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三国志帰りの武田勝頼は、信玄の知らない帝王学で天下を覆す ~軍師真田昌幸と始める、二度目の天下統一~  作者: チャプタさん


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第二百一話:扇之要創

第二百一話:扇之要創


 翌朝、信長は、約束通り、忙しくなった。

 書院には、もう、商人たちの姿はなかった。代わりに、安土の勘定方と、堺、播磨、備前、備中——それぞれの湊から呼び寄せられた、目方掛の役人たちが、机を囲んでいた。誰もが、己の湊の、升と、秤とを、携えていた。


 机には、それぞれの湊から持ち寄られた、升だけでなく、秤も、幾つか、並んでいた。木の削り方、縁の反り、紐の締め方。一見、同じに見える道具も、よくよく見れば、細部が、それぞれ、違っていた。朝日が障子を通して差し込み、升の木肌を白く照らしている。木の匂いと、わずかな埃の匂いが、部屋に満ちていた。


「まず、これを、揃えよ」

 信長は、机の中央に、四つの升を、並べさせた。堺の升。兵庫の升。播磨の升。備前の升。見た目は、さほど、変わらない。だが、いざ、同じ米を、四つの升に、順に量ってみると、目方は、微妙に、違っていた。


「堺の升で、一升」

 勘定方が、米を量り、天秤に、かけた。升の縁を、木片で、丁寧に、擦り切る。米粒が、幾つか、机の上に、零れ落ちた。白い粒が、木の肌の上で、小さく転がる。

「兵庫の升で、量り直せば」

 同じ量の米が、兵庫の升では、心持ち、多く、見えた。もう一度、天秤に、かける。針が、わずかに、傾いた。

「一升に、足らぬのでございます。兵庫の升は、堺の升より、幾分、小さい」

 堺の目方掛が、渋い顔をした。

「これまでは、それで、通っておりました。互いに、それを、承知の上で、商いをしておりましたゆえ」

「承知の上、というのは」

「兵庫で買えば、安く見え、堺で売れば、多く見える。その差を、皆、腹の内で、勘定に入れておりました」

 信長は、しばらく、黙って、四つの升を、見比べていた。承知の上の、ごまかし。それが、これまで、当たり前として、続いてきた。だが、その当たり前こそが、道を、遅らせる、目に見えぬ、障りであった。升の縁を、指でそっと撫でる。木の感触が、指の腹に残る。


「升を、一つにする」

「一つに、と仰せられましても……」

「堺の升を、基とする。他の湊は、これに、合わせよ」

 播磨の目方掛が、思わず、声を上げた。

「それでは、播磨の升は、これまでより、大きゅうなりまする。米一升の値も、変わりましょう」

「値は、変わってよい。だが、量は、変えぬ。今日から、播磨で量る一升は、堺の升と、寸分違わぬものとする」


 目方掛たちは、互いに、顔を見合わせた。長年、それぞれの湊で、当たり前としてきた升を、今日限り、変えろと言う。反発の色が、幾人かの顔に、浮かんだ。備前の目方掛が、机の上の、四つの升を、順に、指でなぞりながら、低く、呟いた。

「この升で、代々、商いをして参りました。今更、変えよと言われても……」

「代々の升が、大事か。それとも、荷が、二日、余分に、かかることが、大事か」

 信長は、静かに、問い返した。備前の目方掛は、何も、言い返せなかった。だが、信長の声には、これ以上の問答を許さぬ、静かな重さがあった。部屋の空気が、わずかに張り詰める。


「異存のある者は、申せ」

 誰も、何も、言わなかった。播磨の目方掛は、しばらく、口をつぐんでいたが、やがて、深く、頭を下げた。

「畏まりました。新しい升を、作らせまする」

「いつまでに、揃う」

「早ければ、二十日。遅ければ、一月半ほど、かかりましょう」

 信長は、その数字を、頭の中に、留めた。二十日から、一月半。決して、短くはない。城を落とすなら、一日、二日で、片がつくこともある。だが、これは、城攻めではなかった。待てぬ時では、なかった。


「二十日を、目安とせよ。それより早う、揃えた湊には、褒美を、取らせる」

 目方掛たちの目の色が、わずかに、変わった。急かされることには、慣れている。だが、急いだ者に、褒美が出るという発想は、これまで、なかった。播磨の目方掛が、小さく息を吐く。備前の目方掛が、升をもう一度見つめ直す。


「して、揃わなんだ湊には」

 備中の目方掛が、恐る恐る、尋ねた。

「咎めはせぬ。だが、揃うまでは、荷の通りを、後回しにする」

「後回し、と申しますと」

「升の揃うた湊から、先に、道を、開く。揃わぬ湊は、それだけ、遅れる。それだけのことだ」

 目方掛たちは、その言葉に、はっとした様子であった。罰ではない。ただ、遅れる。だが、その遅れこそが、商いにとっては、最も、恐ろしいものであった。誰もが、その意味を、すぐに理解した。


 播磨の目方掛が、なおも、食い下がった。

「殿。升を、新しく作るには、木も、職人の手間も、要りまする。銭も、かかりましょう」

「銭は、こちらで、持つ」

「……殿が、御自ら」

「升一つで、道が、二日、早まるなら、安いものだ」

 目方掛たちは、顔を見合わせた。これまで、このような形で、上から、銭を出す、という話は、聞いたことがなかった。年貢を取り立てることはあっても、道具を作る銭を、進んで出すことなど、なかった。備前の目方掛が、小さく、呟いた。

