第二百二十一話:凍土検分
第二百二十一話:凍土検分
甲府の盆地に吹き降ろす八ヶ岳颪は、夜明けの空気を刃のように研ぎ澄ましていた。
道端の霜柱は踏めば硬く鳴り、躑躅ヶ崎の館を取り囲む堀の水は、縁から薄く凍りついている。
勝頼は、まだ暗いうちに館を出ていた。供回りは小幡昌盛と、わずか二人の近習のみである。纏っているのは、染めの落ちた木綿の野良着に、渋紙を当てた袖無羽織だけであった。袴の裾を膝の上まで高く端折り、履き古した藁草履に、泥除けの荒縄を巻きつけている。
馬は使わなかった。凍てつく泥土の感触を、自らの草履の底で踏みしめながら、釜無川の河原へと向かって歩き続けた。
川原に近づくにつれ、水音が地鳴りのように響いてきた。冬の釜無川は、水嵩こそ落ちているものの、青黒く澄んだ水流が、牙を剥いた巨岩の間を激しく叩いている。飛沫が跳ね上がるたび、岸辺の玉石には細かな氷の針が張り付いていた。
河原の広大な土手には、すでに百人を超す人足たちが集まっていた。寒さに肩をすくめ、白い息を吐きながら、もっこに砂利を積み、丸太の枠を組んでいる。
「陣代様」
普請奉行の昌盛が、泥に足をとられながら駆け寄ってきた。
「このような早朝より、まことに恐れ入り奉ります。本日は、上流側の三番出しの石積み、検分にございますか」
「うむ」
勝頼は、短く応じただけであった。
首をすくめることもなく、大股でぬかるみの中へと踏み込んでいく。草履の紐はたちまち冷たい泥水を吸って重くなり、足の指先は赤黒く染まっていく。だが、勝頼は足元を一瞥すらしなかった。
普請の現場には、大人の背丈ほどもある巨石が、幾重にも組み上げられていた。信玄の代より続く、川の流れを分断して水勢を弱めるための「出し」である。
勝頼は、組み上がったばかりの石積みの前に立つと、膝を折り、冷たい泥の中に両手を差し入れた。
昌盛の顔色が変わった。
「陣代様、何をなされます。そのような泥水に手をお入れになられては、爪が剥がれてしまいまする。石工どもに検めさせますゆえ」
勝頼は、答えなかった。
泥の中に深く指先を這わせ、石と石の噛み合わせ、その下にある栗石の詰まり具合を、手探りで確かめていく。泥水が袖口を濡らし、寒風が濡れた腕を容赦なく冷やしていく。
しばらくして、勝頼は立ち上がった。
石工頭が、恐る恐る口を開いた。
「……ここだけ、妙に沈みますな。昨日から、砂が少しずつ動いておる気がいたします」
勝頼は、その石を指差した。
「この石は外せ」
昌盛は、怪訝そうに眉を寄せた。
「その石にございますか。……しかし、その石は昨日、信濃より呼び寄せた腕利きの石工が、丸一日かけて据え付けた要石にございます。帳面の数も、寸尺も、信玄公の御代の掟通りの寸法で組まれておりますが」
「外せ」
勝頼の声は、平坦であった。だが、それ以上の反論を許さぬ重みがあった。
昌盛は息を呑み、慌てて背後の石工頭を手招きした。
「梃子を持ってまいれ。陣代様の御下知だ、直ちにその石を掘り返せ」
屈強な石工が四人、太い樫の棒を石の隙間に差し込み、掛け声とともに体重をかけた。鈍い軋み音が河原に響き、巨石がゆっくりと泥の中から浮き上がった。
石が完全に転がり出た瞬間、昌盛は息を止めた。
石が据えられていた底の土から、水が、細い筋となって白く砂を巻き上げながら、勢いよく噴き出してきたのである。
土台となるべき土が、川底の伏流水に削られ、空洞になりかけていた。
「……水が、湧いておる」
昌盛の唇が震えた。
「石の重みで押さえ込んでいただけで、下は泥濘になっておりましたのか」
「底の砂利を、もう三尺掘り下ろせ。湧き水の筋に沿って松の丸太を沈め、割石を敷いて水を逃がせ。その上に、平たい割石を三層に敷き直してから、もう一度石を据えろ」
「は……ははっ。直ちに手配いたしまする」
昌盛は、土下座せんばかりに頭を下げた。
石工頭も、青ざめた顔で泥水を見つめていた。
昌盛は、立ち上がった勝頼の背を追いかけながら、喉まで出かかった問いを、どうしても抑えきれずに口にした。
「陣代様。……なぜ、水が潜っているとお分かりになられたのでございますか。帳面の寸法は、寸分違わず合っておりましたのに」
勝頼は、足を止めなかった。
