第二百三話:銭量統一
第二百三話:銭量統一
翌朝、信長は、まだ銭の話を始めてすらいなかった。
だが、書院に光秀が持ち込んだ文の束は、すでに小さな山を作っていた。堺から、播磨から、備前から、備中から。差出人はそれぞれ違う。だが、書かれている中身は驚くほど似通っていた。
「殿。これらは、すべて銭の一件にございます」
光秀は、その束を机の上に並べた。差出人の名も、文の形もそれぞれ違う。だが、その厚みだけが共通していた。信長は、まだ何も命じていない。
「読め」
「は」
光秀は、まず堺の両替商からの文を開いた。紙を広げる音が、小さく響く。
「近頃、播磨、備前より届く銭、目方も質もまちまちにて、両替のたびに目減りが生じ、商人衆より苦情が絶えず。願わくば、目方の統一を——と」
二通目は、播磨の廻船問屋からであった。升の話への礼をまず述べ、その上で銭についても同じように揃えてほしいと記されていた。
三通目は、備前の鍛冶師仲間からであった。播磨とはまったく違う訴えである。
「鉄を買うにも、銭を渡すにも、いちいち目方を検めねばならず、商いが滞る一方にございます」
四通目は、備中の船頭衆からであった。文字は拙かったが、その分、切実な調子が滲んでいた。
「米を売った銭を、次の湊でまた目方を検められ、目減りいたしまする」
近江の市の年寄からは、市で使われる幾種もの銭の換算の煩わしさが書かれていた。摂津の油商人からは、油を売った銭が次の仕入れ先で目減りすることへの不満が綴られていた。両替を生業とする者、荷を運ぶ者、物を作る者、物を売る者——それぞれの商いの形は違う。それぞれの困り方も微妙に違う。だが、行き着く先は同じであった。銭を揃えてほしい。
「まだ、何も命じておらぬぞ」
信長は、微かに笑った。
「はい。升が揃うたのを見て——己の障りも消してほしいと、勝手に文を寄越しております」
その、声にならぬ声が、机の上に山を成していた。
「升のときは、こちらから湊ごとに役人を呼び、升を並べさせ、一つ一つ確かめた。だが、今度は」
「向こうから参っております」
光秀は、机の上の文の山を改めて見下ろした。堺、播磨、備前、備中、近江、摂津。信長が一人一人に問うたわけではない。それなのに、これほどの声がすでに集まっていた。順序が、いつの間にか逆になっていた。
「堺から備前まで、荷はどれほど早くなった」
信長は、傍らの書記に尋ねた。
「堺から兵庫、二日が今は一日半に」
「兵庫から備前は」
「六日が今は四日に」
信長は、その数字をしばらく口の中で繰り返した。まだ始まって幾日も経っていない。それなのに、これほどの違いがすでに出ていた。城を一つ落とすには幾月もかかる。だが、この目に見えぬ日数の縮みは、幾日かですでに形になっていた。
「百艘動いておれば、百艘分だけ早く着く」
信長は、それだけを言った。書記が何か続けて算段を口にしようとしたが、信長は手で制した。数を積み上げずとも、「早く着く」という一言だけで十分であった。
光秀は、その素っ気ない答えに、かえって信長の確かな手応えを感じ取った。升のときは、まだ二日、四日と目の前の数字を確かめるだけであった。だが今、信長はその数字の先に、幾つもの船が幾つもの湊を同じように行き来する様を、すでに思い描いているようであった。
「銭の目方も揃えば——両替の損はどれほど減る」
書記は、少し考えてから答えた。
「堺の両替商の見立てでは、三割ほど減るであろうとのことにございます」
「三割、か」
信長は、その数字に微かに頷いた。升で日数。銭で目減り。障りごとに数字は違う。だが、揃えれば揃っただけ、扇の骨が太くなっていく。その一点だけは、どの障りにも共通していた。
