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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第二百二十話:統制虚空

第二百二十話:統制虚空


 安土城の小座敷で、長秀は、いつもより厚い帳面の束を、板敷きに並べていた。

「草津の出帳、依然として、未着にございます」

「代官は、二人がかりで当たらせたはずだが」

「は。……それでも、揃いませぬ。二人が突き合わせても、出の欄には、公認の問屋の名を借りただけの、実の伴わぬ記載が並ぶばかりで」

 信長は、扇を、指先で苛立たしげに弾いた。

「上限を定めよ。宿場ごとに、草荷は一日いくらまでと決め、それを超えた者は罰せよ」

「は……ただ、山崎ではすでに、五台までという割り当てを、自ら定めておりまする」

「五台では、緩い。三台とせよ」

「は」

「三台でも駄目なら二台だ。二台でも駄目なら一台にせよ。それでも動かぬなら、縄を掛けてでも従わせよ」

「されど、大津では、焼き印による目印を試みておりますが、これも、うまく参っておりませぬ」

「印を確かめる者を、増やせ。怠れば、その者も罰せよ。一人がしくじれば、二人で当たれ。二人でも足らぬなら、三人にせよ」

 信長の答えは、いつも同じ形をしていた。厳しくせよ。人を増やせ。罰を科せ。それ自体は、誤った処方には見えなかった。だが、長秀の顔には、その処方が、すでに幾度も試され、幾度も空を切ってきたことへの、隠しきれない疲弊が浮かんでいた。

「一つ一つ、潰せばよかろう」

 信長は、それだけ言うと、扇を閉じた。次の間に控える光秀は、その言葉を、黙って聞いていた。信長の下知は、以前より鋭くなっている。それなのに、何かが、噛み合っていないように見えた。


 山崎の会所では、問屋頭が、新しい下知を、馬方たちに言い渡していた。

「今日より、草荷は一日三台までとする」

 五台であったものが、三台に減らされていた。馬方たちは、これまでと同じように、神妙な顔で頷いた。誰も、逆らう素振りは見せなかった。

 翌朝、光秀は、また山崎を訪れた。

 草荷は、確かに三台であった。だが、酒荷も、炭荷も、塩荷も、やはり一台も動いていなかった。

 宿場の外れには、以前よりも多くの馬方が、焚き火を囲んで座り込んでいた。三台という狭き門を待つ列は、かえって長くなっていた。

「上限を下げれば、外に回る馬が増えると、問屋頭殿は考えておられたようだが」

 光秀が、焚き火の傍らの男に問うと、男は火に薪をくべながら、気だるげに答えた。

「上限が下がれば、順を待つ日数が、余計に延びるだけでございます。ならば、なおのこと、他の荷になど手を出せませぬ。待てば待つほど、後に引けなくなるのが道理でございましょう」

「道理、か」

「へえ。誰も、逆らってはおりませぬ。ただ、割り当てが厳しゅうなるたび、こうして待つ者が増えるだけのことで」

 男は、それ以上、多くを語らなかった。光秀は、その傍らに積まれたままの酒荷を見た。縄の結び目に、うっすらと霜がついていた。

「三台では、どれほど待つことになる」

 光秀が問うと、男の一人が、指を折って数えた。

「早くて三日、遅ければ五日でございましょう。それでも、皆、待ちまする」

 男は、それだけ言うと、また焚き火に目を戻した。


 同じ頃、山崎の紙問屋が、店を畳んでいた。

 主は、半年にわたる荷の途絶えに耐えかね、ついに商いを続けられなくなったのだという。だが、その空いた店には、数日を経ずして、別の商人が入った。近江の別の宿場で、同じく紙を商っていた男であった。

「前の主とは、知り合いか」

 光秀が尋ねると、新しい主は、首を振った。

「いえ、まったく。店が空いたと聞き、値も手頃であったので、越してまいっただけでございます。手前は、やり方を変えてみようと存じております」

 新しい主は、意気込んで店を開けた。だが、ひと月も経たぬうちに、その店先の棚も、以前とまったく同じように、空になっていった。紙は、やはり届かない。届いた馬は、草の方へと吸われていく。

