第二百十二話:伝馬銭改
第二百十二話:伝馬銭改
草津の会所の夜は、算盤の音だけで更けていった。
問屋頭は帳面を灯心の下に寄せ、指先で珠を弾いていた。珠の触れ合う音が、しん、と静まり返った会所の板間に規則正しく響く。傍らでは手代が墨を磨りながら、その音の続く限り、じっと問屋頭の横顔を見つめていた。窓の外では、宵闇に紛れて虫の音がかすかに聞こえていた。
飼葉代の欄に朱で引かれた線が、何本も重なっている。ひと月前まで一束八文であった秣が、今は三十文に届こうという値で買い付けられていた。厩の馬は四十頭を下らない。一日にそれぞれが四束、五束と食う。積み上げれば、月の飼葉代だけで以前の三倍を優に超える額になっていた。
それだけではない。川原の争いで手傷を負った馬方への薬代と、働けぬ間の手当て。境の杭を見張るために新たに雇った者への駄賃。ひとつひとつは、帳面の隅に小さく記される程度の額であった。だが、それらを一枚一枚積み重ねていくと、月の終わりに残るはずの黒字は跡形もなく消え、代わりに朱で「不足」と書かれた数字だけが、帳面の最後の行に残った。
「……おかしい」
問屋頭は算盤を置き、もう一度、帳面の最初の行から目を通し直した。去年の同じ月と比べれば、荷の数は増えている。馬も、流血の後の境の取り決めのおかげで、今は落ち着いて飼葉を食んでいる。何もかもが、以前よりは良くなっているはずであった。
それなのに、蔵の銭だけが、日を追うごとに軽くなっていく。
「荷は増えた。馬も生きた。……なのに、銭が残らぬ」
手代が、恐る恐る口を開いた。
「大津も、山崎も、同じことを申しておりまする。今朝方、文が届きましてございます」
問屋頭はその文を受け取り、封を切った。指先が、封の紙を裂く音だけがしばらく響いた。大津の問屋頭の乱れた筆で、「人馬は息災に候えども、蔵蓄すでに尽き、このままにては年明けを待たず難儀仕るべく候」と記されている。山崎からも、似たような文言の文が届いていた。一軒だけの困窮ではなかった。近江街道筋の宿場が、そろって同じ穴に落ちようとしていた。
問屋頭は、二通の文を並べて灯心の下に置いた。筆跡は違えど、書かれている中身はほとんど同じであった。荷は増えた。馬は保った。だが銭が保たぬ。三宿とも、判で押したように同じ結びであった。
「……こう揃って同じことを申すとは」
問屋頭は、灯心の炎をしばらく見つめていた。ひとつの宿場だけの不手際ではない。何か、仕組みそのものが歪んでいるのだという予感が、胸の奥に重く沈んだ。手代は、それ以上何も言わず、墨をすり続けた。硯の中で墨がゆっくりと溶け、暗い水面に灯心の光が細く映り込んでいた。夜が更けるにつれ、灯心の油もまた、少しずつ減っていった。
夕刻、安土城書院に、三宿から届いた帳面が並べられた。長秀がそれを一冊ずつ開き、朱の数字を指でなぞりながら読み上げていく。声は低く、乾いていた。
「草津、月の不足七十貫。大津、六十五貫。山崎、五十貫近く。合わせて……およそ二百貫近くの穴にございます」
信長は腕を組み、絵図面ではなく帳面の朱に目を落としていた。
「草は取れたのであろう」
「はい。境を分けましたゆえ、流血は治まりました」
「なら何故だ」
長秀は言葉を選びながら答えた。
「秣の相場が下がっておりませぬ。馬を休ませる形が定着した分、飼葉の要り用そのものが、以前より恒常に増えたままにございます。それを買い続けねば馬は保てませぬ。宿場の実入りだけでは、とても賄いきれませぬ」
勝家が扇子を握りしめたまま、膝を進めた。
「ならば、駄賃を上げればよろしかろう。草津も大津も山崎も、みな一律に値を釣り上げよ。三宿すべてが同じ値であれば、商人とてどこにも逃げ場はあるまい」
長秀は帳面を見つめたまま、首を振った。
「一律に上げれば、確かに商人は道を変えられませぬ。されど、軽くて値の張る荷ならばまだしも、材木や瓦のように、もとより運賃で利の薄い重荷は、値を上げた途端に運ぶだけ損になりましょう。あの荷が止まれば、今度は町屋の普請そのものが立ち行かなくなりまする」
