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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第二百二十二話:帳簿引継

第二百二十二話:帳簿引継


 天主への長い石段を、光秀は夜明け前の張り詰めた冷気の中、一段ずつ踏みしめて登っていた。

 石段の表面には、前夜から降り始めた霜が厚く張り付き、踏みしめるたびに、ギチ、ギチと硬い軋み音を立てて砕ける。息を吐くごとに、白く濃い煙のような塊が立ち上り、瞬く間に風に千切れて消えていく。袖口の中に深く引き込んだ手の指先は、とうに感覚を失い、石段の脇の手すりに触れれば、凍てついた木肌が手のひらの皮に吸い付くように冷たかった。

 遠く、安土の城下町からは、まだ暗闇に沈んでいるはずの普請場から、間遠な槌音が響いていた。城下の屋敷町を囲む土塁の普請か、あるいは東海道へ繋がる新道に並べる石を割る音であろうか。夜明けを待たずに人を叩き起こし、石を打たせるその鈍い響きだけが、凍てついた盆地の空気を震わせて木霊している。

 東の空の端、伊吹山の嶺のあたりが、ようやく墨色から薄い群青色へと変わり始めていた。だが、安土山の頂に聳え立つ天主の巨大な影は、なおも深い闇をその身に纏い、夜空を鋭く切り取っている。

 朝の拝謁のためであった。

 信長は朝が早い。東の空が白む前には必ず寝所を出て、天主の階下にある納戸や広間を巡り、諸国から夜半に届いた飛脚の書状に目を通すのが常であった。光秀は坂本から夜舟を仕立て、十一月二十五日の未明に安土の船着き場へ着き、冷え切った体を歩みによって温めながら、この石段を登ってきたのであった。

 石段の半ば、天主階下の長い渡り廊下に差しかかった時であった。

 左手の奥、城内の出納と各宿場の帳簿を保管している勘定納戸の引き戸が、前触れもなく、乱暴な音を立てて内側から跳ね開いた。

 バタン、と板戸が壁に激突する乾いた音が、静まり返った廊下に響き渡る。

 中から、安土詰めの勘定代官の一人が、烏帽子を曲げ、着物の裾を踏みつけながら転がり出てきた。床板に手をつき、転がるようにして光秀の足元へと這い寄ってくる。その顔は蒼白を通り越し、額には脂のような汗が滲んでいた。

「ひ、日向守様……! 丹羽様が! 五郎左衛門様が、倒れられました!」

 光秀の足が止まった。

 驚きを顔に出すよりも早く、光秀の体は動いていた。

 草履を脱ぎ捨てる間すら惜しみ、霜で湿った足袋のまま、引き戸の開け放たれた納戸の中へと踏み込んだ。

 部屋の中に満ちていたのは、廊下よりもさらに一段深い、身を切るような寒気であった。

 部屋の四隅に置かれた火鉢には、灰ばかりが白く積もり、炭の熾火はとうに消え果てて冷え切っていた。天井の低い四畳半ほどの納戸の中央には、二本の行灯が置かれていたが、油皿の油が尽きかけているのか、細い芯から不完全燃焼の黒い煤が立ち上り、梁の松材を黒々と燻らせている。

 古い反故紙の湿った饐えた匂いと、擦り立ての油煙墨の生臭い匂いが、濃密に混ざり合って鼻腔の奥を突いた。

 その板敷きの中央に、丹羽長秀が倒れていた。

 うつ伏せになり、右の袖を散乱した帳面の上に投げ出している。纏っている渋紙の袖無羽織は泥と墨で汚れ、着物の背中が、浅く、苦しげに波打っていた。

 光秀は膝を折り、長秀の肩に手をかけた。

「五郎左衛門殿」

 呼びかけに応えはない。

 抱き起こそうと力を込めた瞬間、光秀の手のひらに伝わってきたのは、生きている人間のものとは思えぬ、氷のような冷たさであった。頬は土気色に淀み、落ち窪んだ両眼の周りには、墨を塗りつけたような黒い隈が張り付いている。

