↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
209/226

第二百九話:継立拡張

第二百九話:継立拡張


 草津・大津の継立を試みてより十日、長秀が安土城書院に持ち込んだ帳面には、日を追うごとに小さくなっていく数字が並んでいた。書院に差し込む夏の朝の光が、帳面の墨の跡を、くっきりと浮かび上がらせていた。

「草津の残荷、初日三百八十七。二日目、二百四十一。三日目、百三十八。今朝は、七十二にございます」

 勝家が、その数字を覗き込み、思わず膝を打った。扇子を持つ手が、興奮を隠しきれぬように、小刻みに揺れていた。

「殿、効いておりますぞ。日に日に、詰まりが解けておりまする」

 信長は、それには応えなかった。絵図面の草津の点を、指の腹でひとしきりなぞってから、静かに問うた。

「大津は」

「大津も、同じく減じておりまする。荷車の連なりも、以前ほどではないと」

「山崎は」


 長秀の口が、そこで止まった。数字を、まだ持ち合わせていなかった。

「……確かめておりませぬ」

「確かめよ」

 信長の声は、責める調子ではなかった。ただ、抜け落ちた一手を、静かに指し示しただけであった。長秀は、その日のうちに、山崎宿へ人をやった。戻ってきた文には、草津や大津とは、まるで逆の数字が記されていた。山崎の会所には、荷が届く数に対し、次へ送り出す馬が、日ごとに足りなくなっていた。差引は、日に日に膨らみ、庭に積まれた俵が、街道の脇にまではみ出し始めているという。文の端には、山崎の問屋頭の乱れた筆で、これ以上は受けきれぬ、という一言が添えられていた。


「……草津が速くなれば、大津が詰まる。大津が抜ければ、山崎が詰まる」

 信長は、絵図面の三つの点を、順に指でなぞった。草津から大津へ。大津から山崎へ。線は、まだどこにも引かれていなかったが、信長の指の動きだけが、その先を辿っていた。

「一区間だけ直しても、詰まりは消えぬ。ただ、次へ、次へと、送られていくだけだ」

 勝家が、口を挟んだ。

「では、どうなさいます」

「山崎までだ」

 信長は、それだけ言うと、絵図面に朱の筆を入れた。草津から大津。大津から山崎。二本の線が、初めて絵図面の上に、続けて引かれた。

「大津から山崎までも、同じように渡せ。荷は、着いたその日のうちに、次の馬へ渡す。草津で作った型を、大津にも山崎にも、そのまま持っていけ」


 長秀は、深く頭を下げた。文机の隅に置かれた墨壺の蓋が、静かに閉じられたままであった。

「されど殿、草津の型を、そのまま山崎に当てはめて、うまく参りましょうか」

「分からぬ。それゆえ、やってみるのだ」

 信長の声には、確信の張りがなかった。前へ進めと命じてはいるが、その先に何があるかを、見通しているわけではなかった。長秀は、その手探りの調子に、かえって落ち着かぬものを覚えながらも、書院を辞し、大津と山崎へと馬を走らせた。夏の日差しが照りつける街道を、長秀を乗せた馬が、砂埃を上げながら駆けていった。


 大津の会所では、初日から、混乱が続いた。

 山崎の馬方が、草津から回されてきた帳面を睨みつけ、苛立たしげに声を上げた。

「この字は、なんだ。読めぬぞ」

「草津の書式だ。まだ揃うておらぬのだ」

 大津の問屋頭が、間に立って、なだめるように答える。荷縄の結び方も、宿場ごとに違っていた。草津式の結びを、山崎の馬方が解こうとして、指を挟み、舌打ちをする場面が、幾度もあった。四半刻で済むはずの積み替えが、半刻近くかかる日が、なお続いていた。荷主の商人たちは、会所の隅で、いつまで待たされるのかと、苛立たしげに空を見上げていた。


 馬方の一人が、荷車の傍らで、ぼやいた。

「草津の連中は、こちらの都合も聞かず、次から次へと荷を寄越しよる」

「大津も、山崎も、同じことを言うておるわ」

 別の馬方が、投げやりに応じた。誰もが、隣の宿場を恨みながら、それでも荷を受け取り続けるほかなかった。会所の帳面係は、慣れぬ書式に手間取り、幾度も筆を止めては、隣の者に問いかけていた。荷車の車軸が軋む音と、馬方たちの苛立った怒鳴り声が、会所の庭に、絶え間なく響いていた。


