第二百四話:荷改撤廃
第二百四話:荷改撤廃
夜が明けても、文はまだ開かれたままであった。
信長は、寝所から戻ってすぐ、その文の前に座った。近江の関所役人の名代からのものである。関銭よりも、荷改めのほうが障りだ——そう記されたまま、灯明は消え、朝の光に置き換わっていた。文字の墨は、すでに乾ききっている。だが、信長はそれを閉じようとはしなかった。
「殿。まだ、その文を閉じておられませぬな」
光秀が書院に入ると、信長はまだ絵図面を見ていた。堺から備前へ引かれた一本の線を、指先でなぞっている。線そのものは、幾日か前から変わっていない。だが、信長の見ている場所は、確かに変わっていた。升のときは湊の名を、銭のときは重さの数を見ていた。今は、線の上を這うように動く、幾つもの小さな結び目——関所の印を、一つずつ数えているようであった。
「升を揃えた。銭も揃えた」
「はい」
「それでもまだ、荷は止まっておるそうだ」
光秀は、その言葉に頷いた。頷きながら、机の上の文にもう一度目を落とした。関銭のことではない。荷を改める、その手間そのものが障りだと、名代は書いていた。
昼を待たず、山崎から早馬が入った。淀川沿いの関所からである。文の中身は、近江のものとほとんど同じであった。差出人は違う。だが、書かれていることは驚くほど似通っていた。米俵を突き、筵を剥ぎ、鑑札を照らし合わせる。その一つひとつに刻が食われていく、と。
「殿。淀川からも」
「読め」
光秀は、文を広げた。
「潮の目を逃せば、堺までの船足が二日遅れると。荷を検めるだけで、半日は動けぬそうにございます」
信長は、それを黙って聞いていた。表情は動かない。だが、絵図面の上を動いていた指先が、わずかに止まった。
「半日、か」
「はい。船頭の言い分では、朝一番の潮を逃せば、次の潮を待つほかなく、それだけでまた一日近く遅れると」
信長は、それだけを聞くと、傍らの書記に尋ねた。
「銭は、幾ら取られておる」
「関銭は、一艘につき百文ほどかと」
「百文は、払える」
信長は、そう呟いた。呟いてから、もう一度絵図面に目を落とす。
「だが、半日は戻らぬ」
光秀は、その一言を、しばらく胸の内で反芻した。銭は稼げる。日は稼げぬ。その違いを、信長はすでに見抜いていた。
午後、書院には柴田勝家をはじめとする古参の重臣たちが集まっていた。近江の代官も呼ばれている。誰もが、荷改めを緩めるという話を、すでに耳にしていた。
「殿。荷改めを緩めるなど、言語道断にございます」
勝家が、真っ先に口を開いた。
「越前一向一揆の残党、乱破、何が紛れ込むか分かりませぬ。関所での改めこそが、織田の領国を守る盾にございます」
「盾、か」
信長は、それだけを聞き返した。
「先月、近江の関所で捕らえた乱破は、兵糧蔵に火を放つつもりであったと聞いたが」
「はっ。まさしく、その男にございます。荷改めがなくば、蔵はとうに灰に」
勝家の声に、初めて力がこもった。
「この三年で、備前でもその手の者を取り逃がしておりまする。蔵一つ、丸ごと焼かれましてございます。米も、蓄えた銭も、一夜で灰に」
書院が、しんと静まった。誰も、その一言には何も返せなかった。近江の代官も、それに続いた。
「それがしどもとて、好んで俵を突いておるわけではございませぬ。城と殿とを守るため、埃にまみれて務めておりまする。荷改めをなくせと申されるなら、番所そのものを取り払うのと同じにございます」
誰も、間違ったことを言っているわけではなかった。光秀は、それをよく分かっていた。蔵を守った男がいる。蔵を焼かれた年もある。それは、どちらも紛れもない事実であった。
同じ書院に、堺の商人・今井宗久も控えていた。重臣たちの言葉が一段落つくのを待って、静かに帳面を差し出した。
「検めに半日取られれば、風が止まりまする」
宗久は、それだけをまず言った。
「風が止まれば、船は二日止まりまする。二日遅れれば、大坂の米相場が乱れ、油が届かず、鍛冶の火が消えまする」
宗久は、帳面のひとところを指で示した。
「升と銭が揃うたおかげで、荷そのものはずいぶん早うなりました。されど、関所の前で足止めを食えば、それまでの早さがすべて無に帰しまする。走って、止まる。走って、止まる。これでは、走らぬのと変わりませぬ」
