第二百十六話:駄賃騰貴
第二百十六話:駄賃騰貴
継飛脚の中継所で、小さな遅れが重なり始めていた。
次の宿場まで文を運ぶはずの馬が、なかなか用意できない。飛脚は、草鞋の紐を結び直しながら、中継役の男に尋ねた。
「まだ、馬は」
「今しばらく」
「急ぎの文だぞ」
「承知しております。ただ、今、出せる馬がおりませぬ」
飛脚は、苛立ちを抑えながら、日暮れまで待たされた。厩を覗くと、繋がれているのは老いた駄馬が一頭だけである。本来使うべき脚の速い馬は、朝のうちに、草津へ向かう荷に貸し出されたという。ようやく馬が用意された頃には、次の宿場に着くのは、すでに夜半を過ぎているはずだった。中継役の男は、飛脚を見送ったあと、空になった馬房を、しばらく見つめていた。壁に掛けられた馬具だけが、使われる当てもなく、埃をかぶり始めていた。
別の中継所でも、似たような光景が続いていた。
飛脚が到着すると、すでに三人の飛脚が順番を待っていた。中継役は、疲れた顔で首を振った。
「馬が、回っておらぬ」
「いつになる」
「分からぬ。草津の荷が優先されておる」
飛脚たちは、何も言えなかった。急ぎの文を抱えたまま、ただ座って待つしかなかった。日が傾き、それでも馬は来なかった。一人の飛脚が、草鞋の紐を何度も結び直しながら、地面を見つめていた。草鞋の紐が切れかけているのに、誰も気づかなかった。別の飛脚は、懐から干し飯を取り出し、小さく齧った。音だけが、静かな土間に響いていた。
さらに東の中継所でも、同じことが起きていた。
飛脚が門をくぐると、すでに五人の飛脚が土間に座っていた。中継役は、帳面を開いたまま首を振った。
「今日は、もう出せぬ」
「明日は」
「明日も、分からぬ」
飛脚の一人が、文を懐にしまい直しながら呟いた。
「これでは、京に届くのがいつになるやら」
誰も、それに答えなかった。土間の隅では、誰かが小さく咳をしていた。中継役は、空の馬房を眺めながら、ただ黙っていた。
山崎の会所では、荷主の一人が、声を荒らげていた。
「運賃が、倍になっておるではないか」
問屋頭は、帳面を閉じたまま答えた。
「馬が、空いておりませぬ」
「荷はある。銭も払う」
「馬が、おりませぬ」
「では、いつ運べる」
「分かりませぬ」
荷主は、それ以上言い返せなかった。裏手を覗くと、繋がれている馬の数は、以前よりも明らかに少ない。空の轅だけが、いくつも立て掛けられている。荷主は、帳面に高い駄賃を書き入れられるのを、黙って見ているしかなかった。土間の隅では、他にも二人の荷主が、順を待って座り込んでいた。一人は、すでに半刻近く、そこに座ったままである。問屋頭は、その様子を横目に、算盤の珠を、ただ黙々と弾き続けていた。荷は減り、駄賃は上がる。帳面の上では、儲かっているはずの数字が、なぜか少しも喜ばしく見えなかった。
大津の両替商も、近頃の商いに、妙な違和感を覚えていた。
草津の会所からの両替の依頼が、このところ、やたらと多い。銭を銀に、銀を銭に。同じ日に、何度も両替に訪れる手代がいる。番頭が、帳面を検めると、この十日ほどで動いた銀の量は、去年の同じ時期の帳面と比べて、頁の埋まり方がまるで違っていた。
「これほどの銀が、草の代に化けておるとは」
手代の一人に、それとなく尋ねたことがあった。
「近頃、お出入りが多うございますな。……どちらの御用向きで」
手代は、笑って誤魔化しただけであった。番頭は、それ以上は問わなかった。ただ、両替のたびに使いの顔ぶれが変わることだけは、帳面の端に控えておいた。同じ屋号を名乗る使いは、一人としていなかった。近江の商人、堺の手代、名も知らぬ旅装の男。銀を運び込む者たちの顔ぶれに、これといった繋がりは見えなかった。それでいて、行き先はいつも同じ、草津の一点であった。
