。ただ、椀の生温かい湿り気だけが、凍えた掌に伝わってくる。

 光秀の座る位置からは、破れた暖簾の隙間を通して、逢坂の切り通しを行き交う人馬の足元が、ちょうど目の高さで見えていた。

 赤土の泥を撥ね上げて進む馬の脚。蹄鉄の磨り減った蹄が、泥水の中の見えない石に躓いては、ガクンと膝を折る。そのたびに、馬方の荒い罵声と、鞭が馬の尻を打つ鈍い音が、雨の音に混じって土間の中まで響いてくる。

 光秀は椀に口をつけず、ただその泥の足元を見つめ続けていた。

 坂本城の広間で弾いた算盤の珠の音が、耳の奥に甦っていた。

 百四十頭。

 公定の伝馬は百頭。

 合わぬ。

 帳面の上では、どう計算しても足りなかった。

 だが、今、目の前にある街道を見よ。

 馬はいる。

 泥を蹴り、湯気を吐き、荷車を引く馬の列は、途切れることなく関所へ吸い込まれていく。

 帳面に載らぬ馬が、ここにはいるのか。

 ならば、なぜ長秀は倒れたのか。

 なぜ安土の普請材は届かず、なぜ都の薪炭は尽き果てたのか。

 光秀の眉間に、深い皺が刻まれた。

 頭の中の帳面と、目の前にある泥の現実が、寸分の噛み合わせもなく擦れ違っている。その違和感の正体が掴めぬまま、光秀はただ、冷え切っていく椀を見つめるしかなかった。


 表の街道から、ひときわ重い軋み音が近づいてきた。

 車軸の擦れ合う音ではない。木輪が泥の底に深く沈み込み、引き抜くことすら叶わぬような、絶望的な重荷の音であった。

 茶屋の暖簾が力なく揺れ、表の泥道に一台の荷車が止まった。

 大八車の荷台には、藁縄で固く縛られた木炭の俵が十俵、二段に積まれていた。山城の山奥で焼かれ、都の町衆へ届けられるはずの公用の炭であった。俵の筵は長雨を吸って黒ずみ、泥水が筋になって滴り落ちている。

 その荷車を引いていたのは、一頭の老馬であった。

 毛並みは泥に塗れて元の色が分からず、首を地面すれすれまで力なく垂れ下げている。肋骨の筋が、薄い皮の下に刃物のように浮き上がり、脇腹はペコペコと浅く、苦しげに波打っていた。口元からは白く濁った泡が泥水の中に垂れ落ち、四本の脚は泥の中で小刻みに震えている。

 荷車の梶棒から手を離し、一人の老馬方が茶屋の暖簾をくぐってきた。

 源造であった。

 六十近い体は、長年の荷運びで腰が弓のように曲がり、着ている木綿の小袖は袖口も裾も擦り切れて襤褸のようになっていた。草鞋は鼻緒が切れかかり、泥除けの麻縄を幾重にも巻きつけて無理やり足に留めている。

 源造は土間に入ると、光秀の座る床几とは反対側の、竈の前の冷たい泥の上に、崩れ落ちるように腰を下ろした。

 荒い息が、乾いた喉からヒューヒューと笛のように漏れる。老人は懐に手を差し入れ、ぐしゃぐしゃに湿り気の崩れた一枚の通行手形を取り出した。

 関所で忠左衛門に切ってもらったばかりの通行手形であった。

 そこには、墨黒々と記されている。

『炭十駄 大津より京都三条まで 駄賃銭四十文 改済』

 源造は、その四十文と書かれた文字を、血走った濁った目で見つめていた。

 その指先が、寒さからではない、抑えようのない震えに小刻みに揺れていた。

 光秀は、床几の上で微かに身じろぎをした。

 視線を源造の手元へ落としたまま、旅の浪人を装った、低く穏やかな声をかけた。

「爺さん。山城まで炭を運ぶのか。大雨の中、難儀な道中だな」

 源造は顔を上げなかった。ただ、土間の泥を見つめたまま、吐き捨てるように濁った声を出した。

「……難儀なんてもんじゃねえよ。地獄だ」

「地獄?」

 光秀は白湯の椀を持ち直し、何気ない調子を装って言葉を継いだ。

「手形を見れば、四十文とあるではないか。高札の通りだ。信長様のおかげで、昔のように関所ごとに小銭を毟り取られることもなくなった。四十文まるまる手元に残るのだから、悪くはあるまい」

