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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第二百十八話:荷駄偏流

第二百十八話:荷駄偏流


 安土城の小座敷で、長秀は、いつになく落ち着いた声で報告していた。

「草津の問屋は、すでに入れ替えましてございます。新たな者に、出帳を厳しく書かせております。じきに、揃いましょう」

 信長は、扇を膝に置いたまま、短く頷いた。

「良い。怠慢な者を据えておくより、よほどましだ」

「は」

「それだけか」

「……それだけにございます」

 信長は、扇を軽く開き、また閉じた。それ以上、何かを問い質す様子はなかった。障子の外では、初冬の陽が、庭の霜をゆっくりと溶かしていた。次の間に控えていた光秀は、そのやり取りを、黙って聞いていた。口を挟むだけの確かなものを、まだ何一つ持っていなかった。長秀が下がったあとも、光秀は、しばらくその場に座ったままであった。


 京の紙問屋では、棚が空になっていた。

 本来なら紙束が幾重にも積まれているはずの板が、むき出しに見えている。埃だけが、薄く積もり始めていた。寺から使いの僧が来て、まだ届きませぬかと尋ねる。主人はただ首を振る。僧は空の手で帰っていく。同じ僧が三日後にまた来て、同じように空の手で帰っていく。三度目には、僧は何も言わず、ただ棚を一瞥して去っていった。布屋では、職人が古い反物をほどき、糸を抜いていた。新品の反物は来ない。客の持ち込み品を解体して、糸を紡ぐしかない。以前は捨てられていた端切れにまで、今では値がつくようになっていた。夕暮れになると、油屋の通りで一軒、また一軒と灯りが消えていく。油屋の隣では、蝋燭を商う店だけが、珍しく賑わっていた。灯油が買えぬなら、蝋燭で凌ぐしかない。値は、以前の倍近くまで上がっていたが、それでも客の列は絶えなかった。


 大津の両替商では、番頭が銀の箱を持ち上げた。

 軽い。底の木目が透けて見える。次に銭の箱を持つ。持ち上がらない。夜になると、銀を懐にした飛脚が次々と店先を訪れ、草津の方角へ去っていく。番頭は、その足取りを目で追うだけであった。行き先を最後まで見届けた者は、店の誰一人としていなかった。番頭自身、この頃では、両替の手数を、こっそりと吊り上げるようになっていた。銀を求める者が引きも切らぬのだから、多少の色をつけても、客は文句一つ言わない。番頭は、その様子に、後ろめたさよりも、奇妙な物足りなさを覚え始めていた。


 東海道のある宿駅では、伝馬役人が公用の荷を最優先にするよう命じた。

 赤い紐をつけた荷だけが、次々と馬に積まれて出ていく。民間の荷は、赤い紐のないまま、土間の隅で埃をかぶっていった。柿が腐り始め、魚が臭いを立て、味噌の樽から汁が滲んでいる。荷主たちは、いつまで待たされるとも知れぬまま、荷車の傍らで立ち尽くしていた。中には、役人に銭を握らせ、赤い紐を分けてもらおうとする者も現れ始めていた。役人は、それを咎めもせず、黙って懐に収めていた。誰もそれを、大きな変事だとは思っていなかった。ただ、一つの宿場の、小さな取り決めに過ぎないはずであった。


 数日後、光秀は三度目の草津行きを命じた。

 問屋頭は替わっていたが、土間に積まれた草の量も、行き交う人足の慌ただしさも、以前と何も変わっていなかった。

「入りは、相変わらず増え続けております」

「出は」

「……書けませぬ。名を尋ねても、名乗る者がおりませぬゆえ」

 前の問屋頭と、まったく同じ答えであった。差配を替えたところで、帳面が変わるわけではない。光秀は、それを確かめただけであった。

「銀は、どこから来ている」

「堺からとも、京からとも聞きますが、はっきりとは。ただ、日を追うごとに、持ち込まれる銀の量が増えております」

 光秀は、それ以上を問わず、河原の小屋へと足を延ばした。積まれた草の山に打たれた木札を、一枚手に取ってみる。焼き印はない。ただ、縄の結び方に、見覚えがあった。前に見た札と、似た結び方である。光秀は、札を戻して、草の山を見上げた。

