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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第二百十一話:秣場争奪

第二百十一話:秣場争奪


 野洲川の川原は、朝のうちだけ、静かであった。

 露を含んだ葦の葉が、夜明けの薄い光を受けて白く光っている。水際には葦の若い穂がまだ固く、風が渡るたびに葉先が触れ合って乾いた音を立てた。川面には靄が薄く残り、対岸の山影を滲ませている。草の匂いが濃く、朝露の冷たさがまだ土に残っていた。


 草津の馬方たちが鎌を手に川原へ入ったのは、日が完全に昇りきる前のことである。荷車の轅を引く仕事から解かれた者たちであった。腰に下げた縄に、刈った草を束ねて括りつけていく。鎌の刃が朝の光を弾き、草を刈る音が規則正しく続いた。ざく、ざく、と葦の茎が倒れていく。汗が首筋を伝い、男たちは黙々と鎌を動かした。


 半刻もせぬうちに、下流から人の声が近づいてきた。

 鍬や鎌を手にした村の男たちが、あぜ道を渡ってこちらへ歩いてくる。先頭の男が、刈られたばかりの草の跡を見て足を止めた。刈り株の切り口はまだ新しく、白い汁がにじんでいる。

「これは……」

 男の声が低く漏れた。それから顔を上げ、馬方たちを睨みつけた。

「ここは、わしらの村が代々草を刈ってきた場所じゃ。宿場の馬のために、勝手に刈るでない」

 馬方の一人が、鎌を握ったまま振り返った。

「宿場の馬が倒れれば、荷が止まる。荷が止まれば、上様のお咎めがある。草がなければ馬は動かぬ」

「わしらとて同じじゃ。牛が食わねば、田は鋤けぬ。田が鋤けねば、秋に米は実らぬ」


 両者の間に、朝の光だけが長く伸びていた。誰も一歩も退かない。刈られた草の束を挟んで、二つの群れが向き合ったまま黙り込んだ。葦の葉が風に揺れる音だけが、川原に続いていた。

 村の男の一人が、束ねられた草の縄を奪おうと手を伸ばした。馬方がその手を払った。払われた男が体勢を崩し、後ろの者にぶつかった。声が上がり、鎌を持つ手が反射的に動いた。

 刃が空を切り、誰かの腕をかすめた。血の色が、青い葦の葉に散った。

 悲鳴が上がり、双方の男たちが我を忘れて揉み合った。鎌が地面に落ち、泥にまみれる。踏みつけられた草の匂いと、血の匂いが混じった。誰かが川へ転げ落ち、水しぶきが上がった。しばらくの間、川原は怒声と呻き声とに満たされていた。


 やがて、双方の年長の者たちが声を張り上げ、ようやく男たちを引き離した。荒い息の下で、馬方の二人が腕や肩から血を流して座り込んでいた。村の側にも、額を割った者と足を挫いた者があった。合わせて六名の手傷であった。誰も、それ以上は動けなかった。刈られた草の束だけが、踏み荒らされた泥の上に転がっていた。

 年長の村人の一人が、地に膝をついたまま、乱れた息の下で呟いた。

「争うつもりなど、なかった。ただ、刈らねば冬が越せぬ」

 誰もその言葉に答えなかった。倒れた草の上に、朝の光がなおも静かに差していた。川面を渡る風が、まだ血の匂いの残る川原を、ゆっくりと吹き抜けていく。遠くで、鳥が一羽、低く鳴きながら川上へ向かって飛び去っていった。


 草津の会所に、傷を負った馬方たちが運び込まれたのは、昼を過ぎてからのことである。

 問屋頭は、担ぎ込まれた男の腕に晒しを巻きながら、傍らに積まれた草の束を見やった。数はいつもの半分にも満たない。

「これだけしか、集まらなんだのか」

 問屋頭の声は低かった。晒しを巻く手を止めぬまま、続けて呟く。

「馬は、今日も四束、五束と食う。厩に四十頭。……足りぬ」

 草を売りに来た近隣の百姓の一人が、会所の土間で値を吊り上げた。以前は一束八文であった草が、この日は一束二十五文を下らなかった。それでも問屋頭は銭を払わざるを得なかった。厩から漏れる飼葉桶の音だけが、いつもと変わらぬ規則正しさで続いていた。

