第二百十話:人足逼迫
第二百十話:人足逼迫
大津宿の朝は、厩の方からだけ、穏やかであった。
役目を終えた馬が二十頭近く、藁の上に佇み、規則正しく飼葉を食んでいる。毛並みには艶が戻り、脇腹の骨の浮きも以前ほどではなかった。水を飲む音と、飼葉を噛む音が規則正しく続き、夏の朝の風が厩の藁の匂いを静かに運んでいた。馬のたてがみが朝の光にきらめき、息が穏やかに上がっている。だが、その厩の隣、会所の庭を見れば、光景はまるで違っていた。草津から届いたはずの荷車が十数台、縄も解かれぬまま、朝の光の中にただ黙って並んでいる。車軸に残った泥が乾き、荷縄は朝露に濡れて重くなっていた。俵の間から、腐りかけた青菜の匂いがかすかに立ち上り、蠅がその匂いに集まっていた。庭の土は昨夜の雨で湿り、人の足跡がところどころに残っている。足跡だけが、まだ新しかった。
荷車を引いてきた男が、その様子に苛立ち、問屋頭に詰め寄った。声は庭の端まで響いた。
「馬はおるではないか。なぜ積み替えぬ。荷は腐るぞ」
問屋頭は、庭の隅に敷かれた筵を黙って指差した。血の染みが幾つも黒く固まっている。手拭いを絞った水が昨夜のうちに赤黒く滲んだまま乾ききっていた。筵の端には剥けた肩の皮が泥と一緒に張り付いている。蠅がその上にも止まっていた。
「担ぐ人足が、おらぬのじゃ」
問屋頭の声には力がなかった。疲れきった目で積まれた荷車を見つめながら続ける。
「昨日だけで十人が倒れた。二十人が肩を痛めて動けなくなり、十人が担ぎ場を離れた。残った者も肩の皮が剥け、傷が膿み始めておる。……馬はおる。馬は息災じゃ。だが、馬は自分で荷を背負えぬ。人が立たねば、一歩も先へは送れぬ」
道はある。馬もいる。それでも荷は動かなかった。朝の光が積まれた俵の山に長く影を落とし、誰もがその影の下でただ立ち尽くしているだけであった。馬のいななきが厩の方から時折聞こえるが、庭の側では誰もそれに答えようとはしなかった。問屋頭は筵の血の染みをもう一度じっと見た。それからゆっくりと顔を上げ、ほとんど呟きに近い声で言った。
「人がおらぬ」
誰もその言葉に答えなかった。庭に積まれた荷車の影だけが、朝の光の中で静かに伸びていた。問屋頭は筵の端を拾い上げ、そっと畳んだ。血の染みが、指に付いた。
長秀は、その日のうちに代官を伴い、近江・蒲生の村々へと馬を走らせた。宿場の人足を補うため、村ごとに若者を五人ずつ、倍の駄賃で差し出すよう命じるつもりであった。馬を出せぬ村でも、人足ならば銭に動くかもしれぬ。馬より融通が利くはずだ——長秀はそう判断していた。だが、あぜ道に着くと、庄屋と百姓たちが泥にまみれた草取り爪を握りしめたまま行く手を塞いだ。田の水面にはすでに雑草が生え始め、若い苗の間を埋め尽くそうとしていた。風が吹くたび、草の葉が苗を押しのける音がする。水の中で蛙が鳴いていた。あぜの土は柔らかく、馬の蹄が深く沈む。
「滅相もございませぬ」
庄屋が震える声で言った。額に泥が付き、それでも顔を上げたまま長秀を見据える。声は震えていたが、言葉ははっきりしていた。
「今は田の草取りの真っ盛りにございます。この時期に三日、田を放り出せば、秋の稲はすべて雑草に呑まれてしまいまする。一俵の米も収穫できなくなりまする。冬になれば村の者が飢えるだけでございます。銭があっても米がなければ生きられませぬ」
代官が銭の包みを庄屋の前へ突きつけた。包みの中で銭が小さく鳴った。代官の声は高かった。
「倍の銭を出すと申しておるのだぞ。これで草取りの手間は補えよう。他の村から人を雇えばよいではないか」
庄屋は首を振った。銭の包みをじっと見据えたまま、ゆっくりと答える。声は低かったが、はっきりとしていた。
「銭をいただいても米は実りませぬ。冬になれば銭を食うわけには参りませぬ。……どうか、どうか、息子の腕だけは残してくだされ。この腕がなければ田は守れませぬ。村の者は皆、同じでございます」
