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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第二百二十三話:四帳突合

第二百二十三話:四帳突合


 夜明け前、坂本城の大広間には、まだ闇が濃く残っていた。

 四隅に置かれた火鉢の炭は頼りなく、吐き出す息は白く凍って、広間の高い天井へと吸い込まれていく。筆を濡らす水入れの縁には、針のような氷の結晶が、すでに張り付き始めていた。

 光秀は、朝餉を摂らぬまま、広間に入った。地味な墨染めの羽織を纏い、帯に刀は差していない。控えていた勘定奉行の三宅藤兵衛、筆頭筆生の茂助、若き算術方の弥一郎が、慌てて居住まいを正した。

 藤兵衛は、坂本領内の年貢と出納を、長年取り仕切ってきた五十絡みの老練な吏員であった。信長の定めた算術の掟に忠実で、帳簿の数字が合致していることこそが正義であると信じて疑わぬ男である。弥一郎は、寺院で最新の割算術を学んだ二十代の若者で、数字を追う目つきだけは、この場の誰よりも鋭かった。

 長秀が「合わぬ」と言うなら、どこかに、必ず漏れがあるはずだ。数字を突き合わせれば、必ず見つかる。光秀は、そう信じて、この広間に足を踏み入れていた。

「広間の畳を、すべて上げよ」

 藤兵衛が、驚いた顔で光秀を見た。

「畳を上げますと、板敷きの冷えが、まともに身に応えまする。長丁場になりましょうに」

「紙を広げる。畳の縁の段差すら邪魔になる。板敷きを清めよ」

 光秀の声には、迷いがなかった。小姓たちが、次々と畳を運び出していく。広間には、冷え切った杉板の広い平面が露わになった。

 光秀は、北側の白壁を指差した。

「あの壁一面に、表具用の厚手の白紙を貼れ。日ごとの帳面の数字を、墨で書き写す。頭の中にある数字を信じるな。すべて壁に吐き出させよ」

 庄兵衛が指示を飛ばし、長大な白壁一面に、白紙が貼り巡らされていく。広間は、たちまち巨大な帳面の内側へと変わった。

 畳を剥がされた杉板は、冬の冷気をそのまま吸い上げ、足袋の底を氷のように刺した。小姓たちの足音が、板敷きの上で、乾いた音を立てて響く。

 光秀は、板敷きに並べられた四つの帳面の山を指した。

「草の帳、馬の帳、銀の帳、駄賃の帳。この四つを、十月朔日から十一月二十五日まで、日を追うて横に並べよ」

 勘定衆が、算盤を膝元に置き、筆を執った。葛籠の蓋を開ける乾いた音、紙の擦れる音、墨を擦る音が、次々と広間に満ちていく。

 庄兵衛が、板敷きの隅に、火鉢をもう一つ運び入れながら、光秀に問うた。

「日向守様。このまま、進めますか」

「進めよ」

 光秀の返事は、短かった。

 坂本城の長い一日が、冷気の中で幕を開けた。


 冬の日が高く昇るにつれ、作業は熱を帯びていった。

 茂助が、草の帳をめくり、大声で読み上げる。

「十月十二日、野洲郷百姓弥八、干し草四十束、受取相違なし」

「同十三日、守山宿送り、四十束、受取問屋六兵衛」

 弥一郎が算盤を弾き、日ごとの累計を弾き出す。珠の音が板敷きに響き、藤兵衛が、壁の白紙に大筆で数字を書き入れていく。

 壁一面は、いつしか日付ごとの数字で埋め尽くされていた。十月朔日から十一月二十五日までの、草・馬・銀・駄賃の四本の列が、端から端までびっしりと並んでいる。

 正午近く、庄兵衛が、握り飯を盆に載せて運んできた。

「日向守様、少しは、お召し上がりを」

 光秀は、盆を一瞥しただけで、また帳面へと目を戻した。

「後でよい」

 庄兵衛は、それ以上、勧めなかった。盆を板敷きの端に置き、黙って持ち場へと戻っていった。握り飯は、そのまま、冷えていった。

 昼過ぎ、藤兵衛が、額の汗を拭いながら、光秀の前に膝を進めた。その顔には、明らかな安堵の色が浮かんでいた。

「日向守様。草の帳、検分仕りました。長秀様がお送りくださった帳面、誠に見事なものにございます」

「見事、とは」

「入りと出の数字が、一日たりとも狂うておりませぬ。野洲や栗太から持ち込まれた草は、その日のうち、あるいは翌日には、すべて大津や瀬田、膳所の厩へと綺麗に引き渡されております。残高は常に零。不正や横領の入る隙間など、どこにもございませぬ」