次の石積みの前まで歩くと、再び冷たい石肌に掌を押し当てた。
「数は、合っておる」
「は……?」
「据わりが、合っておらぬ」
それだけであった。
昌盛には、その言葉の意味が分からなかった。だが、勝頼はそれ以上の説明を一切しなかった。ただ、冷たい石の感触を確かめ、次の指示を淡々と下すだけであった。
「そこの隙間の小石を詰め直せ。角が丸い。川原の丸石を使うな、山から切り出した角石を使え」
「はっ」
「土手の傾斜が、わずかに急だ。半歩分、裾を広げろ」
「承知いたしました」
昌盛は、手に挟んだ帳面に筆を走らせながら、静かに息を整えた。
河原を離れた勝頼は、そのまま城下の種籾蔵へと足を向けた。
甲府の町外れ、堅牢な土蔵が十棟ほど立ち並ぶ一角である。蔵の周囲には冷たい風が吹き抜け、土壁の隙間からは、籾殻特有の甘酸っぱく乾いた匂いが漂っていた。
勝頼が蔵の重い引き戸を開けると、薄暗い堂内に、俵が天井近くまで整然と積み上げられていた。
詰所にいた勘定奉行の跡部尾張守の配下、三人の代官が、慌てて立ち上がり平伏した。
「陣代様、自らのお越しとは露知らず、無礼を仕りまして……」
「去年の種籾の残りは、何俵ある」
勝頼は、平伏する代官たちを見下ろすこともなく、一番手前の俵の山へと歩み寄った。
「は。三千二百俵にございます。領内各郡へ配当する分は、十分に足りておりまする」
「凶作を届け出た村は、幾つだ」
「八村と届いております」
代官の一人が、恭しく帳面を差し出した。
勝頼は、差し出された帳面を、しばらく指でなぞった。蔵の在庫と、配当予定の数字を、何度か見比べた。
「もう一度、数え直せ」
「は……?」
「村の名が、八つしか並んでおらぬ。控えを出せ」
代官は慌てて別の控えを取り出した。頁をめくり、算盤を弾く。
やがて、声が小さくなった。
「……四つの村が、届けを控えに留めておりました。郡代が見落としておりました。手前どもの誤りにございます」
勝頼は、それ以上、何も言わなかった。
「四千俵では、足りぬ。もう五百、集めよ」
「は。されど、どこから」
「隣郷から借りる。諏訪の蔵からだ。春に返せばよい」
「ははっ」
勝頼は、俵の一つを手で押し、感触を確かめた。
「質を見よ。量だけではない」
「は」
勝頼は、別の俵にも手を伸ばした。腰の短刀を抜き、俵の編み目をわずかに切る。切り口から零れ出た籾を、掌の上で転がした。
「これは、古い」
「は。去年の残りにございます」
「混ぜるな。別にせよ」
代官たちは、慌てて俵を分け始めた。
勝頼は、何も語らなかった。
ただ、荒れた指先で野良着の裾を払い、蔵の重い引き戸を開けて、外の冷気の中へと出ていった。
用水路の補修現場では、村同士の水争いが、まだ終わっていなかった。
寒風の中、二つの村の百姓たちが、水門を挟んで睨み合っている。
上流の春日居村と、下流の石和村であった。
泥に塗れた鍬や鋤を手に持ち、古びた証文を前に、声を荒らげている。
「上流が、水を止めている」
「下流が、堰を壊した」
勝頼が泥草履のまま近づくと、百姓たちは慌てて口を噤み、場が、少し静まった。
「帳面を出せ」
勝頼は、差し出された紙を、しばらく見つめた。
「ここ最近、土を掘ったな」
上流の名主が、顔を強張らせた。
「……新田を、少し広げただけでございます」
「どれほどだ」
「三反ほど……」
「配分を直せ。増えた分は、下流へ回せ。昼の水は石和へ落とし、増えた分は夜の間にだけ引け」
勝頼は、それだけ言うと、帳面を返した。
「溜池の泥は、今年上げたか」
「へ……いえ、まだ……」
「明日から三日、村の男を出して底を二尺掘れ。春日居も十人手伝え。手伝った分の駄賃は館の蔵から大豆で払う」
百姓たちは、顔を見合わせた。
勝頼は、それ以上、何も言わず、背を向けて歩き出した。
昼を過ぎた頃、勝頼は館へ戻った。
表御殿の板敷きに腰を下ろし、冷えた井戸水で泥だらけの手足を洗っているところへ、旅装の真田昌幸が戻ってきた。
羽織に街道の土埃を白く纏い、その足元には泥除けの脛当てがついている。
「勝頼様。美濃、ならびに近江の境目より戻りましてございます」
昌幸の手には、厳重に封じられた数通の書状の束があった。
「文が届いております」
「積んでおけ」