 小屋の脇では、若い馬方が一人、草鞋を新しいものに履き替えていた。

「その草鞋、新しいな」

「へえ。草を運ぶ駄賃で買いました。以前は、草鞋も擦り切れるまで履いておりましたが、近頃は、銀が入るたび、新しいのを下ろすようにしております」

 男は、そう言って、脱いだ古い草鞋を、無造作に草の山の脇へ放り投げた。光秀は、その捨てられた草鞋を、しばらく見ていた。すぐそばでは、別の男が、その捨てられた草鞋を拾い集めていた。傷んだものを繕い直し、安く売りさばくのだという。銀が回るところでは、捨てるものにさえ、次の商いが生まれていた。


 人足募集の場では、さらに露骨であった。

 朝、草の荷の前に列ができる。銀一匁。人足が群がる。押し合いへし合いになるほどの人だかりであった。炭の荷の前では、銭百文を掲げても、誰も来ない。光秀は、その二つの列を、並べて見比べた。草の列は伸びる。炭の列は短いままだった。

 その列の中に、光秀は見覚えのある顔を見つけた。数日前、山崎の会所で炭俵を担いでいた男である。今日は、草の俵を担いでいた。

 光秀は、その男へ歩み寄り、声をかけた。

「そなた、先日は炭を運んでいたな」

 男は、少し気まずそうに笑った。

「炭は、銭にしかなりませぬ。草は、銀になります。同じ担ぐなら、銀の方がよろしゅうございます」

 男は、それだけ言うと、また草の列に並び直した。炭の荷主は、空の荷車を引きながら、宿場を出ていった。光秀は、その背を、しばらく目で追っていた。昨日まで炭を担いでいた肩が、今日は迷いもなく草の俵を担いでいる。その変わり身の早さに、光秀は、かすかな寒気を覚えた。


 草津の町は、他のどこよりも活気づいていた。

 茶屋は満員で、馬方たちが銀で酒を飲み、飯を食っていた。宿の帳場では、去年の帳面の余白に新しい客の名を書き込んでいる。新しい帳面はまだ届かない。番頭が「紙屋は」と尋ねると、主は「分からぬ」とだけ答えた。帳場の隅では、草荷の馬方たちが飯を食っている。銀で払う者。銭で払う者。宿の主は銀だけ別の箱へ入れた。銭は積み上がる。銀はその日のうちに消える。理由を聞く者はいない。皆、そうしているからであった。茶屋の表では、若い馬方が一人、簪を買っていた。売り子が「先月より高うございます」と言うと、男は「高くても構わん」と答え、銀を払った。以前なら銭を惜しんでいた男が、銀で簪を買っている。宿の主は、その様子を見て、値を上げることにまだ慣れていない顔をした。


 草津の薬種屋では、咳き込む老人が店を出ていくところだった。

 薬種屋の主は、空の壺を指で叩きながら、老人の背を見送っていた。甘草も、当帰も、ほとんど残っていない。以前なら近江から届いていた薬草が、近頃は入ってこない。代わりに道を埋めているのは、草の荷ばかりである。薬種屋の主は、草の荷を断った。薬草ではない。ただの馬の餌である。それでも、草を運ぶ馬方が店の前を行き交うたび、店の主人は窓を閉めた。銀の匂いが、薬の匂いを押し流していく気がしたからである。


 草津から坂本へ戻る途中、光秀は、街道の荷車を黙って見つめていた。

 以前なら炭を積んでいた荷車が、今日は草を積んでいる。以前なら米を運んでいた馬が、今日は草を運んでいる。馬方たちは、草の荷を優先して引き受け、宿代を先に払っていた。人足も、草の荷だけに集まっていた。光秀は、その景色を、ただ見ていた。