その夜、番頭は、主人にだけ、そっと耳打ちをした。
「草津の名を、覚えておかれた方がよろしいかと。銀の動き方が、尋常ではございませぬ」
主人は、それだけ聞いて、頷いただけであった。だが、その夜以来、草津の名が出るたびに、主人の箸の動きが、わずかに止まるようになった。
草津の会所では、問屋頭が、夜ごと帳面と向き合っていた。
昨日は五百束。今日は六百二十束。届く草の量は、なおも増え続けている。だが、それを運び出した先を記す欄は、この十日、ほとんど埋まっていなかった。手代が、恐る恐る尋ねた。
「これは、いつまで続きましょうか」
問屋頭は、答えなかった。行灯の灯りの下、帳面の数字だけが、静かに積み上がっていく。問屋頭は、帳面の余白を見つめた。何か書こうとして、やめた。それ以上は、何も書けなかった。自分の会所を通り過ぎていくはずの荷が、どこへ流れているのか、問屋頭自身、もはや把握していなかった。
数日後、長秀は、自ら草津へ足を運んだ。
代官を伴い、会所の帳面を検めた。数字だけを見ていては、分からないことがある。長秀は、そう考えていた。ただ、問屋頭の話を聞くだけでなく、帳面そのものを、初めから終わりまで、自らの目で通した。
入りの記録は、几帳面についている。何月何日、何束、誰から。それは、日を追うごとに、確かに増え続けていた。長秀は、指先で日付を追いながら、頁をめくっていった。だが、出の記録を探しても、整っていない。何日分かは記されているが、抜け落ちた頁もある。あっても、わずかに近隣の厩へ分けた量が、数十束、記されているだけである。
「出の帳は、どうなっておる」
長秀は、帳面を繰る手を止めて、問屋頭に尋ねた。
「出は……その都度、口上にて。帳には、あまり……」
「揃っておらぬのか」
「はっきりとは……」
長秀は、頁を戻した。再び目を走らせた。指先が同じ余白の前で止まる。
「出帳が、揃っておらぬ」
問屋頭は、答えられなかった。長秀は、帳面を閉じた。それ以上は、何も言わなかった。会所を出ると、街道の風が冷たかった。長秀は、これまで見てきたどの光景よりも、この帳面の余白の方が、よほど不気味だと感じていた。
夕刻、安土への帰路、長秀は馬上でずっと黙っていた。供の代官が、幾度か話しかけたが、返事はなかった。長秀の頭の中では、帳面の数字が、何度も並び直されていた。入りは、確かにある。出は、揃っていない。それ以上は、分からなかった。
その頃、大津の馬喰が、厩の前で腕を組んでいた。
馬喰は、朝から繋いだままの馬の首を撫でていた。半日経っても、値を聞く者すら現れなかった。飼葉代が高いせいで、誰も馬を増やそうとしない。馬喰は、繋いだ馬の首を撫でながら、呟いた。
「馬はおる。草が無い」
傍らの若い馬方が、肩をすくめた。
「草津へ行けば、草は買えるそうですが」
「銀が要る」
「銀が無い」
馬喰は、それ以上何も言わなかった。馬は元気だ。だが、売れる見込みがない。馬喰は、銭袋の中身を確かめて、ため息をついた。馬のいななきが、空しく厩に響いていた。
近江の小さな寺でも、似たようなことが起きていた。
厩番が、寺の馬の桶を覗き込む。底に残った草は、いつもの半分もない。檀家に頼んだが、皆が首を振った。
「草が、無い」
「売ってくれぬのか」
「草津へ流れておるらしい」
厩番は、それ以上聞けなかった。寺の馬は、すでに脇腹が少し落ち始めている。厩番は、桶の底を指でさらいながら、ただ黙っていた。馬が鼻を鳴らしても、応える草はもうなかった。
木材商の主も、頭を抱えていた。