 長秀の右手の指先は、今なお筆を握る形に強張ったまま固まっていた。虚空を掻くように、ピクピクと小さく痙攣を繰り返している。その指先が触れていた床板の上には、長秀の口元から吐き出された一筋の血が、黒ずんだ染みとなって広がっていた。

「五郎左衛門殿!」

 光秀は長秀の襟元を緩め、喉の奥の気道を確かめた。微かに、掠れた笛のような息が漏れている。まだ命はある。だが、その息は頼りなく、風前の灯火のようであった。

 背後で立ち竦んでいた代官二人に、光秀は鋭い声を飛ばした。

「何を呆けておるか! 直ちに担架を持ってまいれ! 城下の丹羽屋敷へ人を走らせ、常雇いの医師を叩き起こせ! 急げ!」

「は、ははっ!」

 代官たちが慌てふためいて廊下を駆け去っていく足音が、遠ざかっていった。


 長秀の体を抱きかかえながら、光秀の視線は、足元に散乱する紙の山へと吸い寄せられていった。

 板敷きの上を埋め尽くしているのは、一冊や二冊の書類ではなかった。

 棚という棚から引きずり出された分厚い帳簿が、折り目を上にして伏せられ、あるいは頁を裂かれたように重なり合い、冷え切った板敷きの上に積み上がっていた。

 『草津宿駄賃并飼葉方日鑑』。

 『東海道宿駅継立伝馬定数帳』。

 『近江国宿駅人足割当連名帳』。

 光秀は、長秀の右手が押さえつけていた一冊を、指先で引き寄せた。

 美濃紙の表紙には、黒ずんだ血の飛沫が点々と散っている。開かれた頁に目を落とした。

 十一月一日。

 受入、九百束。

 引渡、九百束。残高、零。

 頁を繰る。

 十一月十日。

 受入、九百束。

 引渡、九百束。残高、零。

 十一月二十日。

 受入、九百束。

 引渡、九百束。残高、零。

 十一月二十四日。

 受入、九百束。

 引渡、九百束。残高、零。

 九百。

 九百。

 九百。

 九百。

 光秀は、頁を繰る手を止めた。

 受取人の爪印は寸分の乱れもなく捺され、代官の花押は同じ位置に据えられ、末尾の「零」という文字だけが、几帳面に並んでいた。

 そばに平伏していた下役の代官へ、光秀は視線を落としたまま、低く問うた。

「五郎左衛門殿は、いつからこの部屋に籠もっておられた」

 代官は、畳んだ両手を床に擦り付けながら、掠れた声で答えた。

「……ここひと月ほどにございます」

「ひと月」

「は……。十月の末、草津の出帳が揃わぬとお上に叱責を受けられて以来、丹羽様は自ら草津へ足を運ばれ、差配を替え、代官を据え直されました。されど、それでも荷が動かぬと聞き及ぶや、近江十宿すべての帳面をこの納戸へ集めさせ……朝から晩まで、夜半を過ぎてもこの部屋から出ようとはなされませんでした」

 代官は、散らばる帳面を見つめながら、震える声で続けた。

「一昨日までは、まだお声にも張りがございました。『代官、数字は集まったか』『出入りは合わせたか』と、厳しく下知を飛ばしておられました。……それが、昨夜、十一月二十四日の夜半あたりから、急に様子が変わられましてございます」

「様子が変わったとは」

「同じ頁を……何十度も、何百度も、繰り直されるのでございます。算盤を弾いては伏せ、帳面をめくっては戻し……『合わぬはずがない、合わぬはずがない』と、取り憑かれたように独り言を繰り返しておられました。そして未明近く、急に息を詰まらせて吐血され、そのまま板敷きの上に……」