勝家は扇子を握る手を止めた。米や絹だけを思い描いていた頭の中に、材木や瓦といった、これまで数えたこともない荷の重さが割り込んできた。それ以上、言葉が続かなかった。
書院にしばしの沈黙が落ちた。西日が障子を赤く染め、朱で書かれた帳面の数字が、その光の中でいっそう濃く浮かび上がって見えた。
長秀は、控えめに膝を進めて口を開いた。
「殿。安土の蔵より、月に二百貫ほどを補い、急場をしのがれてはいかがでございましょう。宿駅が潰れれば、道そのものが止まりまする」
信長は帳面を閉じた。指先が、閉じた表紙の上でしばらく止まっていた。
「蔵から出すな」
短い一言であった。長秀が顔を上げる。
「されど、殿……」
「この一月、堺や京の荷主どもの実入りは、どうなっておる」
長秀は帳面をめくり、別の頁を示した。
「荷の数は、以前の一倍半から二倍近くにまで増えておりまする。青菜も魚も途中で腐らず、絹も塩も濡れずに届きますれば、問屋どもの実入りは、これもまた増えております」
信長は、その数字をしばらく見つめていた。
「儲けておるのは、宿場ではなく、荷を運ばせておる商人どもであろう」
長秀は、はっとした顔で顔を上げた。
傍らに控えていた光秀が、静かに口を開いた。
「殿。道が整い、荷改めも消え、馬が倒れずに済むようになった分だけ、荷主どもはその恩をたっぷりと受けておりまする。恩を受けた者が、その分の礼すら払わぬのであれば、道はいずれ荒れ、誰も得をせぬことになりましょう」
信長はわずかにうなずいた。光秀の言葉を確かめるように、もう一度帳面へ目を落とす。
「蔵の銭は、儂の銭ではない。民から取り立てた銭よ。それを、道の維持のために際限なく注ぎ込み続ければ、いずれ蔵そのものが空になる。……宿場を、儂の銭で救うのではない。宿場が、己で銭を稼ぎ、己で馬を養う形にせねば、この道は長くは保たぬ」
信長は筆を執りかけ、そのまま止めた。
「駄賃を上げるといっても……すべての荷に等しく掛けてよいものか」
珍しく、迷いを含んだ声であった。長秀も光秀も、すぐには答えなかった。
やがて光秀が口を開いた。
「材木や瓦にまで重く掛ければ、勝家殿の申される通り、荷が止まりましょう。まずは、急ぎ腐りやすい荷だけに掛けてみては」
長秀もうなずいた。
「重荷にまで手を広げるのは、様子を見てからでも遅くはございませぬ」
信長はしばらく黙って帳面を見つめていた。それから、ようやく筆を紙に下ろした。声には高ぶりも焦りもなかった。ただ、目の前の穴を、どう埋めるかを算段しているだけの、平静な声であった。
「……よかろう。まずは急ぎの荷、腐りやすい荷にのみ、これまでより多く払わせよ。並の荷にも、いくらか上乗せせよ。重く安い荷は、当面はこれまでと変えるな。様子を見て、また改める」
長秀が筆を止め、恐る恐る問うた。
「上乗せは、いかほどに」
「急ぎの荷は五割。並の荷は二割。……それでどこまで穴が塞がるか、見てみるしかあるまい」
長秀は帳面にその数を書き付けながら、なおも半信半疑であった。荷主たちがそれで素直に払うものかどうか、確かめる術はまだどこにもなかった。
数日のうちに、草津の問屋場に新しい高札が立った。荷の種類ごとに定めた駄賃の一覧が、墨も鮮やかに記されている。急ぎの印を付けられた荷は、一宿につきこれまでより五割ほど多く払う。並の荷は二割ほどの上乗せ。材木や瓦のような、重くて値の張らぬ荷は、これまでと変わらぬ駄賃のまま据え置かれた。
高札の前に人だかりができた。堺から来た商人の名代が、荷札を手にしたまま、しばらくその文字を睨んでいた。
「五割増しとは……」
名代は懐から算盤を取り出し、指を素早く動かした。珠を弾く音が、乾いた土間に小さく響いた。青菜百俵を運ぶ荷であった。途中で馬が倒れ、荷が腐れば、その損は五貫文にも及ぶ。増える銭は、腐らせた時の損に比べれば取るに足らぬ額であった。
「……なるほど。腐らせるよりは、安いか」
名代は懐から銭を取り出し、問屋頭の前に置いた。
「払おう。荷が届かねば、元も子もないゆえな」