傍らに立つ若者の母親であろう女が地面に膝をつき、額を土に擦りつけた。泥が顔に付き、それでも顔を上げようとはしなかった。周囲の百姓たちも草取り爪を握ったまま黙って長秀を見ている。誰も声を出さなかった。ただ田の水面に映る空が青く澄んでいるだけであった。長秀はそれ以上強くは出られなかった。銭の包みをそのまま懐に戻し、無言のまま馬首を返した。あぜ道を戻る馬の足取りは重かった。長秀の胸中には泥のような重さが残っていた。馬の蹄があぜの土を踏む音だけが長く続いていた。代官は何も言わなかった。ただ馬のたてがみを握りしめていた。風が吹き、田の水面に小さな波紋が広がっていた。長秀は、振り返らなかった。
安土城書院。夕刻、長秀は俯いたまま報告した。西日が障子を通し、畳の上に長い影を落としている。影の中で長秀の声は小さく響いた。帳面を開いたまま持つ手がわずかに震えている。
「殿。銭を積んでも百姓は田を離れませぬ。無理に集めた者も、宿場に寝かせる寝床も食わせる握り飯も足りず、夜のうちに幾人も逃げ出しておりまする。残った者も田のことが気になって力が出ぬと申しております。宿場の人足は増えるどころか、減り続けております」
勝家が膝を進めた。扇子を握る手がわずかに震えていた。声には苛立ちが混じっている。
「上様の下知であるぞと、軍役として割り当てればよろしい。各村から若者を差し出せば足りましょう」
信長は顔を上げなかった。絵図面から目を離さぬまま静かに言った。声は低かったがはっきりと聞こえた。
「軍役で田が荒れれば、秋に誰が米を食うのだ」
勝家は口を閉ざした。扇子を握る手が止まった。信長の声には怒りも蔑みもなかった。ただ勝家の言葉を算盤で弾くように冷たく退けただけであった。
「力で脅せば人が二人分働くとでも思うておるのか。割に合わぬわ」
勝家はなおも食い下がろうとして、言葉を継いだ。
「従わぬなら、見せしめも必要でございましょう」
信長は答えなかった。ただ絵図面を見つめたまま、わずかに首を横に振った。書院にしばしの沈黙が落ちた。障子の外では蝉の声がなおも続いている。西日が障子紙を赤く染め、その色が畳の上にゆっくりと広がっていた。信長の影が絵図面の上に落ちている。長秀は帳面を閉じた。墨の匂いがかすかに残っていた。
信長は絵図面を見つめたまま、長秀に問うた。指が絵図面の上をゆっくりと動く。
「長秀。人足は、どこで潰れておる」
「は……」
「草津から大津。大津から山崎。人が倒れるのは、どの道筋だ」
長秀は帳面をめくった。墨の跡が指に触れる。数字が並んでいる。ページの端がわずかに破れている。
「逢坂の関の登り坂、ならびに山崎の渡し場の手前にございます。荷車を押し上げる際と、船から荷を陸へ担ぎ上げる際に、腰と肩を痛めて倒れておりまする。平地ではそこまで多くはございませぬ。坂と水際で人が潰れております」
信長は絵図面の逢坂の一点と山崎の渡し場の一点を指で軽く叩いた。それ以外の道筋には何も記さなかった。指の動きは静かで確かであった。絵図面の上に朱の墨がまだ乾ききっていない線が残っている。信長はその線をしばらく見つめていた。それから筆を執った。
「明日より、平坦な道では人に担がせるな。荷車を引かせよ」
朱の墨が紙の上に沈む。筆の動きは迷わなかった。
「背負わせるより車に乗せて引かせる方が、人の力は三倍保つ。急坂と山越えのみに馬を使え。平地で無理に使うな。坂で人を潰すな」
長秀はそれを書き留めながらなおも問うた。筆が紙の上で止まる。声には不安が混じっていた。
「荷の量そのものが多うございます。それは、いかに」
「荷に印をつけよ」
信長は続けた。声に迷いの色はなかったが、確信の張りもない。ただ目の前の詰まりを一つずつ解こうとしているだけであった。
「腐る青菜と塩は先に送れ。材木や瓦は急がぬ。日を分けて運ばせよ。一度にすべてを運ぼうとするから人が潰れるのだ。急ぐものと急がぬものを分けよ。人の力を無駄に使うな」
