第二百十七話:出帳未着
第二百十七話:出帳未着
安土城の小座敷で、信長は琵琶湖を望む障子を細く開け放ち、外の景色を眺めていた。
丹羽長秀が、板敷きに両手を突き、低く頭を下げていた。脇には、草津から持ち帰った帳面が、袱紗の上に揃えて置かれている。
「草津の様子、見てまいりました。草の入りは、日ごとに増えております。宿場に草は集まっております」
「留まりはおらぬか」
信長の短い問いに、長秀は一瞬、言葉を探すように間を置いた。
「……集まった草が、どこへ捌けたかの控えが、揃っておりませぬ。入りの帳には、刈り手の名と束数が几帳面に記されております。されど、それを買い取った者の名、送り出した先を記す出の帳が、白紙のままでございます」
「揃わぬとは」
「問屋頭に質しましても、その都度、口頭にて荷を渡しており、帳面を締める暇がなかったと申すばかりで」
「問屋の怠慢か」
「そのように見受けられます。荷が急に増えたゆえ、筆が追いつかぬのでございましょう。代官を遣わし、過怠銭を科すとともに、出帳を早急に締め直させます」
「怠けた者を据えておく必要はない。書けぬなら、書ける者に替えよ」
信長の声に、怒りはなかった。ただ、狂った歯車を取り替えるような、平然とした響きがあった。
「は。直ちに」
長秀が平伏し、それで話は終わった。
座敷を辞し、渡り廊下を歩く長秀を、明智光秀が呼び止めた。
「五郎左衛門殿。その帳面、私にも拝見させていただけませぬか」
長秀は意外そうに眉を寄せた。
「構わぬが、見るほどのものは何もないぞ。草津の問屋の走り書きと、白紙ばかりだ」
「構いませぬ。坂本へ戻る道中、目を通させていただきたく」
長秀は供に命じ、帳面の写しを光秀の家臣へと手渡させた。光秀は、その重みを確かめた。紙の厚みではない。何かが抜け落ちているような、頼りない軽さが手に残った。
その夜、坂本城の居館で、光秀は行灯に芯を一本足し、帳面を畳の上に広げた。
十月八日、野洲の百姓弥八、干し草四十束。十月九日、守山の百姓太兵衛、青草六十束。入りの記録は克明であった。だが、十月十四日を境に、束数が跳ね上がっている。一日三百束。翌日には四百五十束。二十日を過ぎる頃には、日に千束を越えていた。
出帳の頁は、白かった。十月十五日、大津送り、三十束。十七日、膳所宿へ、二十束。それだけである。以降の日付には、何一つ書かれていない。ただ、誰かが何度も頁を開いては、何も書けずに閉じた跡だけが残っていた。折り目だけが幾重にもつき、指の脂で紙の端が黒ずんでいる。
光秀は、算盤を借り、入りの数を日ごとに足し合わせてみた。珠を弾く音だけが、静かな居館に続いた。数十日分を合わせると、優に数千束に達する。だが、出として記されているのは、そのごくわずかに過ぎない。残りは、帳面の上では、どこにも行っていない。ただ、消えているだけであった。
光秀は、帳面を閉じかけ、また開いた。白紙の頁を、指でなぞった。
障子を開け、湖の向こう、闇に沈む草津の方角を見据える。そこには何もない。ただ冷たい夜気と、黒々とした水面が広がるばかりであった。
翌朝、光秀はわずかな供を連れて草津宿へ入った。
街道は、異様な活気に満ちていた。草の俵を積んだ荷車が列をなし、乾いた草の匂いが立ち込めている。旅人の足取りは、以前より明らかに鈍くなっていた。旅籠の雨戸は半分閉ざされ、草鞋売りの老婆の店先には、埃をかぶった草鞋が並んでいた。
「草だよ。草を運ぶ車ばかりで、旅の人も前ほどは通らねえ」
老婆は、歯の抜けた口でそう言い、釣銭を探る手を止めなかった。
辻では、材木を積んだ荷車が、ぬかるみに車輪を取られて立ち往生していた。牽く馬は、肋骨が浮き始め、口から白い泡を吹きかけていた。
「早く退けろ」
すれ違おうとした草を積んだ馬方が、苛立たしげに怒鳴った。
「草津の会所へ刻限までに届けねばならんのだ。遅れたら草の値を引かれる」
「そう言われても、馬が動かんのだ」
材木の主らしい商人が、泥に塗れた裾を押さえながら、必死に馬の轡を引いていた。