傍らでは、絹を商う別の名代が、同じ高札を見上げながら小さく舌打ちしていた。
「二割の上乗せか。以前ならば値切ろうものを」
それでも、算盤を弾く手は迷わなかった。濡れて色の落ちた絹一反の損を思えば、上乗せの銭など取るに足らぬ額であった。名代は不満げな顔のまま、それでも懐から銭を出し、問屋頭の帳面に自らの名を記させた。筆先が紙に触れる音だけが、しばらく土間に続いていた。
同じような光景が、その日のうちに何度も繰り返された。塩や絹、生魚を運ぶ商人たちは、口では文句を言いながらも、懐から素直に銭を出した。銭の触れ合う音が、問屋場の土間に絶えず響くようになった。厩の馬には、以前よりたっぷりと秣が盛られ、馬方たちの握り飯にも、久方ぶりに具が加えられた。宿場の帳場から、赤い朱の文字が、少しずつ黒く塗り替えられていった。
だが、問屋場の裏手には、別の光景があった。
荷車の轅に手をかけたまま、材木を積んだ商人が、いつまでも順を待たされていた。荷札には印がない。据え置きの駄賃のまま運ばれる荷は、馬方たちにとって、旨みの薄い仕事であった。急ぎの荷、割のいい荷が次々に運ばれていく脇で、材木の荷車だけが、幾日も土埃をかぶったまま庭の隅に据え置かれていた。
材木商は、四日目の朝、業を煮やして問屋頭に詰め寄った。
「なぜ、俺の荷ばかりがいつまでも動かぬのだ」
問屋頭は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すまねえ。今の駄賃では、馬方も割のいい荷ばかりを先に運びたがる。材木のように重くて銭にならぬ荷は、どうしても後回しになってしまう」
材木商の荷車の陰には、同じように順を待つ荷車がもう二台、日を跨いで停まっていた。一台には瓦、もう一台には薪が山と積まれている。荷主たちは互いに顔を見合わせ、誰からともなく舌打ちが漏れた。
「急ぎでもない荷だから待てと言うが、待たされる方はたまらん。船に積み替える手間賃も、こちらの持ち出しぞ」
瓦を積んだ荷主が、そう言って荷車の縄を締め直した。薪の荷主は何も言わず、荷車の脇に腰を下ろし、煙管をふかしていた。誰も答えを持たぬまま、日はゆっくりと傾いていった。
材木商はしばらく黙って荷車を見下ろしていた。それから、唾を土間に吐き捨て、手綱を握り直した。
「……これでは、商売になりゃせん」
それだけ言うと、荷車を引いて庭の外へと出ていった。瓦の荷主が、その背を見送りながら、誰へともなく小さく呟いた。
「……待っておれば、冬になってしまうぞ」
傍らの薪の荷主は、煙管の灰を落としただけで、何も答えなかった。問屋頭は、その呟きを聞いたか聞かなかったか、素振りにも出さぬまま、次の荷の帳面へと目を移していた。
夕暮れ、安土城書院。長秀が、久方ぶりに明るい声で報告に上がった。
「殿。宿場の赤字は、ほぼ収まりましてございます。人馬ともに息災に回り始めておりまする」
信長は、帳面の黒く塗り替えられた数字を、しばらく無言で見つめていた。表情に安堵はなかった。指先が、黒く戻った数字の列を、静かになぞっていく。
「材木は、どうなっておる」
長秀は一瞬、言葉に詰まった。
「……重い荷は、どうしても後回しになりましてございます。日数がかかっておるとの声も、いくつか」
信長はそれ以上問わなかった。絵図面に手を伸ばしかけ、しかし筆は執らなかった。ただ、何も書かぬまま、絵図面をゆっくりと巻いていった。長秀には、その視線の先に何があるのか、まだ分からなかった。
障子の外では、秋の気配を帯びた風が、夕暮れの庭の木々をかすかに揺らしていた。書院の灯火が、巻かれた絵図面の上に長い影を落としている。
同じ頃、草津の会所の裏手では、据え置かれたままの材木が、日暮れの薄闇の中に山となって残っていた。誰もその荷に触れる者はなく、夜露だけが、静かにその木肌を濡らしていった。厩の方からは、いつもと変わらぬ馬の穏やかな息遣いが、途切れることなく聞こえていた。馬は救われた。だが、止まり始めた荷があった。




