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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第二百十五話:草荷偏流

第二百十五話:草荷偏流


 大津の厩は、朝から静まり返っていた。

 厩番が桶を覗き込む。底に残った干し草は、いつもの半分もなかった。手のひらで底をさらっても、乾いた葉が数枚、指に貼りつくだけである。傍らに立った馬方が、それを見て声を落とした。

「朝はこれだけか」

「これだけだ」

「昼は」

「無い」

 馬方は、しばらく桶を見つめていたが、やがて轅に手をかけた。

「草津へ買いに行く」

「皆そう言う」

 厩番は、それだけ答えて、次の桶を並べ始めた。その日のうちに、同じことを言って出て行った馬方は、三人いた。誰も、示し合わせたわけではない。ただ、誰もが同じ場所を思い浮かべていた。会所の土間には、空になった桶だけが、朝の光の中に並んでいた。

 夕刻、三人は、ほぼ同じ頃に戻ってきた。誰も、荷車に草を積んではいなかった。一人が、疲れた声で言った。

「門前で、断られた」

「わけは」

「言わぬ。ただ、今日はこれきりだと」

 厩番は、それ以上を問わなかった。会所の縁では、問屋頭が三つの空の荷車を黙って見ていた。厩の奥では、腹を空かせた馬が一頭、柵を蹴る音を立てていた。誰も、それを叱らなかった。


 その日の昼過ぎ、大津の馬医者が厩を訪れた。

 定期の見回りである。馬の脚を一本ずつ確かめ、歯を覗き、息を聞いた。どれも異常はない。毛並みも悪くない。だが、馬医者は、桶の底を見た瞬間に、手を止めた。

「飼葉が、足りておらぬな」

 厩番が、恐る恐る答えた。

「はい。……草津へも買いに行きましたが」

「売ってくれぬのか」

「はい」

 馬医者は、馬の脇腹に手を当てた。まだ骨は浮いていない。まだ病気でもない。だが、わずかに張りが足りない。馬医者は、それ以上何も言わず、薬箱を閉じた。帰る前に、ただ一言残した。

「このままでは、馬が落ちるぞ」

 厩番は、その背を見送ったまま、動けなかった。


 草津へ向かう街道には、朝から荷車の列が続いていた。

 その光景は、以前とはどこか違っていた。積まれているのは、米俵でも、材木でもない。乾いた干し草の俵ばかりが、荷車の荷台に高く積み上げられ、街道の先まで連なっている。轍の音と、草の匂いだけが、いつまでも続いていた。すれ違った旅人の一人が、荷を眺めながら連れに呟いた。

「近頃は、米より草を多く見るな」

 荷車を引いていた商人が、それを聞いて振り返った。

「草の方が、儲かるのでな」

「草でか」

 旅人は、思わず笑った。だが、商人は笑わなかった。

「銀になる」

 それだけ言うと、商人は轅を握り直し、先を急いだ。旅人は、その背を見送りながら、しばらく笑いの形のまま黙っていた。連れの一人が、小声で言った。

「銀とは、穏やかではないな」

 誰も、それに答えなかった。街道の脇には、荷を運びきれずに置き去られた俵が、幾つか転がっていた。誰の荷か、通りすがりの者には分からなかった。


 野洲川の河原では、鎌の音が、朝からずっと絶えなかった。

 今年は、刈り過ぎていた。河原の草は、対岸の際まで刈り取られ、剥き出しの土が、霜の下で白く乾いている。去年のこの時期なら、まだ半分ほどは残っていたはずの草である。老いた百姓が、その広がりを見渡しながら、隣で鎌を振るう若者に声をかけた。

「去年は、あそこまで残っておったが」

 若者は、手を止めずに答えた。

「銀だからな」

「銀だから、刈るのか」

「刈らねば、損だ」

 老人は、それ以上何も言わなかった。しばらく黙って鎌を動かしていたが、やがてぽつりと漏らした。

「冬の草を、冬に売る者はおらんぞ」

「売れるなら、売る」

「牛は、何を食う」

 若者は、束を担ぎ直しながら答えた。

「その時、考える」

 老人は、口をつぐんだ。

 日が傾きかけた頃、老人は再び口を開いた。

「銀は草を生やさぬ」

「春までに、また生える」

「春まで、牛が生きておればな」

 若者は、一瞬、手を止めた。だが、すぐに縄を引き締めた。

「……今を生きねば、春など来ぬ」

 老人は、それ以上何も言わなかった。鎌を動かす音だけが、乾いた河原に響いていた。日暮れ近く、河原には、刈り残された枯れ草がほとんど見当たらなくなっていた。風が、剥き出しの土の上を、乾いた音を立てて吹き抜けていった。誰かが、遠くで束を数える声だけが、いつまでも響いていた。