 その言葉が、老人の胸の奥底に燻っていた何かに、火をつけたようであった。

 源造は勢いよく顔を上げた。

 あかぎれで割れた唇がめくれ、黄ばんだ歯が剥き出しになる。泥と煤にまみれた顔の中で、落ち窪んだ両眼だけが、異様な光を放って光秀を睨み据えた。

「旦那、あんたお侍だな。お役人と同じようなことを言いやがる」

「何だと」

 庄兵衛が腰の刀に手をかけようとしたが、光秀は指先で、制するように膝を軽く叩いた。

「構わぬ。爺さん、わしはお役人ではない。ただの旅の者だ。高札の文字をそのまま口にしただけだ。気に障ったなら謝ろう」

 光秀の穏やかな声音に、源造の肩からわずかに力が抜けた。だが、吐き出す息の熱さは変わらなかった。

「謝るこたあねえよ。お侍には分からねえんだ。……四十文の銭に文句はねえよ。わしは三十年、先代の六角様の時代からこの道で馬を引いてるがね、昔なら四十文ありゃあ十分だったさ」

 源造は、手形を泥土の上に叩きつけた。

「だが今はどうだ! 四十文貰ったところで、一文も手元に残りゃしねえ! 残らねえどころか、引けば引くほど、わしの懐から銭が消えていくんだ!」

 光秀の目が、わずかに細められた。

「なぜだ。四十文は四十文であろう。誰かに中抜きでもされているのか。関守が袖の下を要求したのか」

「そんな悪党がいてくれたら、まだ話が早えよ!」

 源造は声を荒らげ、激しく咳き込んだ。六兵衛が竈の脇から冷たい目を向けたが、止める風もなかった。

「草が買えねえんだよ」

 源造は、胸を拳で叩きながら、絞り出すように言った。

「草が、買えねえんだ」

「銭が足りぬのか」

「銭ならある!」

 源造は懐の薄い銭袋を泥の上に放り出した。チャリと鈍い音がした。

「ここに四十文ある! 二十文出してもいい、三十文積んでもいい。……それでも、売らねえんだよ」

 源造の喉が、引き裂かれるような音を立てた。

「『金を出されても困る』ってよ。『一束たりとも外へは出せねえ』って、門前払いを食らわされちまうんだ!」

 源造は立ち上がり、茶屋の破れた暖簾を荒々しく引き開けた。

 指差す先、雨の煙る街道を、一台の大八車がゆっくりと通り過ぎていく。

 荷台に積まれているのは、筵で覆われた大きな荷であった。雨に濡れた筵の下から、わずかに乾いた葉の匂いだけが漂っている。

「あれを見ろ……」

 源造の指が、怒りと悲しみで震えていた。

「あそこを通ってるだろ。なのに、わしの馬には一筋の枯れ葉すら分けてもらえねえ! 銭を積んだって売ってくれねえ草を、どうやって馬に食わせりゃいいんだい!」

 源造は膝から崩れ落ち、泥の中に手をついた。

「昨日も一昨日も、草を一束しか食わせてねえ。……今朝は道端の枯れ草をさらって食わせた。もう、馬の腹の中には泥と水しか入ってねえんだ。都まであと三里……この坂を登り切る前に、馬が膝をついちまう。馬が死んだら、炭は都へ届かねえ。……お上の掟通りに、四十文で炭を運んでいる馬から先に、干からびて死んでいくんだよ!」

