第二百六話:座中解体
第二百六話:座中解体
堺から届いた文には、こう記されていた。
「道は良うなり申し候。されど、油、市に出回らず候」
播磨からの文には、こう記されていた。
「綿の買い取り値、座にて談合され、相場の半値」
近江からの文には、こう記されていた。
「新参の荷、油座にて差し押さえられ候」
差出人は違えど、書かれた事情は同じであった。道は広がった。荷は届く。だが、市の入り口で、荷は止まっていた。升のとき、銭のとき、荷改めのとき、道のとき――障りは、いつも遠くから届く文の形で、まず安土に姿を現した。今度もまた、同じ形であった。
文よりも先に、その現場を見た者がいた。堺から山崎の市へ荷を運んだ油売りである。真新しい三間道を、砂煙を上げて駆け抜けてきた荷車が、市の入り口で足を止められた。腰に古い木札を差した番頭が数人、荷車の前に立ち塞がっていた。
「この市で油を卸してよいのは、本所に冥加金を納めておる山崎油座の者のみじゃ。新参者が勝手に荷を持ち込むは座法違反。荷、預かる」
番頭の一人が、油樽に縄をかけた。油売りは、道中で三度も車輪を替え、夜も休まず駆けてきた荷であった。
「道は広うなり、荷改めもなくなったはずだ」
油売りが叫んだ。番頭は、木札を懐から出し、油売りの目の前に突きつけた。
「道の法と、座の格式は別物だ」
縄をかけられた油樽が、市の隅に、次々と積み上げられていく。油売りの荷車は空になったまま、市の中ほどで立ち尽くしていた。町人が足を止めて眺めていたが、誰も口を挟まなかった。座の番頭に逆らって得をする者は、この市には一人もいなかった。
安土城書院に、今井宗久の名代が訴え出た。
「道は風のように通るようになりましてございます。されど、荷を降ろした先で、古くからの座の者どもが新参を弾き飛ばしております。品が一握りの長老に買い占められ、市に物が回りませぬ」
名代は、袖から帳面を取り出し、畳の上に広げた。堺、山崎、大津、播磨――四つの市で座に差し押さえられた荷の数が、細かな筆で記されていた。数は、日を追うごとに増えていた。
「これなるは、この十日のうちに、座に留め置かれた荷にございます。道が広うなったぶんだけ、堰き止められる荷も増えておりまする」
信長は、絵図面から顔を上げなかった。
「座を解けと申すか」
「はい。荷が届いても、売る場がなければ、道を広げた意味がございませぬ」
数日を経て、山崎油座、播磨綿座の代表が、揃って安土に呼び出された。書院には、比叡山延暦寺の意を受けた名代も、格式ばった態度で控えていた。数珠を手にしたまま、深く一礼した。
「上様。座は、古来より神仏の神事祭祀を支えるための神聖なる仕組みにございます。座役なくしては、天下の安寧を祈る祈祷も、朝廷の儀礼も立ち行かなくなりまする」
名代は、そこで言葉を切り、傍らの木箱から、古い巻物を取り出した。
「これなるは、代々伝わる宣旨にございます。座は、単なる商いの仕組みにあらず。神仏と朝廷と、市井の民とを結ぶ、目に見えぬ絆にございます」
巻物は、書院の畳の上に、静かに広げられた。誰も、それに触れようとしなかった。
山崎油座の長老が、続けて口を開いた。老いた声であった。
「それがしが十の齢のとき、父に灯芯の見分け方を叩き込まれました。水を混ぜた油は、灯芯の先が黒く煤け、細く長く燃えぬのでございます。指先に一滴垂らし、粘りと匂いだけで、搾った畑の場所まで言い当てられるようになるまで、十年かかりました。我らが握っておればこそ、質も値段も乱れておりませぬ。新参の者に任せれば、水を混ぜた油が出回り、火事も出ましょう。本所たる八幡宮への冥加も、絶えましょう」
書院に、しばしの沈黙が落ちた。長老の言葉には、噓がなかった。それは、勝家が曲がり角を語ったときと同じ、体で覚えた理屈であった。
信長は、しばし絵図面から目を離し、長老を見た。
「握る者がおれば、通る者が減る。通る者が減れば、国が痩せる。それでも、握り続けるか」
「上様。代々この品を扱うてきたゆえの格式にございます。無秩序に渡せば、市は必ず乱れましょう」
信長は、長老の木札を、しばらく指先で弄んでいた。それから、長秀に目をやった。
「長老。座を守るために、幾ら納めておる」
「年に、四十貫にございます」
「その四十貫を、当家が肩代わりする。座役は廃す。だが、株はそのまま持たせよう。格式は残る。悪い話ではあるまい」