 廊下から、バタバタと複数の足音が近づいてきた。担架を抱えた近習たちと、長秀の近習武頭が駆け込んでくる。

 光秀の手から、長秀の冷え切った体が慎重に担架へと移されていく。

 長秀の右手の指先は、担架の上に移されてもなお、筆を握る形に曲がったままであった。


 長秀が運び出された後、納戸の中には、光秀一人だけが取り残された。

 光秀は、床に残された帳面を、もう一度見つめた。

 九百束。

 数字は、合っている。

 一束の狂いもなく、入りの九百束と、出の九百束が、寸分の狂いもなく一致している。

 光秀は、帳面をゆっくりと閉じた。

 表紙の美濃紙が、パタンと乾いた音を立てた。

 足元には、長秀の吐いた血が残っていた。

 光秀は立ち上がった。

 冷え切った納戸の空気が、喉の奥を刺すように冷たかった。


 長秀が城下の屋敷へ運ばれてから、二刻ほどが過ぎていた。

 安土の空は完全に夜が明け、冬の薄い陽光が、城下の瓦屋根を白く照らし出していた。だが、その陽光には熱がなく、風はいっそう冷たさを増していた。

 光秀は自らの宿舎で泥に汚れた着物を改め、紋付の羽織を羽織ると、供の溝尾庄兵衛だけを連れて、城下の丹羽屋敷へと馬を走らせた。

 屋敷の奥の寝所は、障子がすべて締め切られ、昼なお薄暗い闇に沈んでいた。

 部屋の隅に置かれた火鉢で、薬湯がことことと煮詰められており、生薬特有の苦い匂いと、寝汗の湿った匂いが、生ぬるい空気の中に澱んでいた。

 蒲団の枕元には、長年丹羽家に仕えている白髪の老医師が控えていた。

 光秀が敷居をまたぐと、医師は光秀の姿を認めて静かに頭を下げたが、その手は長秀の痩せ細った手首から離さず、じっと脈の乱れを確かめ続けていた。枕元には、血を拭った晒し布が何枚も桶に浸けられ、水が赤く濁っている。

 医師は長秀の手首をそっと蒲団の上に戻し、手当ての手を休めることなく、光秀へ向けて低く囁いた。

「……血は止まりましてございます。されど、気力が底をついておられます。五臓が極限まで乾ききっており、今少し手当てが遅れておれば、そのまま息を引き取っておられたところにて……」