「もしや、前の主から、何がしかの申し送りでも」

 庄兵衛が、そう尋ねたことがあった。新しい主は、心外そうに首を振った。

「申し送りなど、何もございませぬ。店を畳んだ男の名すら、手前は存じませぬ」

 その言葉に、嘘はないようであった。


 大津の宿場では、焼き印による規制が、なおも形だけを保っていた。

 役人は、依然として、印のない草荷を止めようとしていた。だが、夜のうちに、印のある馬とない馬が、こっそりと入れ替わる噂は、以前にも増して広まっていた。

「あの馬、また毛色が違うようだが」

 役人の一人が、そう漏らしても、確かめる術はなかった。馬方の顔ぶれは、日ごとに入れ替わり、誰もが「知らぬ」の一点張りであった。

 光秀が、その役人に、直に尋ねたことがあった。

「焼き印の数を、数えてはおらぬのか」

「数えてはおりますが……昨日は四十二、今日は四十一。似たような数が、毎日出入りいたします。それが、本当に同じ馬なのか、違う馬なのか、確かめようにも、こう毎日顔ぶれが変わっては、手前どもには、もはや見分けがつきませぬ」

 役人は、力なく笑った。

「上からは、厳しく取り締まれと言われております。ですが、取り締まる相手の輪郭すら、掴めぬのでございます」

 役人は、しまいには、焼き印そのものを確かめる手間を惜しむようになっていた。


 荷車職人の仕事場では、この日も、槌の音が絶えなかった。

 弟子入りを志願する若者が、また一人、加わっていた。以前は炭焼きの家に生まれ、父の跡を継ぐはずであったという若者であった。

「炭焼きは、継がぬのか」

 光秀が尋ねると、若者は、少し恥じ入るように答えた。

「親父殿が、行けと申しました」

「炭焼きでは食えぬと」

「はい」

 若者は、そう言って、少し目を伏せた。恨みでも、諦めでもない、ただ淡々とした顔であった。

 棟梁が、その若者の肩を叩きながら、光秀に言った。

「旦那、うちはもう、弟子を断るのに苦労しております。紙漉きの家からも、桶屋の家からも、次々と話が来ましてな」

「本業を、皆、捨てるというのか」

「捨てるとまでは申しませぬが……次男坊、三男坊あたりから、こちらへ流れてまいります」

 棟梁は、それを咎める風でもなく、むしろ誇らしげに、新しい木材を担いでいった。


 山崎の蔵では、荷の傷みが、さらに進んでいた。

 酒は黴び、炭は鼠に食われ、紙は反り返ったままである。蔵人は、もはや帳面をつけることすらやめ、傷んだ荷を、安値で近所へ配って回るのが、日課になっていた。近所の者たちも、それを当てにするようになり、朝になると、蔵の前に、小さな行列ができるほどであった。

「今日は、何が傷んでおる」

 顔なじみの女房が、そう尋ねながら、笊を差し出す。蔵人は、その日の傷み具合を見繕い、適当な量を笊に入れてやった。傷んだ荷を待つ行列と、正規の荷を待つ空の荷車が、同じ蔵の前に、並んで存在していた。


 京の所司代の倉庫では、弓の弦も、槍の柄になる材木も、依然として届かなかった。

 倉庫の番人は、空の棚を前に、また「未着」とだけ書き込んだ。その文字は、もはや、驚きも焦りも含んでいなかった。番人頭は、代わりの品を諸国へ求める文を、幾通も書き送っていたが、いずれも色よい返事は来なかった。

「近江から入るはずのものが、近江で止まっておるのでございますから、他国へ求めても、同じことでございましょう」

 部下の一人が、そう漏らした。番人頭は、それに、何も言い返せなかった。


 河原に沿った空き地の値は、さらに上がっていた。

「今では、千文でも、売ってもらえぬそうで」

 商人の立ち話に、光秀は耳を傾けた。土地の名義は、仲買を幾人も挟み、今の持ち主が誰であるかを、確かめようとする者すら、もういなかった。見張り小屋の数だけが、静かに増え続けていた。

