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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第二百十四話:冬草偏在

第二百十四話:冬草偏在


 草津の会所は、この頃、朝から活気に満ちていた。

 問屋頭が帳面を開けば、並ぶ数字はどれも黒い。急ぎ荷の駄賃が滞りなく入り、飼葉代も薬代も、以前のように帳面を赤く染めることはなくなっていた。厩の馬たちは肉付きがよく、毛並みにも艶があり、馬方たちの声にも張りが戻っていた。土間に積まれた荷の数も、目に見えて増え、朝のうちに片付いていた荷が、昼を過ぎてもまだ山を成していることさえあった。

「近頃は、朝から気持ちがいいものだ」

 馬方の一人が、荷車の轅を握りながらそう漏らすと、傍らの仲間も笑って頷いた。荷は滑らかに動き、宿場全体に、ようやく落ち着いた余裕が生まれていた。人足たちの足音も軽く、荷縄を結ぶ音が規則正しく響いている。土間の隅では手代が新しい帳面を広げ、筆を走らせていた。墨の匂いが、穏やかな朝の空気に混じっている。表の樋には、昨夜の雨がまだ細く伝い落ちていた。


 だが、この朝は違った。

 屋根瓦にも街道の小石にも、真っ白な初霜が降りていた。道端の草も、川原の葦も、一夜にして白く凍てつき、茶色く枯れ果てている。井戸端の桶には薄氷が張り、朝一番に水を汲みにきた下女がそれを割る音だけが、しばらく響いていた。自然は、静かに止まった。


 厩番の古参が、納屋の重い戸を開けた。

 積まれていた干し草の山を、木の柱に刻まれた古い傷跡と見比べる。去年の線。一昨年の線。今年の山。光の加減で、高くも低くも見える。厩番は柱に手を当て、傷の深さを指の腹でなぞった。しばらくその光景を見つめたあと、何も言わずに戸を閉じた。馬たちは元気だ。毛並みも良い。誰も気にしていない。厩の奥では、若い馬が一頭、藁の上で足踏みをしていた。


 同じ頃、会所の土間に、草を商う男が顔を出した。以前から出入りしている秣商である。

「今日の分だ」

 男が草の束を下ろす。縄の結び目はいつもと同じ、手早い結び方だった。問屋頭が数えると、束の数が足りない。

「約束は五十であったな」

「三十しかない」

「なぜだ」

 秣商は荷車の轅に手をかけたまま、束の間、口をつぐんだ。

「今朝は、銀二匁で買われた」

「銀だと? 秣に銀を使うのか」

「使うのではない。使わねば、草が来ぬ」

 それだけ言うと、秣商は轅を持ち上げ、次の荷へと向かっていった。土間には、束から零れた乾いた葉が、幾つか散らばっていた。問屋頭は帳面に値を記しながら、束を指で押した。乾いていて、軽い。手を止めたのは、値を記した後であった。

 銀二匁。飼葉ひと束にその値をつける買い手など、これまで聞いたことがなかった。問屋頭は、帳面の隅に「銀二匁」とだけ書き添え、しばらくその四文字を見つめていた。誰が買っているのかまでは、秣商も語らなかった。ただ、草津の名だけが、近頃やたらと耳に入ってくる。


 野洲川沿いの秣場では、朝から鎌の音が絶えなかった。

 毎年ならば、初霜が降りればひと仕事終える頃合いである。今年は、刈っても刈っても、翌朝にはまた刈り手が呼ばれた。手のひらの豆は潰れ、新しい豆がその上にまた出来ていた。百姓の一人が、束ねた草を天秤棒に担ぎながら、隣の男に囁いた。

「今年は、銭の払いが早い」

「早いだけではない。……この間など、銀で寄越した」

 二人はそれ以上、言葉を交わさなかった。銀で払う秣買いなど、これまで見たことがなかった。男たちは、刈り取った跡の広がる河原を見渡した。去年より、明らかに刈られた面積が広い。誰の指図か、誰も知らなかった。ただ、鎌を持つ手を止める理由もなかった。


 数日後、問屋頭は帳面を前に算盤を弾いていた。珠を弾く乾いた音が、静かな土間に規則正しく響く。

 急ぎ荷から入る駄賃は増えている。数字は黒い。なのに、蔵の銭箱を開けると、以前より明らかに軽い。銭を掌に乗せ、その重みを確かめるように何度か上下させた。混じった銀の光り方だけが、いつもと違って見えた。飼葉代だけを抜き出して先月と並べると、およそ三割ほど膨らんでいる。

「荷は動いておる。銭も入ってきておる。……なのに、手元に残らぬ」

 問屋頭は帳面をめくり直したが、理由は分からなかった。数字は合っている。黒字は黒字のままだ。ただ、銭だけが残らない。手代が茶を運んできても、問屋頭はそれに気づかず、帳面を見つめたまま動かなかった。茶の湯気が消え、冷めていくのも知らなかった。障子越しの日が、いつの間にか傾いていた。行灯に火を入れる頃になっても、問屋頭は算盤から手を離さなかった。何度弾き直しても、答えは同じだった。