「言葉は、交わせるか」

 光秀が低く問うと、医師は苦渋の表情で眉を寄せた。

「お止めしたきところにてございますが……先刻より、日向守様の名を何度もうわ言のように呼んでおられます。一言二言ならば……」

 医師は薬湯の椀を引き寄せ、長秀の容態を注視したまま、枕元のわずかな隙間を光秀に譲るように膝を引いた。

 光秀は蒲団の脇に静かに膝をついた。

 長秀の顔は、朝方に納戸で見た時よりも、さらに削げ落ちて見えた。頬骨が浮き上がり、唇は乾いてひび割れている。

 光秀が膝を進めると、長秀の瞼が、かすかに震えた。

 ゆっくりと開かれたその瞳は、濁った黄色を帯びていたが、光秀の姿を捉えた瞬間、奥底に微かな焦燥の光が宿った。

「……日向守、殿、か」

 声は、枯れ葉が擦れ合うように低く、かすれていた。

「五郎左衛門殿。光秀でございます。話してはなりませぬ。今はただ息を整え、養生に専念なされよ」

 光秀は、枕元に置かれていた白湯の椀を取り、長秀の乾いた唇を湿らせようとした。

 だが、長秀の枯れ枝のような左手が、蒲団から這い出してきた。

 震える指先が、光秀の羽織の袖口を、骨が白く浮き出るほどの力で鷲掴みにした。

「……草津は、見たか」

 長秀の唇が、泡を噛むように震えた。

「まだにございます。納戸の帳面を検分しただけで、草津の現場へはこれからにございます」

「見よ」

 長秀は、光秀の袖を引いた。

「見よ……日向守殿。現場を、見よ……」

「相分かった。必ずこの目で確かめてまいります」

 光秀が長秀の手を包み込もうとしたが、長秀は応えなかった。視線を天井の木目へと固定したまま、喉の奥から、掠れた息を吐き出した。

「……合う」

 光秀の手が、止まった。

「何度見ても、合う」

 長秀の胸が、ヒュー、ヒューと浅く上下した。

「……違う」

 長秀の唇が、力なく動いた。

「何かが……違う」

 光秀は、答えなかった。

 長秀の袖を掴んでいた指先から、すっと力が抜けた。

 手が、シーツの上に力なく落ちた。

 それきり、長秀は深い眠りの底へと沈んでいった。

 老医師が静かに進み出て、長秀の額に濡れた布を当て、再び脈を確かめ始めた。

 光秀は立ち上がり、音を立てずに寝所を出た。


 正午。

 安土城天主の最上階は、下層の薄暗さとは完全に隔絶された、眩いばかりの白光に満ちていた。

 南蛮渡りの硝子を嵌め込んだ窓から、影のない冬の陽光が惜しげもなく差し込み、磨き上げられた白木の板敷きが、その光を跳ね返して部屋全体を白銀色に染め上げている。窓の向こうには、青く澄み渡った琵琶湖の湖水が見渡せていた。

 部屋の中央、その空虚の中心に、織田信長はいた。

 机もなければ、座布団もない。

 白木の上に直接胡坐をかき、膝の上に置いた白木の扇の骨を、指先でパチリ、パチリと乾いた音を立てて弄んでいた。

 光秀は、敷居の外で草履を脱ぎ、板敷きに両手を突いて深々と平伏した。

 信長は、視線を湖面から動かさなかった。

 扇の骨を弾く音だけが、静寂を刻んでいる。

「五郎左は、倒れたか」

 信長の声は、低く、平坦であった。

「は」光秀は額を板敷きに擦り付けたままで答えた。「今朝がた、勘定納戸にて昏倒。医師の見立てでは、過労による喀血にて、少なくとも半月、長ければひと月の間は、起き上がることすら叶わぬ容態にございます」