 村の古老が一人、その様子を、少し離れた畦道から眺めていた。

「わしの若い時分には、あの河原など、誰も見向きもせなんだ。葦が茂るばかりの、獣道でしかなかったわい」

 光秀が、その古老に声をかけると、老人は、皺だらけの顔を、さらに深く歪めた。

「それが今では、千文でも足りぬと申す。おかしな話じゃ。土地そのものが変わったわけでもないに」

「では、何が変わったと思われる」

 老人は、しばらく黙って、河原を見つめていた。

「さあて、な。ただ、皆が欲しがるようになった。それだけのことじゃろう」

 老人は、それだけ言うと、杖をつきながら、村の方へ戻っていった。


 その日の夕刻、光秀は、草津、大津、山崎、坂本の四つの宿場を、あらためて思い返していた。

 問屋頭は、それぞれ違う。役人も、それぞれ違う。土地の気風も、宿場ごとに異なるはずであった。だが、起きていることは、どこも同じであった。草が集まり、他の荷が滞り、割り当ては守られ、それでいて流れは変わらない。

 誰かが、四つの宿場に、同じ下知を出しているわけではなかった。長秀も、信長も、そのような命令は出していない。それぞれの宿場が、それぞれに、独自の対処を試みていた。それなのに、結果だけが、判で押したように、同じ形に収まっていく。

「なぜ、皆、同じ判断に行き着くのか」

 光秀は、誰にともなく呟いた。答えられる者は、そこにいなかった。

 庄兵衛が、恐る恐る、口を開いた。

「もしや、それぞれの宿場に、間者のごとき者が入り込み、同じように振る舞うよう、仕向けておるのでは」

「間者が、四つの宿場すべてに、同じ台詞を吹き込んで回るとでも申すか」

「……そこまでは、考えておりませぬが」

「間者であれば、まだ良い。探して、斬ればよいのだからな」

 光秀は、そう言って、自嘲めいた息を漏らした。だが、その目は、笑ってはいなかった。

「もし、それらしき者が見つかれば、話は早い。斬って、終わりだ。だが……」

 光秀は、言葉を切った。庄兵衛が、続きを促すように、目を向けた。

「だが、見つからなかった時、どうする。誰もおらぬのに、同じことが起き続けたとしたら、それを、どう扱えばよい」

 庄兵衛は、答えられなかった。光秀自身も、答えを持っていなかった。ただ、問いだけが、二人の間に、重く残った。


 坂本城に戻った光秀は、夜半、机の前で、筆を執った。

 白紙の紙を前に、今日見たものを、もう一度、思い返す。上限を下げても、待つ者が増えるだけであった山崎。焼き印を確かめる手間すら惜しむようになった大津の役人。父が子に、炭を捨てよと勧めた仕事場。誰の意図もないまま、同じ結末に至る、四つの宿場。千文を出しても手に入らぬという、河原の空き地。

「変化なし」

 報告書には、それだけを記した。命じても動かぬ。逆らっているわけでもない。それでも、草しか動かぬ。ならば、何をどうすれば、この流れは止まるのか。光秀には、分からなかった。

 外では、冬の雨が、坂本の屋根を叩いていた。遠く、琵琶湖の波が、岸を打つ音が聞こえる。灯芯が、小さく爆ぜた。


 その夜、光秀は、もう一度、草津の河原へと足を運んだ。

 松明が、いつものように灯っていた。雪の気配を孕んだ風が、河原の枯れ草を、かすかに鳴らしていた。運ぶ者、数える者、札を打つ者、積み替える者。誰もが、自分の役目を、黙々とこなしている。

 光秀は、数日前にも見た顔を、探してみた。だが、見当たらなかった。あの若い馬方も、あの年嵩の男も、あの草鞋を拾い集めていた男も、今夜の河原には、一人もいなかった。

 庄兵衛が、その様子を見つめながら、低く言った。

「日向守様。……昨日とは、別の連中でございますな」

「うむ」

 光秀は、それだけ答えた。

「それでいて、昨日と同じように、動いております」

 光秀は、答えられなかった。

 松明の灯りの下、草の山は、今夜もまた、静かに高さを増していった。雪が、ちらほらと、その頂に降り始めていた。誰にも気づかれぬまま、静かに積もっていくその白さだけが、この夜の、確かな証であった。

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