第二百二話:権威後置
第二百二話:権威後置
翌朝、光秀は昨夜の沈黙をまだ胸に抱えたまま、書院へ向かった。
朝廷の御墨付き。年号を絡めた触れ。それが悪い案だとは、光秀には思えなかった。むしろ、これまでの乱世の作法に最も適った堅実な策のはずであった。だが、あの夜、信長は何も答えなかった。その沈黙の重さが、まだ光秀の胸に残っていた。
書院にはすでに信長が坐していた。机の上には昨夜の紙がそのまま広げられている。升。銭。関銭。荷の検め。船頭の腕。順に並べられた文字の下に、堺から播磨、備前、備中へと延びる扇の絵図があった。
「殿。昨夜の御墨付きの一件、改めて申し上げとうございます」
光秀は静かに切り出した。
「異存を唱える者が減りましょう。古い升に執着する者たちも、朝廷の御名とあれば無下にはできませぬ。改革の正しさを外から補うことにもなりましょう」
信長は紙から目を離さなかった。だが、聞いていないわけではない。光秀はそのまま続けた。
「御墨付きさえ頂戴すれば、一夜にして西国全土に広まりましょう。升も銭も関所も、これほど早く揃うものはほかにございませぬ」
信長はしばらく黙っていた。それからゆっくりと、絵図の上、堺の一点を指で押さえた。
「光秀。あの男は勅許を使うたか」
光秀はその問いに一瞬答えに詰まった。
「……あの男、とは」
「東国の、あの輪を作った男だ」
光秀は記憶を辿った。これまで幾度も東国について調べさせてきた。だが、朝廷が東国の輪に関わったという話は、一度も聞いたことがなかった。
「……いいえ。勅許を使うたという話は聞いておりませぬ」
「関東管領を振り回したか」
「それも聞いておりませぬ」
「将軍を担いだか」
「……いいえ」
信長は絵図から目を上げた。
「なのに、皆従うておる。北条も、上杉も、佐竹も。誰一人、あの男に頭を下げてはおらぬ。それでいて、あの輪から離れぬ」
光秀はその言葉に何も返せなかった。信長の言う通りであった。東国の輪には、どこにも権威の影がなかった。
「なぜだ」
信長は自らに問うように呟いた。
「便利だからだ」
その一言は短かったが、書院の中に確かに響いた。
「光秀。勅許を頂戴して升を揃えたとする。だが、勅許がなくなれば、どうなる」
「なくなれば……」
「升は消える」
光秀ははっとした。
「なぜなら、升を揃える理由が勅許にあったからだ。勅許が消えれば、揃える理由も消える。だが——便利だから揃えたのであれば、勅許があろうとなかろうと、升は消えぬ」
光秀はその言葉を胸の内で繰り返した。権威は上から押さえる。便利は下から広がる。二つは似ているようで、根がまるで違う。
「殿は……これまで、前者ばかりを見てこられたのですな」
「そうだ。城を落とすことも、旗を掲げることも、みな上から押さえることであった。だが、あの輪は下から広がっておる。わしはこれまで、その違いに気付いておらなんだ」
「殿。されど、堺の商人も、播磨の商人も、殿の御名に従うておりまする。それも上からの押さえにならぬのですか」
信長は少し考えてから答えた。
「いや。あの者たちは、わしの名に従うておるのではない。升が揃えば道が早うなる。それがあの者たちの望みだ。わしの名は、その後押しに過ぎぬ」
「後押し……」
「堺の商人に問うてみよ。わしの名がなければ升は揃わぬか、と。恐らくこう答えよう。名がなくとも揃えたい者は揃えたであろう、と。ただ、わしが音頭を取れば揃うのが早い。それだけのことだ」
光秀は深く頷いた。堺の名代の顔を思い出す。あの男は勅許を望んではいなかった。ただ、二日を消したいと望んでいた。
光秀はそれでもなお食い下がった。信長の言うことには理があった。だが、光秀にも光秀の理があった。
「殿。されど、権威は早うございます。便利さが皆に伝わり、根付くまでには時がかかりましょう。御墨付きを得れば、一夜にして広まりまする」