 宇治川の船着き場では、舟がほとんど草ばかりを積んでいた。

 酒樽も、木材も、塩も、ほとんど見当たらない。舟十艘。全部草。船頭は、草の俵を積み込みながら、ぼそりと言った。

「最近は、草しか積んどらん。米や酒を積んだ方が、実入りは良いはずなんだがな」

「なぜ、それでも草を積む」

「草は、その日のうちに銀になる。米は、売れるまで幾日もかかる。急いで銀にしたい者ばかりが、この頃は多いのでござる」

 船頭は、そう言って、傍らに繋いであった別の舟を指した。以前は米を専門に運んでいたという舟である。今は、その舟にも、草の俵が山と積まれていた。

「あの舟の船頭も、先月までは米一筋でな。今じゃ、草の方が稼げると言うて、鞍替えしよった」

 光秀は、その舟の列を、ただ見つめていた。草の俵が、舟の上に山のように積まれ、川面に影を落としていた。


 山崎から京へ向かう道でも、荷の停滞は深刻になっていた。

 酒の樽が、蔵の前に積まれたまま、日を追うごとに数を増やしていた。縄が湿気を吸って黒ずみ、底には薄い黴が生え始めていた。炭の俵には、鼠の齧った跡がついていた。蔵人の一人が、樽を叩いて音を聞き、首を振った。もう売れぬ、という顔であった。表の街道には、この日も、草を積んだ荷車ばかりが列を成していた。光秀は、その蔵の前に立ち、動かぬ荷の列を見つめていた。蔵の脇では、蔵人の一人が、傷み始めた酒を、こっそりと安値で近所に配り始めていた。腐らせるよりは、いくらかでも銭に換えた方がましだと、蔵人は呟いていた。


 瀬田の橋では、橋番が朝から晩まで草の荷を数えていた。

 馬の蹄が板を踏み鳴らす音が、途切れなかった。橋板は以前より傷みが早く、橋番は夜になると縄で緩みを縛っていた。修理の材木はまだ届いていない。翌朝もまた、草を積んだ馬が列を成して橋を渡っていった。


 坂本の荷車職人は、昼も夜も槌を振るっていた。

 軸が折れ、車輪が壊れる。次から次へと持ち込まれる。鉄輪は足りず、炭も少ない。職人は古い車輪から鉄を剥がして使い回した。客は文句を言わない。使えればよい、それだけであった。


 安土では、長秀のもとへ小さな報告が積み上がっていた。

 紙不足。炭不足。塩不足。馬不足。人足不足。どれも一つだけなら取るに足らぬ話であった。だが数が多すぎた。長秀は帳面を閉じた。そこに書かれているのは、反乱でも戦でもない。ただの商いであった。


 近江の浜では、塩を待っていた女たちが、魚を海へ戻し始めていた。

 塩が来ない。干せない。腐らせるよりは、海へ返すしかない。女たちは黙って魚を放した。浜には、草を積んだ舟だけが並んでいた。


 坂本の寺では、夜の灯明が一本減っていた。

 油が足りない。住職は「一つ消せ」とだけ言い、小僧は黙って従った。本堂の闇が、少しだけ深くなった。


 京の所司代配下の役人が、槍の柄の補充を待っていた。

 届かない。弓弦も来ない。戦はない。敵襲もない。ただ、物だけが消えていく。役人は、空の倉庫を見つめ、何も言わなかった。


 草津の茶屋の裏では、馬方が銀で博打を打っていた。

 負けても笑っている。去年まで銭十文を惜しんでいた男たちが、今は銀を賭けて笑っている。宿主だけが、妙な顔をしていた。


 坂本の宿場では、厩が草荷の馬で埋まっていた。

 一頭が蹴ると、隣も蹴る。馬方は眠れなかった。草の荷ばかりが、厩の前に積まれていた。


 草津の河原では、夜になっても荷車が集まっていた。

 札を打つ音が、闇の中で続いている。誰が差配しているのか、誰も知らない。運ぶ者は運ぶだけ。札を打つ者は札を打つだけ。草だけが、静かに動いていた。


 坂本城に戻った光秀は、夜半、机の前で、筆を執った。

 白紙の紙に、墨を落とす。

「草津の出帳、依然として未着」

 そこまで書いて、筆が止まった。

 次に何を書けばよいのか、光秀には分からなかった。炭を運んでいた男が、今日は草を運んでいた。古い草鞋が拾われ、新しい商いになっていた。草津の茶屋だけが満員で、他の町の灯りは消えていく。

 光秀は、書いた紙を、ゆっくりと引き裂いた。

 破いた紙を、行灯の灯りにかざして、燃やした。炎が小さく立ち上り、すぐに灰になった。

 光秀は、灰になった紙の残骸を、指でそっと払った。机の上には、何も残らなかった。

 外では、冬の冷たい雨が、坂本の屋根を叩き続けていた。雨音に混じって、遠く、琵琶湖の波が、岸を打つ音が聞こえていた。光秀は、その音を聞きながら、ずっと、机の前を動かなかった。

 行灯の灯りだけが、空の机を照らしていた。光秀は、その灯りを見つめたまま、動かなかった。

 灯芯が、また一度、小さく爆ぜた。その小さな音だけが、静まり返った書斎に、いつまでも尾を引いていた。

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