長秀は、その申し出を、破格のものと聞いていた。座役をそっくり肩代わりした上、株まで残す。これまでの銭のやり方の中でも、最も気前の良い裁きであった。
これまでの西国の障りは、この一言で解けてきた。升のときも、銭のときも、荷改めのときも、信長は銭を積み、相手を従わせてきた。書院に居並ぶ者は皆、今度もそうなるものと思っていた。
だが、長老は、深く頭を下げたまま、動かなかった。
「上様。有り難きお言葉なれど、銭では譲れませぬ」
長老の声は、低いが、揺るがなかった。四十年、この座を守ってきた男の声であった。
「升は、量を計るだけのもの。銭は、値をつけるだけのもの。荷改めは、検めるだけのもの。道は、通すだけのもの。それゆえ、銭を積まれれば、家中の誰もが得心いたしましょう。されど座は、格式そのもの。売り買いの外にあるものにございます」
信長の指が、木札の上で止まった。
「銭では、譲れぬと申すか」
「格式は、銭で買えるものではございませぬ。父より受け継いだ座の証は、四十貫にも、四百貫にも、値をつけられるものではございませぬ」
書院に、これまでにない静けさが落ちた。信長は、絵図面に目を落としたまま、動かなかった。長秀は、算盤の紙を握ったまま、次に何を差し出せばよいのか、分からなくなっていた。その沈黙は、升のときの沈黙とも、道幅のときの沈黙とも違っていた。あのときの沈黙には、答えの重さがあった。今度の沈黙には、答えそのものがなかった。信長の指が、木札の縁を、幾度も往復していた。庭で鳴く蟬の声だけが、書院の畳の上に落ちていた。
光秀は、その沈黙の中で、短く進言した。
「殿。加賀の一向宗と、同じ理屈にございます。銭ではなく、正しさを守っておる者にございます」
それだけであった。長秀も、それ以上は言わなかった。信長は、光秀にも長秀にも目をやらず、ただ長老の木札を見つめ続けていた。
やがて、信長は、絵図面の上に置いていた手を、ゆっくりと引いた。
「銭で解けぬ壁は、これが初めてだ」
誰に向けた言葉でもなかった。書院の誰もが、それを、独り言と受け取った。信長は、木札を懐に収めると、立ち上がった。
「安土、大津、山崎の市に限り、座役、冥加金の徴収を、明日より禁ずる。座の株も、格式も、この日をもって、市における特権としては認めぬ。誰でも自由に店を出し、自由に値を付けて売買せよ」
長老が、顔を上げた。
「株までも、お取り上げに」
「銭で退かぬなら、あとに残るのは法しかない。座の札を掲げて市を妨げる者は、織田の法に背くものとして厳罰に処す」
書院の空気が、その一言で、これまでとは違う温度に変わった。升のときも、道幅のときも、信長は銭を積んで従わせてきた。今度は、初めて、銭のかわりに法と罰を差し出した。
「格式は、そなたらの腕の中に、まだ残っておる。灯芯の見分け方も、水を見抜く目も、木札がなくとも消えはせぬ。だが、それを理由に他人の道を塞ぐ権は、今日限り、儂が召し上げる」
長老は、何も言い返さなかった。言い返す言葉を、持ち合わせていなかった。書院の外では、初夏の風が、庭木の葉を静かに揺らしていた。
延暦寺の名代は、深く一礼した。それから、顔を上げぬまま、低く言った。
「上様は、座を解いたのではございませぬ。神仏への寄進を断ち切られたのでございます。古き宣旨さえ、値の付かぬものとなされました」
声は、震えていなかった。だが、数珠を握る指の関節だけが、白くなっていた。名代は、広げたままであった巻物を、静かに巻き戻した。その手つきは、負けを認める者のそれではなく、何かを胸の奥にしまい込む者のそれであった。
「山門もまた、考えねばなりますまい。この件、しかと胸に留めおきまする」
それだけを残すと、名代は、それ以上何も言わず、書院を辞した。廊下を歩く足音が、いつもより速かった。その背に、光秀は声をかけなかった。かける言葉を、まだ持ち合わせていなかったからである。信長もまた、名代の去った襖の先を、しばらく見つめていた。
その夜、長秀が書院の隅で絵図面を片付けていると、光秀が声をかけた。
「長秀殿」
「分かっておる」
長秀は、絵図面を丸めたまま、しばらく動かなかった。灯心が、時折、小さく爆ぜる音を立てた。
「今回だけは、算盤では読めなかった」
それだけを言うと、長秀は、絵図面を筒に収めた。光秀は、何も答えなかった。答える言葉を、まだ持ち合わせていなかった。書院の灯りが、二人の影を、壁に長く引き伸ばしていた。
翌朝、安土と大津の市に、織田の役人が立った。