 大津の会所では、別の異変が起きていた。

 手代が、今朝も秣商の姿を待っていたが、約束の時刻を過ぎても男は現れなかった。昨日も、一昨日も、同じであった。土間の隅に置かれた空の秤だけが、埃をかぶりはじめている。

「どうした」

 問屋頭が尋ねると、手代は首を傾げた。

「来ません。文も届いておりません」

 裏手の納屋を覗くと、以前は秣の束が積み上げられていた場所が、ほとんど空になっていた。埃が薄く積もり、草の匂いがしない。代わりに、湿った土間の匂いだけが残っていた。

 厩から、馬方の一人が困った顔で出てきた。

「明日の分がない」

 問屋頭は、しばらく黙っていたが、やがて命じた。

「草津へ行き、分けてもらってこい」

 馬方は頷き、荷車も引かずに馬だけで出て行った。夕刻、戻ってきた馬方に、問屋頭は結果を尋ねた。

「どうであった」

「売ってくれませなんだ」

 それ以上、馬方は何も言わなかった。問屋頭も、それ以上は問わなかった。厩では、馬たちが夕刻の飼葉を待って、落ち着かなげに足を踏み鳴らしていた。手代が桶の底を覗き込み、明日の朝には空になると呟いた。

 その夜、大津の問屋頭は、過去の帳面を几帳面に繰った。去年の同じ時期にも、秣商が二日、三日と姿を見せぬことはあった。師走の忙しさに紛れて、届けが遅れることは珍しくない。だが、五日、六日と間が空いたことは、これまで一度もなかった。問屋頭は、文机の隅に置かれた古い帳面の背表紙を指でなぞりながら、去年の記述を探した。同じ月、同じ日付。そこには「秣、滞りなく入る」とだけ記されていた。今年の帳面には、まだ何も書けずにいた。

 その一方で、大津の船着き場には、高瀬船の数が明らかに増えていた。何を積んでいるのかまでは、岸からでははっきり見えなかった。甲板が高く見える船もあれば、低く沈んでいる船もあった。船頭の一人が、綱を巻きながら舟底へ目をやり、小さく舌打ちをした。

 傍らの若い船頭が、荷の隙間から覗く束を見て、首をかしげた。

「米ではないのですか」

「米ならありがたいな」

 古参の船頭は、それだけ言って綱を担ぎ、岸へ上がっていった。若い船頭は、舟底をもう一度覗き込んだが、薄闇の中では、それが何であるかまでは見分けがつかなかった。夕闇が迫る中、荷を検める役人の姿もなかった。いつもなら目を光らせている関の役人たちも、この頃はどこか気もそぞろに見えた。


 山崎の会所でも、似て非なることがあった。

 宿場の裏手に、空の荷車が普段より多く止まっている。轅を下ろしたまま、車輪だけが朝日を受けて白く光っていた。馬方の一人が、轅を握りながら仲間に声をかけた。

「荷は積まぬのか」

「先に出る」

「どこへ」

「草津の方だ」

 馬方たちは短く頷き、空の荷車を引いて出て行った。問屋頭は帳面を眺めながら、ただ「妙だな」と呟いただけであった。空の荷車が並ぶ光景は、以前にはなかった。馬方たちは朝早くから出て行き、夕方近くになっても戻ってこない者もいた。誰もそれを咎めなかった。裏手の土が、荷車の轍で深くえぐれている。轍の縁に、乾いた草の切れ端がわずかに残っていた。それを踏むと、乾いた音を立てて崩れた。

 数日後、山崎の問屋頭は、先月の帳面と見比べた。荷の目方は、先月よりおよそ二割減っている。なのに、駄賃の実入りは、むしろ増えていた。同じ道を、同じ数の馬が通っているはずなのに、運ぶものだけが、少しずつ軽くなっていた。問屋頭は帳面を閉じ、それ以上は考えなかった。考えたところで、答えの出るものではなかった。だが、帳面を閉じたあとも、指先だけは、その一行に何度も戻っていった。

 数日のち、朝方出て行った馬方の一人が、夕刻遅くに戻ってきた。馬は乾いた汗の跡を残し、いつもより疲れた足取りだった。問屋頭が声をかけると、馬方は轅を下ろしながら、ぽつりと答えた。

「草津は、賑やかなものだ」

 それだけ言うと、馬方は馬を厩へ引いていった。問屋頭は、その背を見送りながら、何も問い返さなかった。空の荷車が、また一台、裏手に増えていた。


 逢坂の関を越える荷駄も、近頃は様子が変わっていた。関の番人が、通る荷の数を帳面に控える傍らで、ふと呟いた。

「近頃は、草を積んだ荷が、やけに多いな」

「関銭には障りませぬゆえ」

 傍らの下役がそう応じると、番人はそれ以上気にせず、次の荷へと目を移した。関を越える荷の中身までは、誰も検めようとしなかった。荷駄の列は、いつもより長く、坂の下まで続いていた。


