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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第二百七話:伝馬窒息

第二百七話:伝馬窒息


 安土城に、その日も帳面が届いた。草津宿の問屋頭が記したものであった。

「本日到着荷駄、二百七十六。出発荷駄、百九十三。差引、八十三」

 翌日の帳面には、こう記されていた。

「本日到着荷駄、二百五十一。出発荷駄、八十一。差引残、二百五十三」

 さらに翌日には、こう記されていた。

「差引残、三百八十六」

 数字は、日を追うごとに膨らんでいった。升のときも、銭のときも、荷改めのときも、道のときも、座のときも、障りは文の形で届き、数字の形で消えていった。だが今度の数字は、消えなかった。翌日も、その翌日も、ただ膨らみ続けた。長秀は、その数字を、幾度も見返した。差引の残は、増える一方であった。減った日は、一日もなかった。


 草津宿の会所では、問屋頭が、帳面を前に座り込んだまま動かなかった。会所の庭は、とうの昔に荷で埋まりきっていた。溢れ出した荷車は、宿場の表通りを埋め、旅籠の軒下を塞ぎ、街道の左右へ数町にわたって数珠つなぎに連なっていた。堺から、播磨から、近江から――道が広くなり、座がなくなったぶんだけ、荷は濁流のように押し寄せては、草津という細い堰にぶつかって澱んでいた。

 厩には、馬の姿がほとんどなかった。あるのは、荒い息を吐きながら地面に伏せた馬が、二頭。前脚の蹄は、擦り切れて血が滲んでいた。口の端には、白い泡がこびりついていた。馬方が水を含ませた布を口元にあてがっても、馬は舌を動かすだけで、水を飲む力さえ残っていなかった。馬方は、その傍らにしゃがみ込んだまま、泥にまみれた足を投げ出していた。三日、宿場から離れていなかった。

 馬の一頭は、夕刻になって、荒い息の間隔がしだいに長くなっていった。馬方は、その首筋を撫で続けていたが、やがて、息の音そのものが聞こえなくなった。馬の目が、なお開いたままであった。馬方は、しばらく手を止めたまま動かなかった。それから、静かに立ち上がると、問屋頭のもとへ歩いていった。何も言わず、ただ首を横に振った。問屋頭は、それだけで分かった。

 荷車の陰では、子を背負った女房が乳をやっていた。誰も、声を荒らげなかった。荒らげたところで、馬が増えるわけではないことを、皆が知っていた。

 荷車の一つには、播磨から運ばれてきた青菜の俵が積まれていた。二日、日にさらされ続けた俵の下から、饐えた匂いが漂い始めていた。荷主の女商人は、俵の縄を幾度も締め直したが、匂いは強くなるばかりであった。もう一日、この場に留め置かれれば、俵ごと捨てねばならなかった。女商人は、順番を待つ列の先を、何度も見遣った。列は、少しも動かなかった。荷車と荷車の隙間から、時折、蠅が飛び立った。


 そこへ、一騎の武者が駆け込んできた。汗にまみれた具足を鳴らしながら、馬から飛び降りる。息はすでに乱れ、鎧の下の小袖は、幾重にも汗で色を変えていた。懐には、油紙に包まれた書状が、しっかりと差し込まれていた。

「上様への急ぎの報せである。直ちに替え馬を二頭出せ」

 問屋頭は、地に額をつけた。

「馬が、おりませぬ」

「おらぬとは何事か。商人の荷駄馬がおるではないか。それを外して寄越せ」

 この文が半日遅れれば、己の首が飛ぶ。武者の声には、そう思わせるだけの余裕のなさがあった。だが、それは、問屋頭にも、息絶え絶えの馬にも、関わりのないことであった。

 武者は、鞭を振り上げた。問屋頭の肩に、鋭い音が響いた。荷車の脇にいた商人が、思わず腰を浮かせたが、誰も言葉を発しなかった。武者は、荷を降ろされたばかりの馬を無理やり引き出し、また鞍を載せた。馬は、荷を引いてきたばかりで、脚を震わせていた。武者はそれに構わず、鞭を入れた。馬は数歩よろめき、それから、駆け出した。荷を降ろされた荷車が、道の脇に、ぽつんと取り残された。荷主の商人は、その場に立ち尽くしたまま、遠ざかる馬の背を、ただ見送るしかなかった。

