第二百十九話:銀草回流
第二百十九話:銀草回流
安土城の小座敷で、長秀は、帳面を三冊、板敷きに並べていた。
「草津の出帳、依然として、揃いませぬ」
信長は、扇を弄びながら、短く答えた。
「まだ揃わぬか」
「入れ替えた問屋も、前の者と同じにございます。書けぬと申すばかりで」
「締めさせよ。今度は、代官を二人がかりで当たらせよ。一人がしくじれば、もう一人に目付をさせよ」
「は」
信長の声には、苛立ちの色が、わずかに滲んでいた。だが、それは怠慢を責める苛立ちであって、他の何かを疑う響きではなかった。信長にとって、これは依然として、人の差配の巧拙の話であった。
「近頃、似たような訴えが、他からも参ります」
長秀が、控えめに付け加えた。
「紙が来ぬ、炭が来ぬ、塩が来ぬ。いずれも、さしたる大事とは申せませぬが、数だけは、日ごとに増えております」
「まとめて奏上する類の話か」
「いえ……一つ一つは、宿場の些事にございます。ただ、それが、あちこちで、同時に起きております」
「一つ一つ、潰せばよかろう」
信長は、それだけ言うと、扇を閉じた。話は、それで終いであった。次の間に控える光秀は、その短いやり取りを、いつものように黙って聞いていた。長秀の背には、以前よりも、幾分か重い疲れが乗っているように見えた。
その夜、草津の河原では、松明の灯りの下、札打ちの音が絶えなかった。
草を降ろした男が腰を伸ばす間に、横から別の男が束を数え始める。数えた男が札を打つ。札を打つ者は、運んできた者の顔を見ようともしない。積み替える者もまた別におり、言葉はほとんど交わされなかった。誰か一人が抜けても、他の誰かがすぐにその場を埋めた。
光秀は、少し離れた土手の上から、その様子を眺めていた。
人の出入りは、これまでよりも滑らかになっている。無駄な動きがない。だが、その全体を差配している者の姿は、どこにも見当たらなかった。
供の庄兵衛が、低く囁いた。
「これほど手際がよろしいと、かえって薄気味悪うございますな」
「うむ」
光秀は、それだけ答えた。人の顔ぶれは日によって変わる。だが、動きは日を追うごとに、よりなめらかになっていくようであった。誰かが命じているわけでもないのに、仕事だけが、静かに回り続けている。
その日の朝、光秀は、草津の宿場外れで、荷車職人の仕事場に立ち寄った。
普段なら閑散としているはずの仕事場に、この日は注文の木材が山と積まれていた。職人が三人がかりで、新しい荷車を組み上げている。
「近頃は、荷車も足りぬのか」
光秀が問うと、棟梁らしき男が、額の汗を拭いながら答えた。
「へえ。古い車輪が、草の重みですぐに傷みますもので。修理より、新しく組む方が早いくらいでございます」
「注文は、誰から」
「それが、いつも違う顔でございましてな。ただ、銭払いは早く、値切る者もございませぬ。職人としては、ありがたい話ではございますが」
男は、そう言って、また槌を振るい始めた。木を打つ音が、軽快に響いていた。かつて閑古鳥の鳴いていたはずのこの仕事場だけが、活気に満ちていることに、光秀はかすかな違和を覚えた。
仕事場の隅には、弟子入りを志願する若者が新たに二人、加わっていた。他の仕事にあぶれた者たちだという。木を削る手つきはまだぎこちなかったが、その顔には、久しぶりに仕事にありついた者の安堵の色が浮かんでいた。
人足市場では、草の列と炭の列の差が、いっそう際立っていた。
草の列には朝から男たちが群がり、押し合いへし合いになっている。炭の列には、この日、一人も並ばなかった。炭を商う男が、空の高札を前に、ただ立ち尽くしていた。
「今日も、誰も来ぬか」
光秀が声をかけると、男は力なく頷いた。
「先月までは、日雇いも競って来ましたが……今は、炭と聞いただけで、皆、素通りしていきます。声をかけても、鼻で笑われるだけでございます」