「差配が、甘い」

 信長は、窓の外の波頭を見つめたまま、短く言った。

「五郎左は現場に拘りすぎる」

 信長は立ち上がった。

 革の長靴が、キュッと白木の板敷きを踏み鳴らす。

 信長は光秀の目の前まで歩み寄り、その見下ろす位置で足を止めた。

「日向守」

「は」

「五郎左より、お前の方が広く見える。五郎左の抱えていた帳面、すべてお前が引き取れ」

 光秀は、息を呑んだ。

「坂本へ持ち帰れ。草津、大津、山崎の詰まりを検分し、十日のうちに、道をこじ開けろ。滞りを生んでいる元凶を、突き止めよ」

 信長は、そのまま、部屋の隅に控えていた近習へと視線を移した。

「美濃の道普請、進み具合の控えを持て。それと、来春に向けた検地の帳、近江分と山城分を、今日中に揃えて出せ」

 近習が「ははっ」と平伏し、次の間へと慌ただしく走っていく。

「五郎左には、しかと養生させよ。休ませ、治ったなら、また使う」

 それだけ言うと、信長は再び窓へと歩み寄り、湖面を見下ろした。

 光秀は深く額を擦り付けた。

「……謹んで、お言いつけ、承りましてございます」

 信長は扇をトンと掌に打ち、それきり光秀を一瞥することもなかった。

 光秀は後ずさるようにして座敷を辞し、長い石段を下りていった。

 石段の最下層、薄暗い控えの間には、奏者番の菅屋長頼が、直立したまま静かに佇んでいた。

 光秀が通り過ぎる際、長頼は何も言わず、ただ深く、無言のまま頭を下げた。


 夕刻。

 冬の日没は早く、安土の山裾はすでに薄墨色の夕闇に呑まれ始めていた。

 光秀は坂本への帰路につく前、いま一度、丹羽屋敷の蔵へと足を運ばせた。

 屋敷の土蔵の前には、長秀の家臣たちによって、納戸から運び出された帳面の葛籠が、大八車二台に隙間なく積み上げられていた。

 蔵の鍵を預かる白髪の老僕が、古びた麻紐で葛籠の蓋を括り直しながら、光秀の前に膝をついた。

「日向守様……これで、すべてにございます。旦那様が納戸に持ち込まれた帳面、一冊たりとも残さず、荷車に積ませました」

 光秀は、老僕の肩に手を置いた。

「相分かった。五郎左衛門殿の骨折り、この光秀が引き受ける。安心して養生なされよと伝えよ」

 光秀は深く一礼し、大八車の先頭に立つ庄兵衛に合図を送った。

 ギギギ、と車軸が軋み、二台の大八車が夕闇の城下町へと引き出されていった。


 安土の船着き場には、すでに冷たい湖風が吹き荒れていた。

 船着き場の石畳に、大八車の車輪が重い音を立てて止まった。

 待たせてあったのは、三十石積みの平底の荷船であった。

 庄兵衛と数人の足軽が、葛籠を小舟の船倉へと積み替えていく。

 一つ、また一つ。

 葛籠が動くたびに、乾いた紙が擦れ合うカサリという微かな音が、冷たい水音の間に響いた。

 庄兵衛自身も腕をまくり、一番大きな葛籠を両手で抱え上げた。

 その瞬間、庄兵衛の眉が、ピクリと動いた。

 抱えたまま、船首に立っていた光秀を振り返る。

「日向守様」

「何だ、庄兵衛」

「……軽いのでございます。米や炭の俵と比べれば、紙の束ゆえ、軽いのは当たり前にございますが……荷車二台分と聞き、どれほどの目方かと思うておりました。されど、こうして手に取ると……拍子抜けするほどに、軽く感じられまする」

 光秀は、船倉の底に整然と敷き詰められていく葛籠の列を見つめた。

「そうか」

 それだけ言った。


 船に乗り込む間際、光秀はふと足を止め、振り返った。

 安土の山が、夜の帳の中に黒々とした巨影となって聳え立っていた。

 その頂、天主の最上階の窓の一つに、ぽつりと小さな灯火が灯っていた。

 信長の座所であった。

 光秀は、その光を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 やがて静かに踵を返し、船倉へと足を踏み入れた。

 綱が解かれ、船が岸を離れた。

 ギギ、と櫓の軋む音が、静まり返った湖面に低く響き渡る。

 夕闇は完全に落ち、安土の山の輪郭すら見えなくなった。

 光秀は、船倉の底、葛籠の山に挟まれた狭い板間に腰を下ろした。

 手元にあった一番上の葛籠の蓋に、そっと手を置く。

 開けなかった。

 ただ、波の音だけが聞こえていた。

 庄兵衛が、艪を漕ぐ船頭の脇から、低い声をかけてきた。

「日向守様。……冬の夜風にて波が荒れております。坂本までは、一刻半はかかりましょう」

「うむ」

 光秀は、それだけ答えた。

 それ以上は、口を開かなかった。

 船は、湖水を掻き分けながら、夜の坂本城へと向かって進み続けた。


 一刻半ほどの航行の末、船は坂本の船着き場に滑り込んだ。

 出迎えた坂本城の留守居衆が、松明を掲げて桟橋に駆け寄ってきた。

「大広間の畳を上げよ。板敷きを清め、葛籠をすべて運び込め。一冊たりとも夜露に濡らすな」

 光秀の短い下知に従い、家臣たちが大八車を寄せ、葛籠が次々と陸へと揚げられていく。

 松明の火の粉が夜風に散り、人足たちの白い息が、城の石垣を覆うように立ち上る。

 光秀は先に立って大広間へと向かった。

 広間にはすでに冷たい杉の板敷きが広がり、壁際には、運び込まれた八十の葛籠が、幾重にも積み上げられていった。

 家臣たちが引き揚げ、大広間に静寂が戻った。

 光秀は、部屋の中央に置かれた一本の行灯の前に座り、積み上げられた紙の山を見上げた。

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