 庭の隅では、腕を晒しで固めた馬方の一人が、地べたに座り込んだまま空の飼葉桶を見つめていた。傍らに座る仲間が、水を含ませた布で傷口の周りを拭ってやっている。

「明日も、行かねばならぬのか」

「行かねば、馬が飢える」

 それだけの短いやり取りが交わされ、あとは互いに黙り込んだ。井戸端では、村の側の怪我人を運んできた荷車が一台、まだ縄も解かれぬまま停まっていた。誰も、それに手をつけようとはしなかった。荷車の車輪の下で、乾いた泥がかすかに崩れる音がした。


 夕刻、安土城書院に文が届いた。長秀がそれを開き、眉を寄せた。

「殿」

 信長は絵図面から顔を上げず、短く答えた。

「何だ」

「野洲川の秣場にて、草津の馬方と近隣の村の者が鎌を持って争いましてございます。双方に手傷を負った者、合わせて六名。うち一人は腕の傷が深く、当分は働けぬとのことにございます」

 信長の指が、絵図面の上で止まった。

「草か」

「はい。馬を休ませるようになりましてより、飼葉の要り用が倍近くに増えました。近江一帯の秣の相場が、すでに三倍近くまで跳ね上がっております」

 勝家が膝を進めた。扇子を握る手に力がこもっている。

「上様。百姓風情が公儀の馬方に刃を向けるなど、断じて捨て置けませぬ。首謀の者を引き出し、川原にて首を刎ね、見せしめといたしましょう」

 信長は絵図面を見つめたまま、静かに言った。

「百姓を斬って、草が生えるか」

 勝家の扇子を握る手が止まった。返す言葉が見つからぬまま、口を閉ざした。

 信長は続けた。声に高ぶりはなかった。

「首を刎ねれば、村の者は夜のうちに火を放ち、草を根こそぎ焼き払うだけであろう。……割に合わぬ」


 書院に、しばしの沈黙が落ちた。障子の外で、夏の終わりの蝉が鳴いている。

 光秀が、それまで黙していた口を開いた。声は静かであった。

「殿。あの川原は、村にとってはただの草地ではございませぬ。祖父の代より、どの家がどこを刈るか、順まで定めて守ってきた場にございます」

「掟の話は分かっておる」

 信長は顔を上げぬまま答えた。

「掟を守れと言えば、馬が死ぬ。馬を生かせと言えば、掟が破れる。ならば、両方に分けて渡すしかあるまい」

 光秀はそれ以上何も言わなかった。ただ、信長が絵図面に線を引く様子を、じっと見つめていた。

 信長は絵図面に描かれた野洲川の一筋を、指でゆっくりとなぞった。

「長秀。川原の広さは、いかほどある」

「この辺りの川原一帯で、半里ほどにございます」

「宿の馬は何頭だ」

「草津・大津合わせて、四十頭ほどにございます」

 信長はしばらく黙っていた。それから筆を執り、絵図面の川原の脇に線を一本引いた。

「川原を上流と下流とに分けよ。上流の半分は宿場の馬に草を刈らせる場とし、下流の半分は村の牛馬のために残せ。荷の少ない日は、草を刈って運ぶな。馬をそのまま川原へ引いていき、土手で直に食わせよ」

 長秀が筆を走らせながら問うた。

「境目には、いかがいたしましょう」

「杭を打て。曖昧にしておくから、また揉める」


 数日のうちに、川原の真ん中には白木の杭が等間隔に打ち込まれた。上流には草津の馬方が、下流には村の百姓が、互いに杭を越えぬよう鎌を動かした。荷の少ない日には、馬方が馬の手綱を引いて川原まで連れてくる姿も見られるようになった。馬は土手の草を直に食み、時折顔を上げては、対岸の村の牛が同じように草を食んでいる様子を眺めていた。