書院は、しばらく静まり返った。武士の言い分も、商人の言い分も、どちらも間違ってはいない。だからこそ、誰も間に立てなかった。光秀もまた、その一人であった。
信長は、二つの言い分を聞き終えると、傍らの光秀に問うた。
「十兵衛。この三年で、荷改めで捕らえた乱破は、蔵を焼こうとした一人のほかに、幾人おる」
光秀は、すぐには答えられなかった。近江の代官が、代わりに口を開いた。
「……はっ。それを除けば、怪しき素破を、二名にございます」
「合わせて三名、か」
信長は、その数字を一度だけ繰り返した。それから、静かに続けた。
「三名の鼠のために、何千艘の船の足を止め、何万貫の荷を腐らせておるのか」
勝家が、口を開きかけた。だが、続く言葉は出てこなかった。蔵を守った一人のことも、蔵を焼かれた一夜のことも、まぎれもない事実であった。だからこそ、信長の言う数字の重さも、そのまま残った。
「割に合わぬ」
勝家が、なおも食い下がった。
「されど殿、もし本当に間者が紛れ込み、城下で火でも放たれれば」
「そのときは、その者を斬る。荷改めをやめても、番所そのものをなくすわけではない。怪しき者を見張るための兵は、そのまま置け」
信長は、そこで初めて顔を上げた。
「儂が禁ずるのは、荷を止めることだ。人を見張ることではない」
勝家は、それ以上言葉を継げなかった。
信長は、机の上の絵図面に手を伸ばした。堺から備前へ引かれた一本の線——扇の骨と呼んでいるものの上を、指先で強く叩く。
「明日より、西国すべての関所における荷改めを禁ずる」
書院の中に、息を呑む気配が広がった。
「俵を刺すな。荷を解かせるな。不審な者を捕らえるために兵を置くはよい。だが、荷車と船を止めた番士は、その職を解く」
「上様!」
勝家が、思わず膝を進めた。
「それでは我ら武士は、何のために番所に立てばよいのですか」
信長は、顔を上げなかった。
「通すために立て」
声に、怒りの色はなかった。ただ、これまでよりも一段、冷えた響きがあった。
「荷を止める者は、間者以上に儂の国を殺す謀反人ぞ」
その一言で、書院の中の議論は終わった。誰も、それ以上言葉を継がなかった。近江の代官は、ただ深く頭を下げた。頭を下げながら、その肩がわずかに震えていた。何のために槍を持って立っていたのか。その答えは、まだ誰の胸にも落ちてはいなかった。
夜になっても、代官は書院の隅に留まっていた。光秀が声をかけると、代官はようやく顔を上げた。
「明智様。我らは、これまで何を守っておったのでございましょうか」
光秀は、すぐには答えられなかった。答えを持っていなかったからである。
「関所は、なくなるわけではない」
光秀は、ようやくそれだけを口にした。
「番所も、兵も、そのままだ。変わるのは、荷を止めるかどうかだけだ」
「されど明智様。荷を止めぬ番所など、何のための番所にございましょうか」
光秀は、それに答えられなかった。代官は、それ以上何も言わず、深く一礼すると、夜道を戻っていった。
代官が去ったあと、光秀は一人、書院に残った信長のもとへ戻った。信長は、まだ絵図面の前に座っていた。
「殿。播磨と備前からも、同じような文が届いておりまする」
「読め」
「播磨の廻船問屋によれば、荷改めをやめれば、姫路から兵庫までの荷は、これまでより一日早く着くであろうと。備前の商人からは、備中との行き来がひと潮分、早うなると」
信長は、それを聞きながら、絵図面の上にいくつかの数字を指で追った。
「升を揃えたとき、堺から兵庫は二日縮んだ。銭を揃えたとき、両替の目減りが三割減った」
「はい」
「今度は、荷改めをやめれば、どれほど縮む」
書記が、恐る恐る答えた。
「湊によりまちまちにございますが、半日から一日ほどかと」
信長は、その数字を一度だけ口の中で繰り返すと、それ以上は何も言わなかった。障りが一つ消えるたびに、縮む日数の桁は、確かに増えていた。だが、信長はもう、その数字にいちいち驚いてはいなかった。光秀は、その静けさのほうに、かえって薄ら寒いものを感じた。