男の隣には、かつて炭を担いでいたはずの顔なじみが、今日も草の列に並んでいた。二人は目が合っても、どちらも何も言わなかった。気まずさすら、もう感じていないようであった。
「炭を捨てて、草へ移った者を、恨んではおらぬのか」
光秀が問うと、炭商人は首を振った。
「恨むも何も……あの男に、銭で草を凌げと言うわけにもいきますまい。誰しも、己の飯が先でございます」
男は、そう言いながら、自分の足元に置かれた炭俵を力なく蹴った。
「手前も、いっそ草に鞍替えしようかと、幾度も考えました。されど、長年扱ってきた炭を、今さら投げ出すのも、忍びのうございましてな」
「それで、思い留まっておるのか」
「思い留まっておるのではございませぬ。ただ、決めきれずにおるだけで」
男は、それだけ言うと、また高札の前に座り込んだ。光秀は、それ以上、何も言わなかった。
草津の茶屋では、銀払いが、すでに当たり前の景色になっていた。
馬方たちが茶碗を傾けながら、懐の銀を無造作に取り出しては、勘定を済ませていく。亭主は銭を数える手間を惜しみ、銀の重さだけを掌で量って受け取っていた。
「近頃は、銭を見ることの方が、珍しゅうございますな」
亭主が、光秀に世間話でもするように言った。宿代も、この半月でさらに上がっていた。以前なら一泊十文で済んだ部屋が、今では三十文を下らない。それでも、部屋は毎晩埋まっている。
「値を上げても、客が減らぬのか」
「減りませぬ。むしろ、値の高い部屋から先に埋まるようになりました。安い部屋を選ぶ客は、かえって胡散臭がられる始末で」
土間の隅では、馬方が数人、車座になって博打を打っていた。賭け金はすべて銀であった。負けた男が舌打ちをしながら、それでも笑っていた。明日また稼げばよいという顔であった。
大津の両替商では、番頭が、今日も銀の箱を持ち上げていた。
軽い。以前よりも、さらに軽くなっている。銭箱は、逆に両手でようやく持ち上がるほどの重さになっていた。
「両替の手数を、また上げましてございます」
番頭が、光秀にそう告げた。客はそれでも文句を言わない。銀を求める列は、今日も店先まで伸びていた。番頭の顔には、以前のような戸惑いはもう見えなくなっていた。ただ、慣れた手つきで銭を数え、銀を差し出すだけであった。
「以前は、こうまで平然としてはおらなんだが」
光秀が指摘すると、番頭は少し苦笑した。
「慣れてしまえば、これも商いにございます。おかしいと思うておったのも、初めのひと月ほどのこと。今では、銀が薄くなる朝が、当たり前のように感じられます」
番頭は、そう言いながら、空になった銀の箱の蓋を静かに閉じた。木の蓋が乾いた音を立てた。
「若い手代などは、もう、銀箱が満ちていた頃の店の様子を、知らぬくらいでございます」
その言葉に、光秀はかすかな寒気を覚えた。異常が、いつの間にか日常に置き換わっていた。
山崎の蔵では、荷の傷みがさらに進んでいた。
酒の樽からは黴の匂いが強く立ち込め、炭の俵は鼠に食い破られた穴が幾つも空いていた。蔵人の一人が、傷んだ酒を近所の者に安値で配って回っている。もう、それを咎める者もいなかった。紙の束は湿気で反り返り、文字が滲んで読めなくなっているものもあった。
「これでは、売り物になりませぬ」
蔵人がそう呟いても、返事をする者はいなかった。奥に積まれた材木にも、白い黴の斑点が浮き始めている。かつては、こうした傷みが出れば問屋頭が飛んできて事の次第を質したものであった。今は、誰もそれを咎めに来ない。
蔵の主自身、もはや帳面をつけることをやめていた。傷んだ分を数えたところで、どうにもならぬ。そう諦めた顔で、主は蔵の戸口に腰を下ろし、ただ煙管をふかしていた。表の街道には、この日も草を積んだ荷車だけが、絶えることなく列を成していた。