 流血は、ひとまず収まった。手傷を負った者たちの傷も、日を追うごとに塞がっていった。

 馬方たちは日に一度、馬を引いて上流の杭のところまで来ては、土手に馬を放ち、対岸の下流で草を刈る村の者たちの姿を遠目に眺めるようになった。互いに言葉を交わすことはなかったが、鎌を振るう音と、馬の草を食む音とが、同じ川の両岸で規則正しく続くようになった。ある朝、馬方の一人が、境の杭のすぐ手前で草を刈っていた村の女に頭を下げると、女もまた小さく頭を下げ返した。それだけのことであったが、川原の緊張は、その日を境にわずかにやわらいだ。


 三日後の朝、杭の一本が少し斜めに傾いているのを、馬方が見つけた。根元の土が掘り返されている。誰かが夜のうちに動かしたらしい。馬方は杭を真っ直ぐに打ち直し、何も言わずに鎌を取った。対岸でも、同じように杭を直している百姓の姿が見えた。互いに目を合わせることはなかった。

 その夜、川原の杭の影が長く伸びていた。風が葦の葉を揺らし、乾いた音を立てる。誰かが杭の傍らに置いた小さな草の束が、露に濡れて光っていた。


 だが、草津の会所では、別の数字が問屋頭を悩ませていた。

 夕暮れ、会所の帳場。問屋頭は算盤を置き、帳面の数字を何度も見返した。飼葉の相場は依然として高いままであった。境が引かれても、草の総量そのものが増えたわけではない。宿場が買い付ける秣の値は、平年の二倍半から三倍のあたりで据え置かれたままであった。

「草は、確かに手に入った……」

 問屋頭は、算盤の珠をもう一度弾いた。何度弾いても、答えは変わらなかった。灯心が揺れ、帳面の墨の数字が影の中で滲んで見えた。

 草代だけではない。手傷を負った馬方への薬代、しばらく働けぬ間の手当て、境を守るために新たに雇った見張りの駄賃。ひとつひとつは小さな出費であったが、重ねていくと帳面の欄を埋め尽くし、月の終わりには宿場の蔵に残る銭の目方が、以前の半分にも満たなくなっていた。

「馬も、飢えずに済もう。……だが、この値では、宿がもたぬ」

 傍らに控えていた若い手代が、恐る恐る問うた。

「殿へは、いかがお伝えいたしましょう」

 問屋頭はしばらく黙っていた。灯心の火が、風もないのにわずかに揺れた。それから、疲れた声で答えた。

「ありのままを書け。草は取れた。銭が、消えた、とな」

 手代が筆を執り、帳面に文字を連ねていく。その筆の音だけが、夜更けの会所に長く残っていた。厩の方から、馬の穏やかな息遣いが、いつもと変わらぬ調子で聞こえてくる。馬は何も知らぬまま、静かに草を食んでいた。


 同じ頃、安土城書院にも、川原からの小さな知らせが届いていた。

 夜のうちに、別の村の百姓が数名、境の杭を二本引き抜いたという。理由を問われると、その百姓は「なぜ隣の村の分だけ残り、うちの持ち場は狭いのか」とだけ答えたという。

 長秀がその文を差し出したが、信長は何も言わなかった。文を一度だけ目で追い、それから絵図面の上へ視線を戻した。

「境は、また抜かれるか」

 誰へ問うともつかぬ呟きであった。長秀も勝家も、答えを持たなかった。

 信長は、広げられたままの絵図面の上、野洲川の秣場の脇に、小さくもう一つ、朱の点を書き足した。馬の点、人足の点、そして草の点。三つの朱が、同じ川筋の上に並んでいる。

 障子の外では、秋の気配を含んだ風が、日暮れの庭を静かに渡っていた。信長の筆は、その点を書き終えると、しばらくの間、紙の上で動かなかった。

 その夜、草津の会所では、依然として厩の馬が静かに飼葉を食んでいた。傷を負った者たちの晒しも、日ごとに白さを取り戻しつつあった。ただ、赤くなった帳面の数字だけが、誰の傷よりも長く癒えぬまま、宿場の隅にひっそりと残されていた。川原では、引き抜かれた杭の跡に、まだ新しい土が盛り上げられたままであった。風が、その土を静かに乾かしていく。誰も、その跡を埋める者はいなかった。ただ、露だけがその土の上に降り続けていた。

 夜明け前の川原は、再び静かであった。だが、その静けさは、争いが終わったからではなかった。

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