翌日から大津の会所には荷車が持ち込まれた。二人の人足が車の轅を握り、数俵の米を載せて引いていく。以前ならば一人が一俵を肩に担ぎ幾度も往復していた道であった。車軸が軋む音が以前の怒鳴り声に代わって庭に響いている。逢坂の急な坂には元気な馬が待機し、車ごと荷を引き上げる役目を負った。馬の息が坂の途中で白く上がる。だが人足の肩は以前ほどには擦り切れなくなっていた。荷の選り分けも始まった。青菜と塩の荷札には朱の丸が付けられ、他の荷より先に馬へと渡されていく。材木や瓦を積んだ荷車は会所の隅に寄せられ、日を分けて送られることとなった。
七日を経て、大津の庭に積まれていた荷車の山は目に見えて減っていった。井戸端に並んでいた傷を洗う人足の列も以前より短くなった。長秀はその様子を見て安堵の息を吐いた。会所の屋根の上に夕焼けが赤く広がり、その色を庭に残った俵の山が静かに受け止めていた。馬のいななきが厩の方から聞こえる。人足たちの間に短い会話が戻ってきていた。誰かが車の轅を握りながら小さく笑った。井戸端の水が以前ほどには赤く染まらなくなっていた。
荷車の脇では、人足の一人が切れた草鞋の鼻緒を結び直していた。昨年なら肩に担いでいた荷である。今は車が運ぶ。だが草鞋だけは、相変わらず擦り切れる。別の男が握り飯を頰張りながら、傷に塩を塗っていた。塩が染みるたびに顔をしかめ、それでも黙って布を巻き直す。車軸に油を差す音が、庭の端まで響いていた。
逢坂の坂下では、馬方の男が手綱を握ったまま、荷車の列を数えていた。以前は昼まで暇だった。今は休む間もなく呼ばれる。馬の首を撫でながら、次の荷を待つ。
厩では、厩番が空になった草束を見下ろし、独り言のように呟いた。
「最近は馬がよく食うな」
草束の影が、夕方の光の中で長く伸びていた。
夕暮れの井戸端で、肩に布を巻いた人足が、手を水に浸けたまま呟いた。布の下から、まだ赤く腫れた傷が覗いている。水が、布の端を濡らしていた。
「昨日までは、荷を担ぐだけで精一杯だった。今日は荷車がある。肩は少し楽になった」
隣の男が、布を締め直しながら答える。声は低く、乾いていた。
「だが今度は、馬の草が足りぬと言うておる。秣場で村の者と鎌を構え合うそうだ。宿場の馬が増えた分、草が足りぬと。鎌を構えた者が、すでに傷を負ったとも聞く」
最初の男は、手を水から上げ、じっと掌を見た。傷はまだ乾ききっていない。水滴が、指の間を落ちる。
「人が助かれば、馬が食う。馬が食えば、草が足りぬ。……次は、何が足りなくなるのだ」
誰も、それに答えなかった。井戸の水面に、夕焼けが赤く映っていた。風が吹き、水面に小さな波紋が広がる。人足たちは、ただ黙って手を洗い続けていた。肩の布を巻き直す音だけが、静かに続いていた。遠くで、馬のいななきが聞こえた。
だが、その安堵は長くは続かなかった。
その日の夕刻、書院に草津と大津の問屋頭からの連名の文が届いた。長秀がその文を開き、眉をひそめた。紙の端がわずかに震えている。墨の跡が乱れている。文の端には問屋頭の乱れた筆で「秣場の争い、止まらず」と添えられていた。
「……殿」
信長が絵図面から顔を上げた。西日が信長の横顔を赤く染めていた。
「何だ」
「人足を救うために坂道で馬を用い、各宿場で馬の稼働を増やしましたところ……今度は馬の食う飼葉の消費が跳ね上がっておりまする」
長秀は声を落とした。帳面を開いたまま続ける。声はほとんど聞こえないほど小さかった。
「近江と美濃の秣場にて……草の刈り取りを巡り、宿場と近隣の村との間で鎌を手にした小競り合いが始まっているとのことにございます。村の者は自分たちの牛馬の飼葉が足りぬと申しておりまする。宿場の馬が増えた分、草が足りぬと。鎌を構えた者がすでに数人、傷を負っております」
信長は絵図面の上に置いていた筆を静かに置いた。人を救えば、草が足りぬ。書院の外では夏の西日が赤黒く安土の山を焦がしていた。信長はそれ以上何も言わなかった。ただ絵図面の上、逢坂と山崎の点の脇に小さくもう一つの印を書き加えた。誰もそれに答える言葉を持たなかった。蝉の声だけが障子の外でなおも続いていた。