信長はその言葉に少し間を置いた。それから静かに答えた。
「一夜で広まるものは……」
信長はそこで一度言葉を止めた。絵図の上、堺の一点を指でなぞりながら続けた。
「どうも、一夜で消える気がしてならぬ」
それは確信というより、まだ掴みきれぬ予感に近い言い方であった。
「なぜ、そう思われます」
「分からぬ。だが、あの輪は何十年もかけて広まったという。急いで広まったものではない。急いで広まるものと、時をかけて広まるものと——恐らく根の張り方が違うのだろう。それだけは確かな気がする」
光秀はその言葉に深く頷いた。信長はまだその理を言い切れてはいなかった。だが、確かにその方向へ手を伸ばし始めていた。一夜で広まったものは、多くの場合根が浅い。風が変わればあっけなく崩れる。だが、便利さは根が深い。一度皆がその便利さを知ってしまえば、たとえ誰かがそれを奪おうとしても簡単には離れぬ。それを信長はまだ言葉にはできていなかった。だが、光秀にはその輪郭がはっきりと見えた気がした。
「殿。では——」
「勅許は求めぬ」
信長ははっきりと言い切った。だが、その声には確信と共に、わずかな迷いのようなものも滲んでいた。
「まず升を揃える。皆が便利だと思うた後——その時に朝廷が乗りたいと申せば、乗せてやればよい。順が逆だ」
「朝廷を軽んじるというわけでは」
「いや。朝廷は尊い。将軍もまた尊い。だが、升を揃えるのは朝廷ではない。商人だ。米を運ぶのも、荷を検めるのも、朝廷ではない。誰が尊いかと、誰が荷を動かすかは、別の話だ」
光秀はその言葉にはっとした。朝廷を否定しているのではない。ただ、役目を分けているのであった。
光秀は深く息を吸った。権威が先にあり、その下で制度が整う。それがこれまでの乱世の当たり前であった。だが、信長はその順を逆にしようとしている。制度が先にあり、権威は後から望むならついてくればよい、と。
「殿。それは……東国で見た、あの輪の理に近うございます」
信長は少し目を細めた。
「そうかもしれぬ。だが、わしは真似をしておるのではない。わしもわし自身の目で、同じ答えに辿り着いただけだ」
光秀はその言葉に深く頭を下げた。真似ではない。だが、同じ理に辿り着いた。それは光秀にとって、これまでのどの報告よりも恐ろしい事実であった。策を真似たのであればまだ理解できる。だが、まったく別の場所で、まったく別の男が、同じ答えに独りで辿り着いたのだとすれば——それはもはや偶然の一致ではなく、理そのものがただ一つしかないということを意味していた。
「今は、儂の名と銭が要だ」
信長は机の上の絵図を見つめながら続けた。
「朝廷を使えば、いつか朝廷に足を取られる。将軍を使えば、将軍に足を取られる。わしの道に、余分な要はいらぬ」
光秀はしばらく黙っていた。それから静かに問うた。
「殿。それは……危うい道でもございましょう。殿の名だけが要となれば、殿に何かあれば」
「扇も崩れよう」
信長はあっさりと認めた。
「分かっておる。だが、それでも余計な要はいらぬ。借り物の権威で支えた扇は、いずれその権威に支配される。わしはそれを望まぬ」
「支配される、と申しますと」
「朝廷の御墨付きで升を揃えたとする。次に朝廷が別のことを望めば、わしはそれに逆らえまい。借りたものはいつか返さねばならぬ。返せと言われたときに断れば、これまでの御墨付きも意味を失う」
光秀はその言葉に深く頷いた。権威を借りることは、同時にその権威に借りを作ることでもあった。信長はそれをはっきりと見抜いていた。
その日の午後、城下では升統一の実務が静かに進んでいた。堺の職人が新しい升の型を三つ作り終えたという報せがまた届いた。播磨、備前でも木材の手配が始まっていた。鉋の音が城下のあちこちから途切れながら聞こえてくる。信長はそれらの報告を淡々と聞いた。もはや朝廷の話は終わったこととして扱われていた。