山崎の会所では、問屋頭が思い切った下知を出していた。
「今日より、草荷は一日五台までとする。それ以上は、宿場で留め置け」
このままでは、他の荷がすべて後回しにされる。そう考えての割り当てであった。馬方たちを集め、問屋頭は自ら念を押した。
「五台を超えた草は、翌日に回せ。空いた馬は、酒荷、炭荷、塩荷に回すのだ。よいな」
馬方たちは神妙な顔で頷いた。光秀は、その様子を会所の隅から見ていた。
翌朝、光秀はもう一度、山崎の宿場を訪れた。
草荷は確かに五台であった。問屋頭の下知は守られていた。だが、酒荷も炭荷も塩荷も、一台も動いていなかった。
問屋頭は帳面を前に、呆然と座り込んでいた。
「馬方どもが、来ぬのでございます」
「五台の外の馬は、他の荷に回るはずであったろう」
「そのはずでございました。ですが、草荷の順が回ってくるまで、馬方たちは宿場の外で待ち続けております。他の荷を運べば、その間に他の誰かが自分の分の草荷を横取りしてしまうと申しまして」
光秀は宿場の外れへ足を向けた。
なるほど、そこには馬を繋いだまま動こうとしない馬方たちが、幾人も屯していた。焚き火を囲み、順番の来るのをじっと待っている。傍らには酒荷も炭荷も塩荷も、手つかずのまま置かれていた。
「なぜ、他の荷を運ばぬ」
光秀が、その一人に尋ねた。
「運んでも構いませぬが……その間に草の順が来てしまえば、丸一日また待たねばなりませぬ。それなら、ここで待っておった方が、まだましでございます」
「割り当てを守れば、他の荷にも駄賃が出るはずだが」
「駄賃は、駄賃にございます。銀とは、比べものになりませぬ」
男は、それだけ言うと、また焚き火に目を戻した。
傍らでは別の馬方が、焚き火に薪をくべながら欠伸を噛み殺していた。
「昨日も一昨日も、同じでございましたよ。皆、ここで火を囲んで順番を待つ。それだけの一日でございます」
「それで、飯は足りるのか」
「銀が入れば、飯くらいどうにでもなります。焦る理由が、どこにございましょう」
男は、そう言って笑った。悪びれた様子は微塵もなかった。光秀は、それ以上何も言えなかった。
問屋頭の割り当ては確かに守られていた。誰も下知に逆らってはいなかった。それでいて、動いた荷は草だけであった。
大津の宿場でも、似たような割り当てが試みられていた。
こちらは宿場役人の発案であった。草荷を運ぶ馬に、あらかじめ目印の焼き印を押し、一日に通れる数を制限しようという試みである。
「焼き印のない草荷は、通さぬ」
役人がそう触れを出した。数日はうまくいくかに見えた。だが、じきに奇妙な噂が流れ始めた。焼き印を押された馬が、夜のうちにこっそりと貸し借りされているというのである。
「あの馬、昼間見た馬とは、毛色が違うようだが」
役人の一人が首を傾げた。だが、確かめようにも馬方たちの顔ぶれは日々入れ替わり、誰が誰の馬を借りているのかを突き止めることはできなかった。焼き印だけが律儀に、次から次へと違う馬の尻に押されて通り過ぎていった。役人はそれを見咎めながらも、咎める相手を絞り込めずにいた。
草津の宿場では、荷車職人の仕事場だけでなく、縄を扱う店も活気づいていた。
草束を結ぶ縄が足りなくなっている。店先には麻を扱う職人が二人、三人と増やされ、それでも需要に追いつかない様子であった。
「こんなに縄が売れる年は、これまでになかった」
店の主が、嬉しそうにしかしどこか戸惑ったような顔で、そう漏らしていた。傍らには擦り切れて捨てられた古い縄が山のように積み上げられている。それをまた別の男たちが拾い集め、継ぎ直しては安く売りさばいていた。
坂本の小さな寺では、住職がまた一つ、灯明を消すよう命じていた。