「良い草が高くなり、安い草しか買えぬ。大津まで行けば何とかなると聞いて、無理を押してきたが、ここでもう限界だ」
「知ったことか。草なら、そこに山ほどあろうに」
「買えんのだ。草津の草は、高くて手が届かぬ」
光秀は、倒れた馬の脇腹を見つめた。そのすぐ脇を、大人の背丈ほどに草を積み上げた荷車が、何事もなかったかのように擦れ違っていく。
草はある。目の前に、溢れるほどある。だが、目の前で疲れた馬の口には、一本の干し草すら入らない。
草津の会所は、荷駄と人足で足の踏み場もなかった。
奥の帳場で、問屋頭は土気色の顔をしていた。目の下には黒い隈があり、筆を握る手が震えている。
「咎めに来たのではない」
光秀が静かに言うと、問屋頭の強ばった肩が、わずかに緩んだ。
「入りの帳は、見事なものだ。……なぜ、出の帳が書けぬ」
「……買い手が、名を名乗らぬのでございます」
問屋頭は、絞り出すように答えた。
「草が入ると、すぐに引き取り手が現れます。毎日、違う顔の日雇いでございます。名を尋ねても、『ここで草を受け取ってこいと頼まれただけだ』としか申しませぬ」
「その者たちの名を、帳面に控えぬのか」
「尋ねました。……ですが、皆、口を揃えて同じことしか申しませぬ」
問屋頭の額から、冷や汗が滴り落ち、畳に小さな染みを作った。
「銀は本物でございます。銭を払われ、荷を渡す。商いとしては、何一つ滞ってはおりませぬ。されど……出帳に何と書けばよいのでございましょう」
「引き取られた草は、どこへ消える」
「分かりませぬ。ただ、この草津を通り過ぎ、どこかへ消えていくのでございます」
会所を出た光秀は、宿場の外れ、河原の粗末な小屋へ足を延ばした。
筵を掛けられた草の山が、いくつも並んでいる。若い馬方が一人、竹筒の水を飲んでいた。
「その草は、どこへ運ぶのだ」
「知らねえよ。俺は、ここまで運べと言われただけだ。一往復で銭を幾らか貰える。それだけだ」
「誰に頼まれた」
「大津の木賃宿におった男が、人足を集めていたんだ。銀を見せられてな、ついてきただけだ。それ以上のことは、誰も聞かねえし、教えてもくれねえ」
男はそう言い捨てると、空の荷車を引いて去っていった。光秀は、積まれた草の山を見上げた。整然と積まれ、風雨を避ける筵の掛け方も、手慣れている。誰かが差配しているのは明白であった。だが、その誰かの姿は、どこにもない。
光秀は、草の山を見上げたまま、しばらく動かなかった。
積まれている。だが、昨日も積まれていたはずだ。ならば、昨日の草はどこへ行った。
大津へ回ると、両替商の店先が、日暮れてもなお開いたままであった。
「銭から銀への両替は、今はお断りしております」
番頭が、疲れた顔で言った。
「ここ十日、草津から持ち込まれる銭の量が尋常ではございませぬ。皆、銀を求めてまいります」
「理由は」
「分かりませぬ。ただ、銀が足りませぬ」
番頭は、帳面をめくった。
「草津から持ち込まれる銭は増えるばかり。されど銀は戻ってこぬ。銭箱だけが膨らみ、蔵の銀だけが減ってゆくのでございます」
光秀は、それ以上何も言わず、店を出た。冷たい風が、琵琶湖から吹き付けてきた。夕闇の中、街道の彼方に、長い荷駄の列が見えた。馬の首が、力なく項垂れていた。
逢坂の関では、番人が、草を積んだ荷ばかりが通るのに閉口している様子であった。
「関銭は変わりませぬがね。数だけは、えらく偏っております」
下役が帳面を繰りながら、相槌を打つ。
「近頃は、荷改めをしても、中身を聞くまでもございませぬ。十に九つは、草でございますゆえ」
「残り一つは」
「空荷でございます」
番人は苦笑した。
「西へ向かう荷は草ばかり。戻る荷は、ほとんどございませぬ」
その夜、草津の河原では、また荷車が集まっていた。
松明の灯りの下、男たちは無言で草を運び込んでいる。積まれた山は、すでに大人の背丈を三つ重ねたほどの高さになっていた。荷を降ろした一人が、傍らの仲間に低く尋ねた。
「まだ来るのか」
「来る」
「どこへ積む」
「知らん」
若い馬方は、それ以上問わなかった。荷を降ろした男が、札を打つ。一本。また一本。数はもう覚えていない。それでも札だけは、静かに増えていく。