 その夕方、野洲川から少し離れた牛小屋で、一人の牛飼いが牛の頭を撫でていた。

 草を売った銭は、すでに懐にある。銭袋の重みは、確かだった。だが、牛は桶を舐め続けている。底に残った草の切れ端を、舌で何度も探っている。牛飼いは、視線を逸らした。明日の朝分しか残っていない。それ以上は、もう売ってしまった。牛飼いは、銭袋を握りしめながら、しばらく動かなかった。


 山崎の会所では、問屋頭が帳面を前に、算盤を弾いていた。

 先月、荷は百、駄賃は百文であった。今月、荷は八十に減り、駄賃は百二十文に増えている。数字だけを見れば、儲かっている。だが、問屋頭は、その儲けの中身を信じられずにいた。

「おかしい」

 傍らの手代が、帳面を覗き込みながら言った。

「儲かっております」

「そうではない」

 問屋頭は、算盤の珠を、もう一度弾き直した。荷は減り、銭は増える。動いている馬の数は変わらない。それでも、何かが、少しずつ、目に見えぬところで痩せていくようだった。

「何かを、食っておる」

 手代は、その言葉の意味を問い返さなかった。問屋頭自身も、それ以上は説明できなかった。ただ、帳面に並んだ数字だけが、儲かっているはずの月を、どこか不吉なものに見せていた。

 表の土間では、空の荷車が、また一台、音もなく出て行くところだった。問屋頭は、立ち上がって声をかけた。

「待て」

 馬方が、轅を握ったまま振り返る。

「何を運んでおる」

「草です」

「誰の荷だ」

「知らぬ」

「知らぬわけがあるか」

「荷札に名が無い」

「毎回、違う手代が来る」

 問屋頭は、一歩近づいた。

「どこへ運ぶ」

「草津です」

「誰の指図だ」

 馬方は、視線を逸らしながら答えた。

「……言えぬ」

 問屋頭は、それ以上追及しなかった。馬方は、黙って轅を握り直し、空の荷車を引いて出て行った。裏手の土が、荷車の轍で深くえぐれている。轍の縁に、乾いた草の切れ端がわずかに残っていた。それを踏むと、乾いた音を立てて崩れた。


 大津の船着き場でも、小さな変化があった。

 朝から荷役に出ていた若い人足が、積まれたままの米俵を指さし、年上の仲間に尋ねた。

「これは、いつ運ぶのです」

「知らぬ。荷方に聞け」

「もう三日、ここにありますが」

 年上の人足は、肩をすくめただけであった。

「船が、いっぱいなのだろうよ」

 若い人足は、それ以上何も言わず、俵の筵を軽く叩いた。乾いた音がした。まだ、湿ってはいない。だが、いつまでこの調子が続くのか、誰にも分からなかった。京へ向かうはずの荷が、なぜ湖岸に留め置かれているのか、それを気に留める者は、まだ少なかった。


 その日の午後、船頭の一人が、丸子船の甲板に座り込んでいた。

 本来なら、すでに米を積んで出港しているはずだった。だが、船倉は空のままである。代わりに、岸には草の俵が優先的に積み込まれていく。船頭は、綱を巻きながら、小声で吐き捨てた。

「草ばかりが先に行く」

 若い船頭が、傍らで聞いた。

「米は、いつ積むのです」

「知らん。向こうが草を優先すると言うのだから、仕方ない」

 船頭は、それ以上何も言わなかった。甲板に残った米俵の影が、夕日に長く伸びていた。


 同じ日の午後、大津の馬方の一人が、草津の会所の門前に立っていた。

 銭を持参し、倍の値を提示した。問屋頭は、門の内側から顔を出しただけで、短く答えた。

「売れぬ」

「倍出す」

「売れぬ」

「三倍ならどうだ」

「売れぬ」

「なぜだ」

「もう約した」

「誰と」

「言えぬ」

 馬方は、門の前で立ち尽くした。中から聞こえる声は、草を数える音と、荷を積む音だけであった。門は、静かに閉じられた。馬方は、持ってきた銭の包みを握りしめたまま、しばらく動かなかった。やがて、空の荷車を引いて、大津へと戻っていった。


 東海道筋の旅籠では、亭主が縁台に座って、空の庭を眺めていた。

 ひと月前まで、馬を借りる旅人で賑わっていた。今は、座敷が空いている。冷めた飯が、台所に残ったままである。使わない馬具が、庭の隅で埃をかぶっている。亭主は、湯呑みを置きながら、妻に呟いた。