 続いて茂助が、馬の帳を差し出した。

「馬の帳も同様にございます。大津五十頭、草津五十頭。連日、定数通りの伝馬が出立し、公定の駄賃五十文を受け取った証文が揃っております。過不足は一頭もございませぬ」

「駄賃帳も、銀の帳も、すべて帳尻が合っております。丹羽様は、誠に厳格に差配されておりました。……手前どもには、なぜ丹羽様があれほどまでに思い詰められたのか、合点がいきませぬ。どこにも破綻などないのではございませぬか」

 少し遅れて、両替の帳を検めていた勘定衆の一人が、膝を進めた。

「銀の帳も、相違ございませぬ。……ただ、十月に比べ、十一月に入ってからの銀の動きが、異様に多うございます。草津方面への引替高が、日を追うごとに膨れ上がっております」

「多いだけか。合わぬところは」

「合わぬところは、一つもございませぬ。渡した銀、受け取った銭、すべて帳尻通りにございます」

「駄賃帳は」

 茂助が、別の一冊を差し出した。

「公定の五十文が、一貫して守られております。裏で銀払いをしたような痕跡は、帳面の上には、どこにも見当たりませぬ」

 勘定衆の言葉に、光秀は答えなかった。

 壁を見上げる。几帳面な美しい文字で、整然とした数字の列が並んでいる。

 どこにも破綻はない。誰一人、法を破っていない。帳簿の上では、近江の宿場は、天下で最も清廉で、最も淀みなく機能している理想郷であった。

 だが、光秀の耳の奥には、長秀の掠れた声がこびりついて離れなかった。

『合わぬ。何度見ても、合わぬ』

 庄兵衛が、冷えた茶を運んできた。光秀は、それに手をつけなかった。湯気だけが、しばらく板敷きの上で立ち上り、やがて消えた。

 光秀は立ち上がり、壁の前に立った。

「藤兵衛」

「は」

「個々の帳面が合っておるのは、分かった。……では、この四つを掛け合わせたら、どうなる」

「掛け合わせる、と仰せられますと」

 藤兵衛は、光秀の言わんとすることが理解できず、目を白黒させた。

 光秀は、それ以上、説かなかった。壁に貼られた四本の数字の列を、端から端まで、ゆっくりと目で追っていくだけであった。

 茂助が、なおも草の帳を読み上げ続けている。

「十月中旬、野洲川の刈り分け以降……一日六百束、八百束、千束と、日を追うごとに増えております」

「十一月に入りましてからは、一日千五百束、二千束……」

 その声が、次第に低くなっていく。読み上げるたびに、数字が大きくなっていくことに、茂助自身が、戸惑い始めていた。

 弥一郎が、駄賃帳の頁を繰りながら、ふと呟いた。

「されど、妙にございます。荷の数そのものは……十一月に入って、めっきり減っておりまする。炭も、米も、塩も、一日数十件あったものが、いまでは数件にまで」

「草だけが、増えておると申すか」

「はい。他のすべてが、干上がるように減っていく中で、草だけが」

 光秀は、それには答えず、壁の前を、ゆっくりと歩き続けた。

 日が傾き、障子越しの光が、次第に橙色を帯びていく。庭の向こうに広がる比叡の山影が、墨を流したように濃くなっていった。

 夕餉の膳が運ばれてきたが、光秀は、それにほとんど手をつけなかった。勘定衆も、誰も箸を動かす気になれず、壁の数字の前で、黙って身を縮めていた。


 行灯に火が入る。広間は影に沈み、壁の白い大張り出しだけが、無数の数字を浮かび上がらせていた。灯火の揺らめきが、壁に書き殴られた数字を、まるで生きている影のように蠢かせている。