 東海道筋のとある茶屋でも、小さな諍いが起きていた。

 馬を借りようとした旅の商人が、法外な借り賃を聞かされ、思わず声を荒らげた。

「先月までこの値ではなかったはずだ」

 茶屋の亭主は、湯呑みを拭く手を止めずに答えた。

「馬は同じだ」

「では、何が違う」

「草だ」

 亭主が言うには、ひと月前は一日十二文であった馬の借り賃が、今では二十文近くまで上がっているという。それだけ言うと、亭主は帳場へ戻っていった。商人はそれ以上、何も言えなかった。縁台に腰を下ろし、冷めた茶をすすった。傍らでは、別の旅人が荷を担ぎ直しながら、同じ愚痴をこぼしている。行き交う旅人たちの間でも、同じような話が、あちこちで囁かれ始めていた。誰も、その理由までは知らなかった。ただ、財布の紐を確かめる旅人の数だけが、目に見えて増えていた。


 夕刻、草津の会所で、問屋頭は帳面を前に、この数か月の秣の値を日を追って書き並べていた。

 去年の霜月は、一束おおよそ十文。

 秋口には、二十文に届こうという値。

 そして今夜、記した最新の値は、三十文をわずかに超えていた。

 問屋頭は、その数字の並びをしばらく黙って見つめていた。灯心を切る鋏の音が、ふいに大きく響いた。手代が恐る恐る問うた。

「これは……このまま上がり続けましょうか」

 問屋頭は答えなかった。灯心の炎が揺れ、帳面の上の数字を照らしている。問屋頭は、その数字をもう一度、指でなぞった。声には出さなかったが、胸の内では、以前に自分が口にした言葉が、そのまま裏返って響いていた。荷が動いておるうちは、よかろう。あのとき、確かにそう思った。だが今、荷は動いている。馬も無事である。それでも、蔵の銭だけが、静かに痩せていく。理由が、分からなかった。


 その夜遅く、草津の問屋頭は、手代を呼びつけた。

「明日から、買値をひと束二十五文にせよ」

「今のままでも、十分に集まっておりますが」

「今のうちに、もっと集めておけ」

 手代は黙って頷き、帳面に新しい値を書き入れた。問屋頭は、その筆先を見つめながら、なぜそう命じたのか、自分でもはっきりとは分からなかった。ただ、今のうちに、という言葉だけが、腹の底に居座っていた。


 同じ夜、安土城書院にも、三宿からの文が届いていた。行灯の油皿には、まだ新しい油が満ちており、隅の火鉢では炭が小さく爆ぜていた。長秀がそれを開き、信長の前に置く。

「殿。草津、大津、山崎より、文が届いております」

 信長は、その文にざっと目を通した。指先が文の端を撫でるように動く。

「……それで」

「妙でございます。皆、別々のことを書いております。草津は秣の値、大津は商人が来ぬこと、山崎は空の荷車が増えたこと」

「なら、別々のことだろう」

 信長は短くそう答えただけで、文を長秀に返した。その視線は、すぐには絵図面から離れなかった。逢坂の坂、山崎の渡し場、野洲川の秣場、そして薄く引かれた三宿を結ぶ線。指先がその線をもう一度なぞり、灯火を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 障子の外では、初冬の冷たい風が、庭の枯れ枝を鳴らしていた。風の音が、書院の中にわずかに漏れてくる。行灯の炎が、その風の気配に小さく揺れた。信長は、その音を聞きながら、絵図面の線から目を離さなかった。長秀は、それ以上何も言わず、一礼して次の間へと下がっていった。廊下を遠ざかる足音が、やがて聞こえなくなった。


 その夜、草津の厩の裏手では、厩番が、閉めたはずの納屋の戸を、もう一度開けた。

 干し草の山は、相変わらずそこにあった。高さは、去年の傷に届いているのかどうか、相変わらずはっきりしなかった。厩番は、桶を並べ、今日の分の干し草を詰めた。昔は一桶余りがあった。今は、余らない。馬は元気だ。誰も気にしない。

 厩番は、馬の一頭が鼻を鳴らし、干し草を掻き回すのを見た。底が見える。乾いた草の切れ端が、わずかに残っているだけだ。厩番は、それを指先でつまみ上げ、しばらくの間、感触を確かめていた。そして、何も言わず、納屋の戸を閉めた。木戸の軋む音だけが、静かな夜の中に残った。虫の音も、ほとんど聞こえなくなっていた。風が、納屋の隙間から入り込み、干し草の切れ端をわずかに揺らした。厩番は、その音を聞きながら、しばらく戸の前に立っていた。屋根の上では、今朝と同じ霜が、月の光を受けて薄く白んでいた。厩番は、何も言わず、ただ立っていた。

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