「ひと月前は、毎晩埋まっておったのにな」

「皆、馬賃が高いと申しております」

 亭主は、答えなかった。庭の隅に置かれた空の馬具が、夕暮れの中で静かに影を落としていた。


 その夜、草津の会所では、問屋頭が一人で帳面を開いていた。

 行灯の灯りが、数字の上に落ちている。昨日は三百束。今日は四百五十束。明日到着予定は六百束と記されている。問屋頭は、その数字を指でなぞった。行き先の欄は、すべて空欄のままである。誰が受け取り、どこへ運ぶのか。問屋頭自身も知らなかった。ただ、受け取るだけである。手代が運んできた茶も、すでに冷めていた。問屋頭は、帳面の端に小さく「行き先不明」と書き加えた。それ以上は、何も書けなかった。


 同じ夜、安土城書院に、三宿からの追加の報せが届いた。

 長秀は、文机の上でそれらを並べ、一つずつ整理していった。草津では草が集まっている。大津では草が来ない。山崎では空の荷車が増えている。長秀は、しばらくそれらを見比べたあと、口を開いた。

「今年は、冬の訪れが早うございます」

「草が、不足しておるのでございましょう」

 居並ぶ家臣たちが、それに頷いた。もっとも自然な見立てであった。冬の入りが早ければ、草の育ちも悪い。誰もが、そう納得しかけていた。

 ただ、信長だけが、黙っていた。


「不足なら」

 信長が、ようやく口を開いた。

「は」

「なぜ、草津だけに集まる」

 書院に、沈黙が落ちた。長秀は、答えを探したが、見つからなかった。

「不足なら、皆で減る」

 信長の声は、低かった。

「なぜ、山崎から空車が向かう。なぜ、大津に来ぬ」

 長秀は、口を開きかけたが、言葉が出なかった。信長は、絵図面の上に指を這わせ、三宿を結ぶ線をもう一度なぞった。逢坂の坂、山崎の渡し場、野洲川の秣場。指先が、その一つ一つを確かめるように動く。指が、わずかに止まった。長秀は、初めてそれに気づいた。

「誰かが、買っておる」

「誰が」

「それが、分からぬ」

 信長は、それ以上を言わなかった。灯火が、小さく揺れた。長秀は、一礼して下がった。答えのないまま、夜は更けていった。障子の外では、初冬の風が、庭の枯れ枝を鳴らし続けていた。灯芯が、一度大きく爆ぜて、それきり静かになった。


 信長が退出したあと、長秀は一人で文机に残った。

 三宿からの文を、もう一度並べ直す。草津。大津。山崎。数字も、訴えも、すべて異なる。だが、どこかでつながっている気がした。長秀は、筆を執り、三つの宿場の名を紙に記した。その下に、何も書けなかった。ただ、草津の名だけが、何度も目に留まった。長秀は、しばらくその紙を見つめていたが、やがて筆を置き、灯を消した。


 その夜遅く、草津から少し離れた河原に、一台の荷車が、月明かりだけを頼りに到着した。

 積まれていたのは、空の荷ではなかった。乾いた干し草の俵が、荷台からこぼれ落ちんばかりに積み上げられている。すでに幾つもの荷車が並び、松明の灯りの下で、男たちが無言で荷を運び込んでいた。積まれた草の山は、昼間に見たどの山よりも大きかった。土手の陰には、まだ荷を解かれぬ俵が、幾重にも積み重なっている。

「急げ」

 誰かが、低く声をかけた。

「明朝までに、積み切れ」

 別の男が、荷を担ぎながら答えた。

「まだ来ぬのか」

「今夜中には」

「遅いな」

「向こうでも集めておる」

 その言葉に、荷を運んでいた若い馬方の手が、一瞬止まった。だが、すぐにまた動き始めた。年嵩の男が、荷を担ぎ直しながら、ぽつりと言った。

「知らん。ただ、買えと言われている」

 若い馬方は、それ以上問わなかった。荷を降ろした男が、札を打つ。一本。また一本。数はもう覚えていない。それでも札だけは、静かに増えていく。

 月明かりの下、草の山は、なおも高くなっていった。遠く、大津の方角では、船着き場に積まれたままの米俵が、筵をかぶせられたまま誰にも運ばれることなく、その上に夜露が白く浮いていた。その光景に気づく者は、まだ誰もいなかった。

 草の山の影が、河原の土手を越えて、長く伸びていた。

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