 七日目になっても、大津の庭に積み上がった荷車は、完全には捌けなかった。山崎の馬は、大津まで引いてきても、すぐに戻れるとは限らず、日が暮れてから戻る者もいた。街道で泡を吹いて倒れる馬は、この三つの宿場を合わせても、数日に一頭出るかどうかまでに減っていた。だが、その減り方は、まだ「安定した」と言えるほどのものではなかった。馬の息は以前より落ち着いている。しかし、人の息は、ますます荒くなっていた。積み替えの合間に地面に座り込む人足の数が、目に見えて増えていた。


 夕刻、俵を担ぎ上げようとした若い人足が、突然膝を折った。誰も驚かなかった。疲れれば転ぶことは珍しいことではなく、ただその場で肩を揺すり、「おい、起きろ」と声をかけ、返事がなければ頬を叩く。ようやく目を開いた男は、「……寝ておった」とだけ答えたが、寝ていたのではない。荷を担ぎ続けた末に、立ったまま気を失っていたのである。周囲の者たちは顔を見合わせ、誰も笑わず、次は自分かもしれぬという思いだけが、静かに広がっていた。男は起き上がろうとして、また膝をつき、ゆっくりと立ち上がると、肩の皮が剥けたまま、次の俵に手を伸ばした。その背中を見送る者たちの間に、言葉はなかった。


 厩の様子も、変わりつつあった。草津の厩でも、大津の厩でも、役目を終えた馬たちが、静かに飼葉を食んでいる姿が増えていた。水を飲む音、飼葉を噛む音が、規則正しく続き、夏の夜風が厩の藁の匂いを静かに運んでいた。以前は荒い息を吐いて地面に伏せる馬の姿があちこちにあったが、今はそうした姿を探す方が難しくなりつつある。厩番の男が桶に水を汲みながら、独り言のように呟いた。

「この頃は、夜中に馬の様子を見にいっても、皆ぐっすり眠っておる。前は、幾晩も眠らずに看ておったものだが」

 馬たちの毛並みにも艶が戻り始め、以前は骨の浮いていた脇腹が、少しずつふっくらとした膨らみを取り戻している。厩番は馬の背を撫でながら、さらに言った。

「この頃は汗の乾き方が違う」

 馬は荷を渡せば休める。水も飲める。夜も眠れる。だが人足には継ぎ替えがなかった。荷が着けば立ち上がり、縄を解き、担ぎ、渡し、また次が来る。その繰り返しだけが、彼らの日々を埋め尽くしていた。休む間もなく担ぎ、馬が一息つける場所に、人足には息をつく場所がなかった。その差は、日を追うごとに、会所の空気そのものを変えていた。


 だが、厩の裏手には、別の光景があった。荷を担ぎ、縄を解き、俵を別の馬へと積み替える人足たちが、日が沈む頃には地面に座り込んだまま、立ち上がれなくなっていた。一人の若い人足が、泥にまみれた手拭いを桶の水に浸し、絞ると赤黒く滲んだ水が桶の中へ広がっていく。肩の皮が荷縄に擦れて剥け、血がにじみ、傷口に土が入り、赤黒い斑点を作っている。

「……まだ、あるのか」

 誰へともなく呟く声に、「次が来たぞ」と疲れきった返事が返る。荷車がまた一台、会所の前に止まり、休む間もなく次の縄を解かねばならなかった。

「馬は、代わりの馬に渡せば済む。だが、わしらの代わりは、どこにもおらぬ」

 その声には、恨みでも怒りでもない、ただ乾ききった疲労だけがあった。


 年嵩の人足が一人、地面に胡座をかいたまま足を投げ出していた。足首が赤く腫れ上がり、腫れは膝まで及び、歩くたびに痛みが走ると顔をしかめながらも、次の荷へ手を伸ばさねばならなかった。米俵を担いで荷車から荷車へと幾度も往復した末である。