信長は、文の一つを手に取った。堺の両替商のものである。永楽銭、びた銭、渡来の古銭——それぞれ目方も質も違う。同じ一文でも、実際の重さはまちまちであった。
「堺では、銭をどう数えておる」
「永楽銭を基として、他は目方で換算しておるようにございます。ただ、その割合が湊ごとにまちまちで」
「播磨では」
「播磨では、米の値と絡めて銭の目方を決めておるとのことにございます」
「備前では」
「備前はまた、独自の勘定をしております」
信長は、それぞれの換算の仕方を一つずつ聞いていった。升のときと同じであった。どの湊にもそれぞれの理屈があった。だが、その理屈が湊をまたぐたびに変わってしまう。それが、荷を遅らせ、銭を目減りさせていた。
「升のときと同じ形にする。堺の永楽銭を基とする。他の湊は、これに合わせよ」
書記の一人が、恐る恐る口を挟んだ。
「殿。堺が反発せぬのでございましょうか」
「反発すれば、それまでの話だ。だが、堺が最も多くの湊と繋がっておる。基にするなら、そこだ。異を唱える湊があれば、そのときにまた考えればよい」
書記は、それ以上問わなかった。光秀は、その短いやり取りの中に、選ぶ理由を先に示してから決めるという信長のやり方を、改めて見た気がした。
「堺の両替商には、揃えるとだけ伝えよ。あとは実務だ」
「殿。播磨、備前、備中にも、同じ返事を出しまするか」
「同じでよい。揃える。それだけで皆、動き出す」
光秀は、その言葉に頷きながらも、内心、これほど返事が短くてよいものかと戸惑いを覚えていた。だが、升のときのあの反応の速さを思えば、確かにそれだけで十分なのかもしれなかった。
その日の昼過ぎ、堺の両替商の元締めが自ら書院を訪れた。文を寄越しただけでは飽き足らなかったのであろう。老いた男は深く頭を下げ、懐から秤と幾つかの銭を取り出した。永楽銭とびた銭をそれぞれ秤にかけて見せる。同じ一文でも、目方が明らかに違う。針がわずかに傾く。そのわずかな傾きの中に、これまでの市の当たり前が詰まっていた。
「元締め。良い銭は、どうする」
信長は、静かに問うた。
「隠します」
「なぜ」
「損をしたくないからにございます。皆、そういたします。良い銭を渡せば、目方の分だけ己が損をする。だから皆、良い銭を懐にしまい込みまする」
信長は、しばらく黙っていた。誰も悪くない。だが、皆が同じ理屈で動けば、市そのものが痩せていく。升のときにも感じた、同じ理であった。
「一人だけ、良い銭を出し続ける者はおらぬのか」
元締めは、少し寂しげに首を振った。目を伏せる。
「おりましても、長くは続きませぬ。その者ばかりが損を重ねまする」
信長は、それ以上問わなかった。答えはすでに見えていた。
「鋳直せば、どれほどで揃う」
「一月もあれば、堺だけは。ただ、幾らか銭が要りまする。堺だけで三百貫ほど」
「他の湊も、同じだけ要るか」
「播磨、備前、備中——それぞれ堺より少のうござれば、合わせて七、八百貫にもなりましょう」
元締めは、恐る恐るその数字を口にした。升のときとは桁が違う。
信長は、その数字に少しも動じなかった。
「その銭は、こちらで持つ」
信長は、それだけを言った。迷いはなかった。
「殿が鋳直しの銭を御自らお持ちになると聞けば——良い銭を隠しておった者たちも、蔵から出して参りましょう。損をせぬと分かれば」
信長は、その言葉に頷いた。良い銭を隠す理由は、損を恐れてのことである。損をせぬ形を作れば、良い銭は自ずと市に戻ってくる。皆を罰する必要はない。
元締めは、驚いたように顔を上げた。それから深く一礼すると、秤と銭を懐へしまい直した。だが、すぐには立たなかった。
「殿」
「何だ」
「銭が揃えば——次は関銭にございますな」