備前からは別の報せも届いていた。関銭の一件を問うてきた刀鍛冶の元締めからである。関所の役人たちが升の話を伝え聞き、自分たちも何か揃えてもらえぬかと、自ら文を寄越してきたという。誰かに命じられたのではない。升が便利になったと聞き、己の障りも消してほしいと望んだのであった。
「殿。関所の役人が自ら文を寄越したそうにございます」
「ほう」
「これは殿の御名を恐れてのことではございますまい。升が便利になったと聞いたゆえにございましょう」
信長はその報せに微かに頷いた。
「それでよい。恐れて従うのではない。得だと思うて従う。それが崩れぬ道だ」
「殿。堺はすでに四つ目の型を彫り始めておるとのことにございます」
「早いな」
「はい。褒美を目当てにしておるのやもしれませぬ」
信長は微かに頷いた。それだけであった。権威の話をしていたときのあの重い沈黙とはまるで違う、軽やかなやり取りであった。
「殿。播磨、備前からも同じような報せが」
「よい兆しだ。競わせておるだけで、こうも速く動く」
光秀はその様子を見ながら、朝廷の力を借りずともこれほどの速さで物事が進んでいくことに、改めて驚きを覚えていた。
夕刻、信長は光秀を絵図面の前に呼んだ。堺を要とした扇の形がそこには描かれている。信長はその要の部分に指を置いたまま、しばらく動かなかった。
「殿。いかがなされました」
「昼に言うたな。儂の名と銭が要だと」
「はい」
「あれだけでは足りぬ気がしてきた」
光秀はわずかに身を乗り出した。信長は絵図の要の一点を指の腹でそっと押さえたまま続けた。
「儂の名も銭も、しょせん儂がおればこそのものだ。儂がいなくなれば名は消える。銭も、誰かがまた目方をばらばらにすれば揺らぐ」
「では」
「今はわしが要だ」
「殿」
「だが、いずれ誰が要になっても回る形にせねばならぬ。今日、明日にはできぬがな」
光秀はその言葉にわずかに目を見開いた。これまでの信長であれば、要はわしだ、それで終わっていたはずであった。だが今、信長はその先を口にしていた。
光秀は絵図を見つめた。堺。播磨。備前。備中。その中心に信長の指が置かれている。ふと光秀は東国の絵図を思い出した。あの絵図に勝頼の名はどこにも書かれていなかった。輪の中心にも端にも、あの男の名はなかった。それでいて輪は回っていた。
「殿。今はまだ殿が要でよろしゅうございましょう。されど、いずれ——」
「いずれ、誰が要になっても回る形にしたい」
信長は光秀の言葉を先取りするように言った。
「それが、あの輪に並び立つということだ。今日、明日にはできぬ。だが、その先を見ておかねば、わしはいつまでもあの輪の後を追うだけになる」
光秀は深く頭を下げた。この一言に、光秀はこれまでのどの言葉よりも深い信長の変化を見た気がした。要はわしだ、で終わる男ではない。要すらいらぬ形を目指す男へと、信長は確かに変わり始めていた。
窓の外では琵琶湖の水面が、夕暮れの赤い光を受けて静かに揺れていた。城下からはまだ升を彫る鉋の音が微かに聞こえてくる。信長は絵図面を静かに巻いた。
光秀は書院を辞す前に一度、控えの間に立ち寄った。そこには光秀自身が昨夜用意させた、朝廷への進言の下書きがまだ置かれたままであった。文机の上、丁寧に認められた文字を、光秀はしばらく見つめていた。昨夜までは妙案であった。今はもう古く見えた。
光秀はその紙を静かに畳んだ。棄てはしなかった。だが、もう使うこともないだろうと、光秀には分かっていた。
「光秀。明日は銭の話だ」
「は」
光秀は短く答えた。
安土の夜はまた更けていった。光秀には、朝廷への進言書よりも、机の上の一つの升の方が重く見えていた。