「此処での油売買は山崎油座に限る」
そう書かれた古い制札が、引き抜かれた。木の裂ける音が、市に響いた。代わりに、真新しい高札が立てられた。
「諸国の商人、新参古参を問わず、自由に商売すべし。座役、諸公事を一切免除す」
昨日まで油樽に縄をかけられていた油売りは、縄の解かれた樽の前に、自ら筵を広げた。升を手に取り、量り売りを始めた。
「安いぞ」
声を張り上げながら、通りかかる町人の器に、次々と油を注いだ。焼けるような初夏の日差しの下、油の匂いと、埃と、人いきれが市を満たした。子を背負った女房が、値を比べながら小走りに店から店へ渡り歩いた。油の値は、その日のうちに、これまでより安く売られ始めていた。油売りの油樽は、昼を過ぎる前に空になった。空になった胴乱は、銭の重みで、腰の脇で鈍い音を立てていた。油売りは、その音を確かめるように、幾度も腰を叩いた。
市の片隅で、一人の商人が、器を突き返された。座の長老が、通りすがりにその油の器を手に取り、鼻先で嗅いだ。
「あれは水が混じっておる」
誰も、すぐには耳を貸さなかった。だが、しばらくすると客の女房が顔をしかめた。周りが寄ってきて、器を差し出し、匂いを嗅いだ。本当に水臭い。誰も彼もが、値切り、あるいは背を向けた。木札も番頭もないまま、市そのものが、良し悪しを選り分けていた。水の混じった油を担いだ商人は、半刻もせぬうちに、荷を丸ごと売れ残らせたまま、人の輪から弾き出されていた。
座の長老は、その一部始終を、市の隅から見ていた。もう、木札はなかった。誰も、長老に目もくれなかった。長老の傍らを、油売りの空の荷車が、銭の音を鳴らしながら通り過ぎていった。長老は、その音に、振り向かなかった。ただ、通り過ぎていく音の遠ざかる方を、しばらく目で追っていた。
その日の夕刻、長老は、誰もいなくなった座の詰所に戻った。棚には、代々使ってきた升と、油の量り、灯芯の束が並んでいた。木札を置いていた場所だけが、埃も積もらず、四角く色を残していた。長老は、灯芯を一本取り、火を点けた。細く長く、真っ直ぐに燃えた。水の混じらぬ、良い油の証であった。誰に見せるためでもなかった。長老は、それをしばらく見つめ、それから、火を消した。
数日後、長秀が書院に数字を持ち込んだ。
「殿。座を解いてより十日、安土と大津の市に立った商人の数は、これまでの三倍にございます。品の流れる量は、油だけで三割増えましてございます」
長秀は、そこで帳面をめくり、続けた。
「されど、それに伴い、宿場を通る荷車の数も、これまでの二倍を超えておりまする。伝馬の交代は、一頭あたり日に七度から八度。定めの倍を超えておりまする」
「まだ増えるぞ」
信長は、それだけ言うと、絵図面の市場の印の上に、また小さな線を書き足した。升のとき、銭のとき、荷改めのとき、道のとき――そのどれとも同じ、静かな仕草であった。だが長秀は、その仕草の裏に、初めて銭の効かなかった今日という日を、重ねずにはいられなかった。座を解いたことで太くなった荷の流れが、そのまま、次にどこへぶつかるのか――長秀には、帳面の数字だけで、すでに見えていた。
夕刻、書院に、また一通の文が届いた。近江の宿場からであった。市が開かれたことへの礼が、まず記されていた。だが、文の終わりには、また別の一文があった。
「荷は増え申せど、宿駅の人馬、足らず候。伝馬、日毎に詰まり、道端に倒るる馬、日に幾つも見え申し候。荷車、宿場にて三日待ちとなる場も出で申し候」
信長は、その文を、二度読んだ。読み終えても、しばらく文机の上に置いたまま、動かさなかった。座を解いたことで、市に流れ込む荷は増えた。増えた荷は、宿場ごとに馬を乗り換えねば、次へ進めなかった。せっかく広く、まっすぐになった道の上で、荷はまた、動きを止めようとしていた。升の名残も、銭の名残も、荷改めの名残も、道の曲がりも、座の木札も、絵図面の線のどこにも見当たらなかった。あるのは、ただ太くなり続ける一本の道筋と、その道の途上で、次に詰まりつつある宿駅の影だけであった。なお、堺や奈良では、なお古い座の札が掲げられていた。信長とて、天下のすべての座を一日にして消し去れるわけではなかった。
安土の夜は、また更けていった。市の跡には、誰にも拾われぬ古い木札が一枚、風に吹かれて転がっていた。翌朝、それを拾う者が誰かはまだ分からなかったが、その札を踏みつけて通り過ぎる荷車の音だけは、すでに幾つも聞こえ始めていた。