 馬の駆けていく音が、街道の先で、やがて聞こえなくなった。問屋頭は、その音が完全に消えるまで、顔を上げなかった。


 同じ頃、草津から一里ほど離れた村では、村役人が、庄屋の前で頭を下げていた。

「宿場より、馬の供出を命じられておりまする。二頭、お出しいただきたく」

 庄屋は、厩の前に立ちはだかった。

「代掻きが終わったばかりじゃ。この馬を取られては、秋の収穫が立ち行かぬ」

「されど、上様の御用にございます」

「上様の御用と申すが、この馬が倒れれば、米が実らぬ。先だっては、道を広げるとて田の真ん中を削られたばかりじゃ。残された細い畦で、この馬まで取られては、秋の年貢をどうやって納めろと仰るのか。米を納めるのも、上様の御用ではないのか」

 庄屋の声には、恨みも、驕りもなかった。ただ、土を耕す者の逃れられぬ算段を、そのまま並べただけであった。

 庄屋は、動かなかった。村役人も、それ以上は言えなかった。二人の間に、馬の鼻息だけが、しばらく響いていた。厩の奥では、老いた馬が一頭、藁の上に伏せたまま、こちらを見ていた。

 村役人が、肩を落として村を去ったあと、庄屋は、厩の前に座り込んだ。傍らに、村の若い衆が数人、集まってきていた。

「また来るぞ、あの手の遣いは」

「田を潰されてまで、道を広げた意味があるものか」

 若い衆の声は、誰に向けられたものでもなかった。だが、その声は、これまでの西国のどの障りにも聞かれなかった質のものであった。升のときも、座のときも、恨みを漏らしたのは、既得の座に座っていた者たちであった。今度、声を漏らしているのは、ただ田を耕し、馬を飼っていただけの、名もない者たちであった。銭で動かした道でも、法で解いた座でもなく、この不平だけは、誰の懐からも生まれた不平ではなかった。ただ、疲れから生まれた不平であった。


 その夜のうちに、同じ知らせが、大津からも、山崎からも、届いた。文面は違えど、書かれている中身は同じであった。馬が倒れる。人足が消える。荷車が動かぬ。


 安土城書院に、長秀、勝家、光秀が呼ばれた。長秀が、帳面を広げた。

「殿。草津、大津、山崎、いずれの宿場も、差引の残が増え続けております。この十日で、倒れた馬は、合わせて三十を超えました」

 長秀は、そこで一度、言葉を切った。

「一頭の馬が、隣の宿場まで荷を運ぶには、休みを挟んで、一日に二度が限りにございます。されど今は、一日に六度、七度と使い回されておりまする。三日保つ馬が、半日で潰れるのは、当然かと」

 信長は、絵図面を見つめたまま、しばらく口を開かなかった。

「馬を、買い集めよ」

 長秀が、首を横に振った。

「殿。近江・美濃・伊勢の馬市をすべて当たらせましたが、荷車の重みに耐えうる頑健な駄馬は、二十頭にも届きませぬ。農耕の牛馬を買い叩いても、轡に慣れておらず、たちまち脚を折るだけにございます。仔馬が荷を引けるようになるまで、二年はかかりまする」

 勝家が、続けて口を開いた。

「ならば、近隣の村々より、馬持ちの百姓に供出を命じましょう」

 長秀が、また首を横に振った。

「殿。代掻きに使うた馬は、まだ疲れが抜けておりませぬ。村から馬を取り上げれば、秋の収穫に障りが出ましょう」

 勝家は、なおも続けた。

「されば、軍馬を、しばし宿場へ回しましょう。戦のない今のうちなら」

「軍馬まで潰れれば、いざ合戦のとき、儂の下に馬が一頭も残らぬぞ」

 信長の声は、静かであったが、勝家はそれ以上言葉を継げなかった。

 光秀が、口を挟んだ。

「ならば、人足を増やしまする」

「人足は、集めても、宿場に泊まる場も、食わせる米も足りませぬ」

 今度、答えたのは信長自身であった。光秀は、それ以上、言葉を継がなかった。

 三人の案は、ことごとく退けられた。誰かが間違っているのではなかった。ただ、差し出せるものが、どこにもなかった。銭は、馬の齢を縮めなかった。法は、人の体を、二人分にはしなかった。

 長秀は、懐から、もう一枚の帳面を取り出した。

「殿。今の荷の流れを、詰まりなく捌くには、都合百二十頭が要り用と、算じましてございます。されど、市場の在庫は、今この時、二十頭に足りませぬ」

 その数字を、誰も口にしなかった。百二十頭要るところに、二十頭しかない。銭を積めば埋まる差と、銭を積んでも埋まらぬ差とがあることを、書院にいる誰もが、この日、初めて数字で思い知った。


 信長は、しばらくして、口を開いた。

「ひとまず、朱印なき者の伝馬使用を禁ずる。急ぎの用であろうと、儂の印なき文は、宿場の馬に触れさせるな」

 長秀が、深く頭を下げた。だが、その手当てが、差引残三百八十六という数字を、明日すぐさま消し去るものではないことを、書院にいる誰もが分かっていた。焼け石に水であることを、命じた信長自身が、誰よりも分かっていた。