翌朝、淀川沿いの関所に、信長の下知を告げる早馬が到着した。
番士たちは、しばらくその場に立ち尽くしていた。何十艘もの船が、幾重にも折り重なって留め置かれている。米俵には、昨日までの検めの跡——突き刺された痕と、緩んだ縄が、そのまま残っていた。鉄の突き棒は、番所の壁に立てかけられたまま、朝の光を鈍く照り返していた。
「木戸を開けよ」
名代格の番士が、ようやくそれだけを口にした。声は、掠れていた。
木戸が引き上げられ、太い舫い綱が一斉に解かれていく。船頭たちは、初め、それが本当のことだとは信じていない様子であった。誰もが、番士の顔色をうかがい、綱を解く手を止めては、また動かしていた。だが、綱が完全に外れ、船体が川の流れに乗り始めると、一斉に歓声が上がった。
「行けるぞ!」
「もう止められぬのか!」
竹竿が川底を突き、船が滑り出す。風を孕んだ帆が膨らみ、船足が一気に上がっていく。昨日まで半日かかっていた検めが消え、船は一度も止まることなく淀川を下り、大坂へ、堺へと向かっていった。
昼過ぎ、書記が信長のもとに数字を運んできた。
「殿。淀川から大坂まで、これまで川留めを含めて一日半かかっておりましたものが、今朝は半日足らずで着いたとのことにございます」
「半日、か」
「はい。荷を検める手間が丸ごと消えたゆえと」
信長は、それだけを聞くと、絵図面の淀川のところに、小さな印を一つ書き足した。升のときと同じ、静かな仕草であった。
番士たちは、その光景を、番所に立ったまま見送っていた。誰も、その場を動こうとはしなかった。名代格の番士は、立てかけられた突き棒に、一度だけ手を伸ばしかけた。だが、指先が触れる前に、その手を下ろした。突き棒は、そのまま壁に立てかけられたままであった。
安土に戻った光秀は、天守から淀川の方角を眺めていた。船の群れは、もうそこからは見えない。だが、堺から届く文の束は、この数日でひと回り厚くなっていた。今井宗久からだけでなく、これまで名も知らなかった小さな廻船問屋からも、礼を記した文が届き始めていた。
「光秀」
信長の声に、光秀は振り返った。
「道は、開いた」
「はい」
「だが」
信長は、それ以上を続けなかった。光秀は、その続きを、自分の胸の内で埋めるしかなかった。
昨日まで俵を突いていた、あの番士たちの顔が、光秀の脳裏から離れなかった。彼らは、悪人ではなかった。城を守るため、忠義のために、埃にまみれて俵を検めていた。その役目が、一夜にして変わろうとしていた。
信長の「扇」は、恐るべき速さで太くなっている。堺から備前まで、荷はもう止まらない。だが、その足元では、槍を持つ理由そのものが、変わろうとしていた。
夕刻、書院にまた一通の文が届いた。堺の商人からである。荷が止まらなくなったことへの礼が、まず記されていた。だが、その先には、また別の一文があった。
荷を改める手間が消えても、荷を運ぶ道そのものが狭く、荷車がすれ違えぬ場所が幾つもある——と。
信長は、その文を最後まで読むと、静かに絵図面を見下ろした。堺から備前へ引かれた線の上に、幾つかの印を付け加える。線は、もう幾つもの結び目を失い、以前よりまっすぐに見えた。
「殿。もう、次を見ておる者が」
「おる」
信長は、短く答えた。その声には、驚きも苛立ちもなかった。ただ、これが当たり前になりつつあることを、静かに認めているだけであった。
信長は、絵図面の上を指でなぞる手を、わずかに速めた。
「障りが消えぬうちに、次の障りが届くか」
信長は、微かに笑った。
「光秀」
「は」
「次は、道だ」
文は、また開かれたままであった。信長は、それを閉じなかった。安土の夜は、また更けていった。城下からは、荷車の軋む音が、これまでよりも数多く、絶えることなく響いていた。その音は、止まることを知らぬまま、闇の中へ吸い込まれていった。
その軋む音の中に、光秀は、もう一つの音を聞き取ろうとしていた。昨日まで俵を突いていた番士たちが、新しい役目の意味をまだ掴みきれぬまま、番所に立ち続けている気配である。だが、耳を澄ましても、その戸惑いの音はどこからも聞こえてはこなかった。ただ、荷車の音だけが、際限なく重なり続けていた。