 光秀は、自ら板敷きに膝をつき、一台の算盤を引き寄せた。

 広間の空気が張り詰める。

 光秀は、庄兵衛を呼んだ。

「庄兵衛。馬一頭に、干し草は何束積める」

「馬の背の両脇に振り分けにして、十束。無理を押して縄で縛り上げても、十三束が限界にございます。それ以上積めば、馬の腰骨が折れましょう」

「草津から大津まで、三里二十九町。冬のぬかるみ道を、馬は一日に何往復できる」

「荷を積み、泥に足を取られ、大津で降ろして戻る。……朝から晩まで休まず歩かせても、二往復が関の山にございます。三往復させれば、翌日には馬が動かなくなりましょう」

 庄兵衛は、少し間を置いて、付け加えた。

「まして、この時節にございます。霜が解けたぬかるみは、馬の脚を存外に食いまする」

 光秀は、算盤の珠を五つ上げた。

「馬一頭が一日に運べる草は、多く見積もって二十束。……弥一郎、壁の十一月十五日の草の出を見よ」

 弥一郎が、壁の数字を指で追った。

「十一月十五日……大津送り、千八百束にございます」

「千八百を、二十で割れ」

 弥一郎が、手元の算盤を弾く。乾いた音が三度鳴り、止まった。

「……九十。九十頭にございます」

 光秀は頷いた。

「草津だけでは足りぬな。……だが、大津と草津を合わせても、百頭だ。まだ、届いておる」

 光秀の声には、抑揚がなかった。

「十一月二十日」

 弥一郎の指が、震え始める。

「二千四百束……必要な馬、百二十頭……」

 この瞬間、必要な馬の数が、公儀の定数を初めて超えた。

 弥一郎の顔から、血の気が引いていった。持っていた算盤が、板敷きの上に、乾いた音を立てて滑り落ちる。誰も、それを拾おうとしなかった。

 光秀は、隣の馬の帳の列を指差した。

「見よ。同じ十一月二十日、馬の帳面には何と記されておる」

 茂助が、震える声で読み上げた。

「『草津宿伝馬五十頭、大津宿伝馬五十頭、いずれも公用飛脚ならびに御普請炭を積み、遅滞なく出立』と」

 広間に、沈黙が落ちた。

 藤兵衛は、算盤の上で指を止め、しばらく動けなかった。

「十一月二十五日」

 弥一郎は、震える手で、頁を繰った。

「……二千八百束にございます」

「馬に直せば」

「百四十頭……」

 誰も、声を発することができなかった。

 光秀は、壁を見上げた。

「炭を運んだという記録も、草を運んだという記録も、両方とも検印が押されておる。……両方とも真実ならば、説明がつかぬ」

 藤兵衛が、板敷きに両手を突いた。

「そ、それは……問屋が、近隣の百姓馬を雇い入れたのでございましょうか」

「それでは、駄賃帳と合わぬ」

 光秀の声は、低かった。

「銀帳にも、雇い入れに使われた痕跡はない。あるのは、草だけが増え続けた記録だ」

 茂助も、弥一郎も、それぞれの帳面を、幾度も見返していたが、どこにも綻びは見つからなかった。誰かが嘘をついているなら、必ずどこかに、不揃いな数字が残るはずであった。だが、この壁一面の数字には、そうした不揃いが、一つとしてなかった。


 広間には、もはや誰も口を開く者はいなかった。

 壁一面に並んだ数字は、整然としていればいるほど、恐ろしい塊となって、光秀たちを見下ろしていた。

 数字は合っている。全部あるのだ。

 だが、帳面と帳面を重ね合わせた瞬間、現実の理が、砕け散る。

 光秀は立ち上がり、筆立てから朱墨の筆を抜いた。

 しばらく、その筆先を見つめたまま、動かなかった。

 壁へと歩み寄る。

 四本の太い墨線が、十一月中旬を境に、激しく歪み、互いに矛盾を孕みながら、どの線を追っても、最後は同じ辺りで絡まり合っていた。

 光秀は、その絡まり合う辺りに、朱墨で小さな印をつけた。

 赤い点が、白紙の上に残った。

 光秀は、壁に手をついた。

 庄兵衛が進み出た。

「日向守様……これは、問屋の不正にございますか」

「分からぬ」

 答えは出なかった。

 いつしか夜は深まり、行灯の火が、一つ、また一つと、油を吸い尽くして小さくなっていく。

 障子の向こう、未明の琵琶湖が、鉛色の水を湛えて広がっている。湖の向こう、見えぬ対岸の闇の底に、草津はあるはずであった。

 薄暗くなっていく広間の中で、壁の赤い点だけが、なお、はっきりと浮かび上がっていた。

 光秀は、冷え切った板敷きの上で、夜が明けるまで、その赤い点を見つめ続けた。

 耳の奥で、長秀の声が、繰り返されていた。

「調べ尽くした」

「合うのだ。……全部」

「なのに、止まる」

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