「もう一本、消せ」
小僧が無言で油皿に蓋をする。本堂はこれまでよりもさらに深い闇に沈んだ。写経の紙も尽き、勤行の声も日ごとに短くなっている。誰も、それを大げさな出来事だとは思っていなかった。ただ、小さな暗さが一つ、また一つと積み重なっているだけであった。
檀家の一人が、見舞いのつもりか灯油を少し分けて持ってきたことがあった。住職はそれを丁寧に受け取りながらも、こう言った。
「有難いが、次からは、無理をせずともよい。うちだけが明るくとも、村がこれでは、詮無いことじゃ」
檀家はそれ以上何も言えず、頭を下げて帰っていった。本堂の隅では、蝋の焦げるかすかな匂いがいつまでも漂っていた。
河原に沿った空き地の値が、この頃静かに上がり続けていることに、光秀はある商人の立ち話から気づいた。
「去年までは二百文もあれば買えたものが、今は五百文でも売ってもらえぬ。今月に入ってからは八百文まで跳ね上がったと聞きます」
草の荷を積んでおくための場所が足りなくなっているのだという。誰も、その値上がりを不思議には思っていなかった。荷置場が要る。荷置場が高く売れる。それだけの理屈であった。以前は誰も見向きもしなかった葦の茂る河原の一角に、今では小さな見張り小屋まで建てられていた。
光秀は、その空き地の持ち主を庄兵衛に調べさせた。だが、戻ってきた答えははぐらかされたようなものであった。
「先月までは村の名主が持っておりましたが、今はまた別の誰かに渡っているとのことで。仲買を何人も挟んで、今の持ち主が誰か、はっきりせぬ様子でございました」
「証文は」
「あるにはございますが、次から次へと名義が変わっておりまして、追いきれぬとのことで」
光秀は、それ以上深く尋ねなかった。土地の持ち主すら、あやふやになっていく。そうした話は、この数日で幾つも聞くようになっていた。
その夜、坂本城の書斎で、光秀はまた白紙の紙を前にしていた。
今日目にしたものを、一つ一つ思い返す。河原の仕事。誰も並ばぬ炭の列。繁盛する荷車職人。銀払いに慣れきった茶屋の亭主。異常を異常と感じなくなった両替商の番頭。傷んだ酒を配る蔵人。守られているのに動かぬ山崎の割り当て。貸し借りされる焼き印の馬。持ち主すら分からなくなった空き地。
どれも、小さな出来事であった。だが、その数は日を追うごとに増え続けていた。そして、その一つ一つが、もはや誰の目にも異変とは映らなくなりつつあった。
光秀は、山崎で見た光景を、もう一度思い浮かべた。
問屋頭は正しく割り当てを定めた。馬方は誰一人、その下知に逆らわなかった。それでいて、動いたのは草だけであった。
問屋頭を替えても変わらぬ。馬方を叱っても変わらぬ。命じても動かぬ。逆らっているわけでもない。それでも草しか動かぬ。
では、何をどうすれば止まるのか。
光秀には、分からなかった。
光秀は筆を執った。だが、何を書けばよいのか分からなかった。
書けば、何かを断定することになる。だが、光秀の手元にあるのは、断定できるだけの確かなものではなかった。ただ、無数の、小さな、説明のつかない傾きだけであった。
「変化なし」
結局、それだけを記して、筆を置いた。
嘘ではなかった。何かが劇的に変わったわけではない。ただ、同じ方向へ、少しずつ、確実に、すべてが傾いているだけであった。その傾きに、名前をつけることが、光秀にはできなかった。
外では、冬の冷たい雨が坂本の屋根を叩いていた。遠く、琵琶湖の波が岸を打つ音が聞こえる。光秀は、その音を聞きながら、行灯の灯りの下でしばらく動かずにいた。灯芯が小さく爆ぜた。
草津の河原では、今夜もまた、札打ちの音が絶えることなく続いていた。運ぶ者も、数える者も、札を打つ者も、積み替える者も、誰もが自分の役目だけを、黙々とこなしていた。