別の男が、積まれた草の山から一束を取り、別の荷車へ移している。札の番号が違っている。昼に積まれた草が、夜になると別の札を付けられ、別の荷車に積み替えられていく。誰が差配しているのか、誰も知らない。運ぶ者は運ぶだけ。札を打つ者は札を打つだけ。積み替える者は積み替えるだけ。互いに顔を知らず、行き先を知らず、ただ手元の仕事をこなしているだけであった。
月明かりの下、草の山は、なおも高くなっていった。札の影が、土手の上に長く伸びている。遠く、大津の方角では、荷車を引く馬の嘶きが、途切れがちに響いていた。夜が更けても、その音は、なかなか止まなかった。
草津宿の外れでは、伝馬屋の主が、厩の前で腕を組んでいた。
公用の馬が二十頭いる。だが、草代がこの十日で三倍近くに跳ね上がっている。今朝は一束十二文。昨日は九文であった。
「また上がったのか」
「買う者がおる」
「誰がだ」
「知らん。ただ、草津の河原へ運んでいく者たちが、銀を出して買うだけだ」
主は、銭袋を確かめ、ため息をついた。
「このままでは来月の継立が回りませぬ」
主は空の桶を見た。
「馬はおります。だが食わせる草が買えぬ」
公用馬の飼葉を確保せねば、宿場の継立が止まる。だが、この値では、長くは持たぬ。主は、空の飼葉桶を見つめながら、ただ黙っていた。
帰路、光秀は山崎宿に立ち寄った。
会所の庭には、酒樽が十数個、積み上げられたまま動かずにいた。炭の俵も、塩の荷も、味噌の樽も、紙の束も、同じ場所に並んだままである。乾いた筵の上に、埃が薄く積もっている。問屋頭は、疲れた顔でそれを見ていた。
「草なら動くのでございます。草以外は、馬が回らぬ」
「馬が足りぬのか」
「足りぬというより、草の荷ばかりが先に出ていくのでございます。草を積む馬方は、日当が良い。他の荷を積む者は、後回しにされる。結果として、草以外の荷が動かぬ」
光秀は、動かぬ酒樽の影を見つめた。
「いつからこうなった」
「十日ほど前からでございます。草津の草が動き出してから、こちらも同じようになりました」
問屋頭は、それ以上何も言わなかった。動かぬ荷の列だけが、夕陽の中に長く伸びていた。酒樽の影が土に落ち、炭の俵の間を風が通る音だけが聞こえていた。味噌の樽の蓋には、薄い埃が積もっている。紙の束も、同じ場所に取り残されたままだった。光秀は、その列をしばらく見つめていた。誰も荷を動かそうとはしなかった。風が、筵の端をわずかにめくっていた。埃が、静かに舞っていた。
坂本城に戻った時、夜はすでに深く沈んでいた。
光秀は、書斎の机に向かい、筆を執った。信長への報告書を、一通書かねばならない。
だが、筆先は宙に浮いたまま、動かなかった。
「出帳が揃わぬのは、問屋の怠慢にあらず」と書くか。
だが、その先に何と続ける。買い手の名も、届け先も、何一つ分かっていない。証拠は何もない。ただ、銀が動き、草が消え、宿場が軋んでいるという「現象」があるだけだ。
「言えぬ」
光秀は、筆を置いた。墨が乾き、紙の白さだけが目に残った。
机の上の帳面を、もう一度めくる。入り帳の最後に記された日付は、昨日であった。出帳の頁は、なおも白紙のままである。
百姓は高く売れるから草を刈り、日雇いは銭になるから荷を運び、両替商は求められるから銀を渡し、問屋は届いた荷を差配している。信長が命じた通りに、関所をなくし、道を均し、誰もが自由に商えるようにした、その仕組みの中で、皆が正しく動いている。
それでいて、帳面の出の欄だけが、どこまでも白い。
光秀は、行灯の灯りの下、しばらくその白紙を見つめていた。罪人を探しても、恐らく一人も出てはこないだろう。だが、街道はどこかで、確かに軋んでいる。灯芯が、パチリと爆ぜた。
帳面の隅に、草津の問屋頭が走り書きした、震える文字だけが残っていた。
『出帳未着』
外では、冬の初めの冷たい雨が、坂本の城壁を静かに濡らし始めていた。雨垂れの音が、屋根から一つ、また一つと落ちる。光秀は、その音を聞きながら、夜が明けるまで、帳面を閉じることができなかった。