材木の荷が、三日も動かない。馬が回らないからだという。納期が迫っているのに、荷車が空いている。主は、問屋に何度も足を運んだが、返ってくる言葉は同じだった。
「馬が、おりませぬ」
「銭は出す」
「馬が、おりませぬ」
主は、倉庫に積まれた材木を見上げた。雨に晒されれば、傷む。だが、動かす手段がない。主は、帳面に遅延の理由を記しながら、筆を止めた。理由の欄に、何と書けばいいのか、分からなかった。
東海道筋の茶屋でも、小さな異変が起きていた。
旅人が馬を借りようとすると、借り賃が以前の倍近くになっていた。亭主は、申し訳なさそうに首を振った。
「馬が、少ないもので」
「なぜだ」
「草が高いそうで」
旅人は、縁台に座り込んで、冷めた茶をすすった。隣では、別の旅人が同じ愚痴をこぼしている。行き交う人の足取りが、明らかに重くなっていた。亭主は、空になった馬小屋を眺めながら、妻に小さく言った。
「このままでは、客が来ぬ」
妻は、答えなかった。ただ、冷めた飯を茶碗に盛る手を動かし続けていた。
大津の船着き場では、船頭が甲板に座り込んでいた。
本来なら、すでに米を積んで出港しているはずだった。だが、船倉は空のままである。岸には草の俵が優先的に積み込まれていく。船頭は、綱を巻きながら、小声で吐き捨てた。
「草ばかりが先に行く」
若い船頭が、傍らで聞いた。
「米は、いつ積むのです」
「知らん。向こうが草を優先すると言うのだから、仕方ない」
船頭は、それ以上何も言わなかった。甲板に残った米俵の影が、夕日に長く伸びていた。若い船頭は、俵の筵を軽く叩いた。乾いた音がした。まだ湿ってはいない。だが、いつまでこの調子が続くのか、誰にも分からなかった。
野洲川の近くでは、牛飼いが牛の頭を撫でていた。
草を売った銭は、すでに懐にある。銭袋の重みは確かだった。だが、牛は桶を舐め続けている。底に残った草の切れ端を、舌で何度も探っている。牛飼いは、視線を逸らした。明日の朝分しか残っていない。それ以上は、もう売ってしまった。牛飼いは、銭袋を握りしめながら、しばらく動かなかった。
逢坂の関では、番人が通る荷の数を帳面に控えながら、ふと呟いた。
「近頃は、草を積んだ荷が、やけに多いな」
「関銭には障りませぬゆえ」
傍らの下役がそう応じると、番人はそれ以上気にせず、次の荷へと目を移した。関を越える荷の中身までは、誰も検めようとしなかった。荷駄の列は、いつもより長く、坂の下まで続いていた。
その夜も、草津の問屋頭は帳面を開いていた。
行灯の灯りが、数字の上に落ちている。昨日は五百束。今日は六百二十束。明日到着予定はさらに多い。問屋頭は、その数字を指でなぞった。行き先の欄は、すべて空欄のままである。手代が運んできた茶も、すでに冷めていた。問屋頭は、帳面の端に小さく「出帳未着」と書き加えた。それ以上は、何も書けなかった。灯心が小さく爆ぜて、影が揺れた。
その夜遅く、草津から離れた河原では、この日もまた、荷車が集まっていた。
松明の灯りの下、男たちは無言で草を運び込んでいる。積まれた山は、すでに大人の背丈を三つ重ねたほどの高さになっていた。荷を降ろした一人が、傍らの仲間に低く尋ねた。
「まだ来るのか」
年嵩の男が、山を見上げながら答えた。
「来る」
「どこへ積む」
「知らん」
若い馬方は、それ以上問わなかった。荷を降ろした男が、札を打つ。一本。また一本。数はもう覚えていない。それでも札だけは、静かに増えていく。
月明かりの下、草の山は、なおも高くなっていった。札の影が、土手の上に長く伸びている。遠く、大津の方角では、荷車を引く馬の嘶きが、途切れがちに響いていた。夜が更けても、その音は、なかなか止まなかった。草の匂いだけが、冷たい夜気に混じっていた。