 源造の濁った眼から、泥にまみれた涙が零れ落ち、土間の赤土に小さな染みを作った。

 光秀は、息を止めていた。

 手の中の白湯が、完全に冷え切っていた。


 その時、街道の泥濘を蹴散らす、激しい蹄の音が響いてきた。

 ズザザザッ、と水飛沫が上がり、茶屋の表に一台の大八車が猛烈な勢いで滑り込んできた。跳ね上がった赤泥が、暖簾をくぐって土間まで飛び散り、源造の炭車の筵を無残に汚した。

 引いているのは、筋骨逞しい黒鹿毛の若駒であった。

 肋骨など微塵も浮いていない。濡れた毛並みは黒光りし、太い首筋からは白い湯気が力強く立ち上っている。

 荷台の上には、油紙を掛けた巨大な荷が積まれていた。雨除けの隙間から、乾いた草の先が幾筋もはみ出している。

「おい爺さん! 邪魔だ邪魔だ! そんな死にぞこないの馬、さっさと道の端へ寄せねえか!」

 梶棒を放り投げ、泥除けの脛当てを鳴らしながら土間へ踏み込んできたのは、二十代前半の若き馬方、作次であった。

 頬は寒風に赤く染まり、泥まみれの着物を着ているが、その足元には、まだ下ろしたばかりと思われる真新しい藁草履が履かれていた。

 作次は源造の痩せ馬を一瞥し、鼻を鳴らした。

「こんな骨と皮ばかりの馬で炭なんか運んでるから、草が回ってこねえんだよ。見てみろ、俺の馬を。腹いっぱい食って、毛艶もぴかぴかだ」

 作次は茶屋の奥から、堺風の手代が無言で立ち上がるのを待った。手代は懐から紙に包んだ銀の粒を渡し、作次は包みの重みを掌で量り、ニヤリと笑った。

 手代は関所の通行手形を渡す。そこには公儀の印で「草津宛て雑荷・駄賃五十文・改め済み」と記されている。

 光秀が静かに近づいた。

「若い衆。手形には五十文とあるが、その銀は何だ」

 作次は光秀の浪人姿を上から下まで舐めるように見回し、鼻を鳴らした。

「知るか。問屋がくれるから貰ってるだけだ」

「五十文の高札を知らぬわけではあるまい」

 作次は汁椀を置き、せせら笑った。

「知ってるよ。高札に五十文と書けって言われてるから、手形には五十文と書いてあるじゃねえか。文句あるかい」

 作次は源造の痩せ馬を顎で指した。

「炭なんざやってられるか」

 作次は鳥汁の代金を銭で放り出すと、茶屋を出ていく。馬の轡を引き、泥濘を蹴散らして先を急いだ。

 源造は、土間の泥に膝をつき、ただその背を見送っていた。


 光秀は番小屋へ向かった。

 平林忠左衛門が帳面を閉じようとしているところであった。

「平林殿」

「……何でござる、旅のお方。もう暮れ六つだ、手形なら明朝にされよ」

「あの若者は草を運んでおった。銀を受け取っていた。炭の馬は草を買えぬと言う。これは偶然なのか」

 忠左衛門は眉を吊り上げ、光秀を睨み返した。

「知らん! わしはお上の定めた通り、手形の四十文を改め、荷を通しておるだけだ。あの若者がどこで何を食おうが、馬に何を食わせようが、関所の預かり知るところではない! 判を押すのが役目だ。文句があるなら、安土の奉行所へ行って言え!」

 忠左衛門はピシャリと格子窓を閉ざした。


 光秀は茶屋の表に立ち尽くした。

 四十文。

 五十文。

 誰もその額に文句を言わなかった。

 炭は四十文。

 草は五十文。

 それでも馬は痩せる。

 草車は通る。

 だが誰も売らない。

 そして、高札にはない銀が、草の荷にだけ乗っている。

 そんな馬鹿なことが、どうして起きる。

 光秀は時雨に煙る街道を見た。

 泥にまみれた四間の道の上で、何かが狂い、音もなく軋んでいる。

 ただ、時雨の音だけが、泥の中に吸い込まれていった。

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