「それだけでは、足りぬこともあろう」

 信長は、それだけを付け加えると、また黙り込んだ。


 書院に、沈黙が落ちた。これまでの沈黙とは、違う質の沈黙であった。升のとき、銭のとき、荷改めのとき、道のとき、座のとき――信長は、沈黙のあとに、必ず何かを差し出してきた。銭を積み、木札を取り上げ、法を布いた。今度の沈黙には、差し出しきれぬものが、まだ残っていた。馬は、銭で増えなかった。人は、命じても、体の限りを超えては動かなかった。

 信長は、絵図面の上に置いていた手を、動かさなかった。長秀も、勝家も、光秀も、次の言葉を待っていたが、信長は、何も言わなかった。庭の蟬の声だけが、書院の畳の上に、いつまでも落ち続けていた。刻が、これまでのどの評定よりも長く流れた。長秀は、幾度も、殿の顔をうかがった。困っているようには見えなかった。ただ、これまで見たことのない目の据わり方であった。これまでの戦のどの前夜よりも深く、何もない虚空に、まだ言葉になっていない理を探しているようであった。


 光秀は、その沈黙を、息を詰めて見つめていた。

 規矩を正せば、升は揃った。銭を鋳直せば、価値は定まった。荷改めを廃し、木戸を引き倒せば、道は開いた。人が作った仕組みは、人が壊すことができた。だが今、殿が見ているのは、人が作った掟ではないように思えた。それが何であるのか、光秀には、まだ言葉にできなかった。ただ、背筋に、これまでにない冷たさだけが、静かに降り積もっていた。


 その夜、草津の問屋頭は、会所の隅で、燃え尽きかけた灯芯を見つめていた。厩からは、まだ荒い息の音が聞こえていた。二頭のうち一頭は、すでに動かなくなっていた。問屋頭は、それに筵をかけると、帳面を開き、震える手で、また一行を書き足した。

「本日、斃馬一頭」

 筆を置いた手が、しばらく動かなかった。播磨の女商人は、宿場の外れの荷車の陰で、饐えた匂いのする俵を前に、うずくまったまま夜を明かした。荷を捨てるべきか、なお待つべきか、女商人にも、決めかねていた。捨てれば、堺からの元手が消える。待てば、腐り切った青菜が、丸ごと無駄になる。どちらを選んでも、失うものだけが確かにあった。


 翌朝、また一通の文が、安土に届いた。近江の別の宿場からであった。

「馬、いよいよ底を尽き申し候。荷車、街道に溢れ、動かすこと能わず候。願わくは、しばしの猶予を」

 信長は、その文を、文机の上に置いたまま、しばらく動かさなかった。升の名残も、銭の名残も、荷改めの名残も、道の曲がりも、座の木札も、絵図面のどこにも残っていなかった。あるのは、太くなり続ける一本の道筋と、その道の上で、動くことも、止まることもできずにいる、荷車の群れの影だけであった。

 文には、もう一行、書き添えられていた。

「宿場の馬持ちども、これ以上の供出には応じ難しと申しておる由に候」

 信長は、その一行を、幾度も読み返した。

「銭で増えぬものが、あったか」

 それだけであった。誰も、それに答える言葉を、持ち合わせていなかった。

 信長の指先が、絵図面の上を、草津から大津へ、大津から山崎へと、ゆっくりとなぞった。堺から、播磨から、備前から。安土へ向けて引かれた道筋は、太く、まっすぐに伸びている。だが、その筋が一点に集まる近江の宿駅に、すべての荷が雪崩れ込み、自らの重みで動脈を塞いでいた。

 信長の指先が、宿場と宿場の間、荷が一頭の馬に任されたまま延びている、その中ほどの一点で、ぴたりと止まった。信長がそこで何を見ていたのか、馬の数のことなのか、それとも馬の走らせ方のことなのか、長秀にも、光秀にも、分からなかった。

 信長は、それ以上、何も言わなかった。絵図面を丸めると、それきり、何も命じなかった。馬を増やせとも、人を集めよとも、もう言わなかった。書院に集った長秀、勝家、光秀の三人も、次に何をすればよいのか、誰一人として、はっきりとは分かっていなかった。升のとき、銭のとき、荷改めのとき、道のとき、座のとき――信長の一言のあとには、必ず次の日から動き出す下知があった。今度だけは、朱印の一件を除いて、下知のないまま、夜が更けていこうとしていた。

 書院の灯りが、静かに、四人の影を壁に映していた。夜が、また更けていった。

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