信長は、わずかに目を見開いた。間がしばし落ちた。灯明の炎が微かに揺れる。
「なぜ、分かる」
「皆、そう申しておりますれば」
元締めは、それだけを答えると、深く頭を下げ、書院を辞していった。廊下を遠ざかっていく足音を、信長はしばらく黙って聞いていた。
信長は、絵図の上、扇の骨を指でなぞりながら呟いた。
「光秀」
「は」
「わしより先に、次を見ておる者がおる」
光秀は、その言葉に深く頷いた。だが、頷きながら、光秀の胸の内にはこれまでにない重いものが沈んでいた。
武士は、命に従って動く。命が下り、初めて体が動く。それが、光秀がこれまで生きてきた世の理であった。命を発する者がいて、命を受ける者がいる。その上下の形が崩れたことは、これまで一度もなかった。城を攻めるにも、兵を退くにも、必ず誰かの下知が先にあった。下知のない戦場など、光秀はこれまで一度も見たことがなかった。
だが、今、目の前にあるのは、命の前に動く者たちであった。命が要らぬというのではない。命を待たずとも動ける、というのであった。もしこの動きがさらに広がれば——命を待たずとも、人が動く世になるのではないか。光秀は、その先の光景を思い描こうとして、すぐに思い直した。それはまだ口にすべき言葉ではなかった。だが、胸の底には確かに、その得体の知れぬ恐ろしさが沈んだままであった。武士である己が、命を待たぬ世を恐れながらも、同時にそこへ向かって殿に仕えている。その捩れが、光秀の胸を重くしていた。
元締めが辞してから幾らも経たぬうちに、また別の文が届いた。播磨の廻船問屋からである。堺の升が揃い始めたと聞き、播磨でも同じように銭を揃える職人をすでに探し始めているという。信長がまだ何一つ播磨に命じてはいない。それなのに、播磨はすでに動いていた。
「殿。播磨も、動いておりまする」
「そうか」
信長は、それだけを短く応じた。だが、その短さの中に、光秀はもはや驚きの色を見出せなかった。信長にとって、これはもう驚くべきことではなくなっていた。むしろ、動かぬ湊があればその方が珍しいのであろう。光秀は、そんな逆転した感覚さえ覚え始めていた。升のときにはあれほど丁寧に確かめながら進めた話が、今はもう当たり前の風景になりつつあった。
夕刻、光秀が関銭の話を切り出しかけたところへ、小姓が急ぎ足で文を運んできた。
「近江より、関所役人、名代からの文にございます」
光秀は、それを開いた。目を走らせてから、告げた。
「殿。もう、届いております」
光秀は、文を机の上に広げた。関銭の値のことではなかった。名代はこう書いていた。関銭がいかほどであろうと、いずれ揃うと皆思うておりまする。それより障りなのは、荷改めにございます、と。
「ただ——関銭よりも、荷改めの方が障りだと」
信長は、しばらく黙っていた。関銭の話が来ると思うていた。だが、届いたのはそのさらに先の話であった。障りは一つ消えれば、また次の障りが姿を現す。それも、信長が思い描くより先に。信長は、微かに笑った。
「もう、その先を見ておるか」
声は静かであった。だが、その静けさの中に、これまでのどの驚きよりも深い何かが宿っていた。信長が次を思い描く前に、次のさらに先がすでに動き始めている。信長は、文の山を丁寧に束ね直した。
「光秀。次は、荷改めだ」
「は」
荷改めの文は、まだ机の上に開かれたままであった。信長は、それを閉じなかった。灯明の光が、開かれたままの文の端を静かに照らしていた。
安土の夜は、また更けていった。城下からは、升を彫る鉋の音と、銭を鋳直す金槌の音が重なって聞こえていた。二つの音は決して同じ調子には揃わない。だが、同じ方角へ向かって響いていた。