「若い頃は、これしきの荷、朝から晩まで担いでも、何ともなかったものだが」

「今は、朝から晩まで、休む間もなくだからな」

 誰かがそう応じる声は力なく、会所の隅では井戸端に列を作り、順に手や足を水で冷やす人足たちの姿があった。冷たい水に浸けた途端に痛みに顔をしかめる者もいれば、そのまま黙って項垂れる者もいた。肩の皮が剥けた者、指の関節が腫れた者、腰を押さえながら立っている者。夕暮れの光の中、その列は日ごとに長くなっているように見え、ある日の暮れには二十人を超え、井戸の水が濁るほどに血と泥が混じっていた。その傍らを、荷を積んだ馬が一頭、静かに通り過ぎていく。馬の足取りには以前のような疲弊の色はなく、むしろ以前より幾分か余裕すら感じられた。人足たちは、その馬の背をただ黙って見送るしかなかった。誰かが、低く笑うでもなく呟いた。

「馬は、良い時代になったものだ」

 夕焼けだけが、黙ってその声を受けていた。会所の屋根の上に夕焼けが赤く広がり、その色を、井戸端に並んだ人足たちの疲れきった背中が、静かに受け止めていた。


 その日の夜、一人の人足が荷札を外し、黙って会所を去った。呼び止める者はいなかった。翌朝になると、もう二人いなくなっていた。寝藁は残っていた。茶碗も残っていた。荷縄だけが持ち去られていた。問屋頭は帳面の端に「逃散三名」とだけ書き、理由を記す必要はなかった。皆、知っていた。


 十日を経て、長秀が再び安土城書院に帳面を持ち込んだ。夕刻の書院には西日が差し込み、畳の上に長い影を落としていた。

「殿。草津、大津、山崎、三宿にわたり、継立は、ひとまず回り始めましてございます。倒れた馬は、この十日で、三宿合わせて二頭のみ。荷の着く刻限も、以前より、大きく縮まりましてございます」

 勝家が満足げに頷いた。

「見事ではないか。草津の残荷など、初日の十分の一にも満たぬ」

 信長はそれには応えず、帳面の頁を無言でめくり続けていた。指が末尾の一行で止まり、細く震えた筆致でこう記されていた。

「本日、荷積み人足、足腰の痛みに耐えかね倒るる者七名。荷役を放棄し逃散する者三名。翌日出仕不能十二名。代人の手配、未だ叶わず。会所裏井戸にて傷洗う者二十三名。明日の人足、目処立ち申さず候」


 書院に沈黙が落ちた。障子の外では蝉の声がなおも絶え間なく続いていた。長秀がその一行を見て息を呑んだ。

「殿……」

「読め」

 信長の声は低く、短かった。長秀はその一行を、震える声であらためて読み上げた。倒れた者七名。逃げ出した者三名。翌日出仕不能十二名。代人の手配、未だ叶わず。会所裏井戸にて傷洗う者二十三名。明日、積み替えを担う人足の目処が立っていない。読み上げる声が次第に小さくなっていった。


 勝家の顔から先ほどの満足げな色が静かに消えていった。腕を組んだまま口を開くこともできずにいた。光秀は何も言わなかった。だがその顔には、これまでとは違う色が浮かんでいた。馬が救われたことに安堵しかけていた矢先であった。その安堵の裏で、人の肩が擦り切れていたのだ。壊すことも、渡すことも、光秀にとってはこれまで殿の下す理として疑いなく受け止めてきたものであった。だが今、目の前にある帳面の一行は、その理が決して無傷では済まないことを、静かに突きつけていた。馬の代わりは隣の宿場の馬に渡せば済む。だが人足の代わりは、どこからも湧いて出るものではなかった。壊すのではなく、渡すことを選んだこの理は、一つの傷口を塞ぐたびに、別の場所から血を滲ませていた。


 信長は絵図面へと目を戻した。草津。大津。山崎。三つの点に朱の線が引かれている。以前は荷車の数と馬の斃死だけをそこに見ていた。今は、その線の上を人足たちが肩に荷を担いで行き来している姿までもが、見えるようであった。人足を休ませれば、その日のうちに積み替えは滞る。人足を増やせば、明日には食う米が足りなくなる。近隣の村から人を集めれば、田畑を耕す手が減る。答えはまだ、どこにも見えていなかった。信長の指先が、絵図面の上でわずかに止まったまま、動かなくなった。


「……馬の次は」

 信長は絵図面から目を離さぬまま、低く呟いた。

「人か」


 誰も答えなかった。

 書院の外では、蝉が鳴いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。