勝頼は、手足を布で拭いながら、視線すら向けなかった。
「されど」
「積んでおけ」
勝頼は文机の前に座ると、先ほど釜無川で書き留めた、石積みの寸法図を広げた。
昌幸は、文を机の端に置き、黙って控えた。
沈黙に耐えかねたように、昌幸が口を開いた。
「……勝頼様。信長は、戦より帳面を見ております」
勝頼は、寸法図に細い筆を入れた。
「そうか」
それだけであった。
昌幸は、息を呑んだ。
「草津で荷が止まり、播磨への火薬すら届かぬというのに、信長は軍勢を解き、美濃と尾張の境目で、自ら泥の中に立っております。道を広げ、両側に石を並べ、戸数の改めを急がせております。検地の縄を張り直し、人を数え、米を数え、帳面ばかりを見ております」
「そうか」
勝頼の筆は、止まらなかった。
「西国の諸将は、皆、驚愕しております」
昌幸の声が、わずかに熱を帯びた。
「羽柴秀吉は『上様は槍働きより算盤働きを好まれるようになった、わしのような者の出番はいずれなくなる』と嘆息し、坂本の明智光秀は『上様が変わられた、胸の奥が騒ぐ』と怯えております」
「そうか」
三度目の「そうか」であった。
昌幸は、膝を板敷きに擦り進めた。
「……まるで、勝頼様のようでございますな」
勝頼の筆先が、かすかに止まった。
だが、顔は上げない。墨の乾き具合をじっと見つめている。
「戦を後回しにして、道と人を先にする。……気味が悪うございます。何やら、嫌な予感がいたします」
昌幸の声は、どこか落ち着かなかった。
勝頼は、ゆっくりと筆を置いた。
そして、寸法図の紙の上から、顔を上げた。
「釜無川は、春まで持つか」
昌幸は、虚を突かれたように目を見張った。
「……は?」
「三番出しだ」
勝頼は、寸法図の端を指先で叩いた。
「伏流水を抜かねば、春の雪解け水で堤が落ちる。石を積め。雪が降る前に、底をさらえ」
昌幸は、言葉を失った。
「勝頼様……信長の差配に、手を打たれぬので」
「石を積め」
二度目であった。
昌幸は、それ以上、何も言えなくなった。
深く、深く頭を下げ、座敷を退いた。
勝頼の手元には、広げられた堤の寸法図と、冷たい墨の匂いだけが残されていた。机の端に積まれた文の束は、一度も開かれぬまま、そこにあった。
夜、館の奥の間では、北条夫人が、行灯の下で、繕い物をしていた。
針の通る微かな衣擦れの音が、静まり返った部屋に響いている。
勝頼が入ってくると、夫人は顔を上げた。
「お戻りになられましたか」
「うむ」
「夕餉は、お召し上がりになりましたか」
「忘れていた」
夫人は、何も言わず、温かい粥を運ばせた。
湯気が、冷え切った部屋の中に白く立ち上る。勝頼は、黙ってそれを口にした。
最後の一口まで、音を立てずに匙を動かした。
「寒うございますね」
「そうだな」
夫人は、それ以上、何も聞かなかった。勝頼も、何も語らなかった。
ただ、夫人が勝頼の手を見たとき、指先が、泥と霜で、ひどく荒れていることに気づいた。
夫人は、温かい晒し布を持ってこさせると、勝頼の前に座り直した。
荒れた手を包み、泥を拭っていった。
勝頼は、手を引かなかった。
言葉のない静けさだけが、二人の間に流れていた。
夜更け、勝頼は、一人、文机の前に戻っていた。
帳面を開いた。
記したのは、来年の種籾の見積もりと、釜無川の石積みの残り分、それだけであった。
『三番出し、底掘り三尺、松丸太伏せ込みのこと』
『白根郷種籾、諏訪より五百俵借り受けのこと』
『春日居、石和、昼夜分水とし、溜池泥上げのこと』
机の端に積まれた文は、そのまま脇へ寄せられた。
庭では、風が、裸の柿の枝を、乾いた音で揺らしていた。
カサリ、カサリと、硬い枝が擦れ合っている。
遠く、勘定方の詰所から、算盤を弾く音が、間遠に響いていた。
勝頼は、帳面の数字を、もう一度、指先でなぞった。
石の下から水が滲んだこと。
凶作の村が、届いた数より多かったこと。
上流の田が、いつの間にか増えていたこと。
それらを、勝頼は、ただ数字として、帳面に記した。
理由は、どこにも書かなかった。
勝頼は、筆を置き、息を吹きかけ、灯りを消した。
暗闇が、部屋を満たした。
その闇の中に、遠い算盤の音だけが、いつまでも、小さく残っていた。