「これは……ただの、詮議では、ないのですな」

 誰も、それに、答えなかった。だが、誰の顔にも、これまでとは違う、緊張と、期待の、入り混じった色が、浮かんでいた。備前の目方掛は、それきり、口をつぐみ、深く、頭を下げた。


 その日のうちに、堺の升の型が、木彫りの職人に、渡された。職人は、升の縁を、幾度も、鉋で、削り直しながら、寸分違わぬ形を、作ろうとしていた。木屑が、足元に、薄く、積もっていく。鉋の音が、一定のリズムで響く。木の香りが、工房に広がる。播磨、備前、備中——それぞれの湊にも、写しが、送られることになった。目方掛たちは、一様に、複雑な顔をして、書院を、辞していった。これまでの、当たり前が、変わる。その戸惑いを、誰もが、隠しきれずにいた。


 光秀は、その一部始終を、廊下の隅から、見ていた。信長が、これほど、細かな、升の目方一つに、時をかけるのを、見るのは、初めてであった。かつての信長であれば、このような細事は、家臣に任せ、己は、次の一手を、考えていたはずである。だが、今、目の前の信長は、升の縁の、わずかな反りにまで、目を、凝らしていた。指で縁をなぞり、目を細め、また升を手に取る。その仕草に、迷いがなかった。


「殿。升の話に、これほど、お時間を、割かれるとは」

「升は、小さい。だが、升が違えば、荷はすべて、二度手間になる。堺で量り、兵庫で量り直し、播磨で、また量り直す。その二度手間の積み重ねが、あの二日を、生んでおる」

 光秀は、深く、頷いた。あの夜、堺の名代が語った、二日。その正体の一つが、目の前の、この小さな升に、あった。光秀は、改めて升を見つめる。ただの木の器である。だが、その器が、道を遅らせていた。


「殿は、升一つの裏に、二日を、見ておられたのですな」

「升だけではない。銭も、関所も、荷揚げ場も、船頭の腕も、みな、同じだ。小さきものの裏に、必ず、大きな遅れが、隠れておる」

 光秀は、その言葉を、胸の内で、繰り返した。小さきものの裏に、大きな遅れが、隠れている。それは、まるで、あの東国の輪を、追っていたときの、信長の言葉に、似ていた。輪もまた、小さな帳面の、一枚一枚の、積み重ねであった。


「殿。他の湊からも、同じような、異存が出ましょう」

「出るであろうな」

「いかがなさいます」

「一つずつ、潰す。升で異存が出れば、升の話で、答える。銭で異存が出れば、銭の話で、答える。一気に、すべてを、変えようとすれば、どこかで、必ず、綻びる」

 光秀は、深く、頭を下げた。その答えの中に、これまでの信長には、なかった、ある種の、辛抱強さを、光秀は、確かに、見て取っていた。急がず、しかし止まらず。一つずつ、確実に、潰していく。その姿勢が、光秀の胸に、静かな緊張を生んだ。


 昼下がり、光秀が、堺からの、急ぎの文を、持って来た。目方掛の一人が、密かに、堺の商人筋に、升の一件を、漏らしていたという。堺の商人たちは、いち早く、新しい升に、合わせた荷造りを、始めているとの、知らせであった。文には、堺の職人が、すでに、新しい升の型を、三つ、作り終えたことまで、記されていた。他の湊より、明らかに、速い動きであった。光秀は文を差し出しながら、少し息を整える。


「殿。堺の商人が、先んじて、動いております」

「早いな」

「はい。褒美の話を、聞きつけたのでございましょう」

 信長は、その報告に、微かに、口の端を、上げた。

「良い。褒美は、餌ではない。速さを、競わせる、種火だ」

「種火、にございますか」

「一つの湊が、速く動けば、他の湊も、後れを取るまいと、動き出す。わしが、いちいち、急かさずとも、勝手に、競い合う。それでよい」


 夕刻、信長は、堺から届いたばかりの、備前の刀鍛冶の元締めからの文を、開いた。関所の話であった。関銭を、百二十文から、一律、八十文に下げる代わりに、荷の検めを、簡略にできぬか、という、問い合わせであった。信長は、その文を、しばらく、読み返した。紙の端を、指で軽く叩く。


「光秀。関所の話も、来たか」

「はい。升の一件が、城下に伝わり始めたようにございます。他の湊、他の関所からも、次々と、似たような文が、届いております」

「良い兆しだ」

「良い兆し、にございますか」

「升一つを、変えただけで、皆、他の障りにも、気付き始めた。一つを、揃えれば、次の障りが、見えてくる。それが、道理というものだ」


 信長は、文机の隅に、新しい紙を、一枚、広げた。升。銭の目方。関銭。荷の検め。船頭の腕。これまで、聞いてきた、幾つもの障りを、順に、書き並べていく。どれから、手をつけるか。どの順で、崩していくか。それを、一つひとつ、吟味していく。筆の音が、静かに響く。墨の匂いが、部屋に薄く広がる。


 升の下に、線を引く。今、着手。関銭の下にも、線を引く。次。荷の検めは、その次。船頭の腕は、さらにその次。順序を、決めるだけで、頭の中の、もつれが、少しずつ、解けていくようであった。一度に、すべてを、変えようとすれば、どこかで、必ず、綻びる。だが、順を、決めて、一つずつ、片付けていけば、綻びは、生まれにくい。信長は、その紙を、しばらく、見つめていた。


 夜が更けても、信長は、その紙を、離さなかった。灯明の炎が、幾度も、瞬いた。油が減り、炎がわずかに小さくなる。光秀は、それを見て、初めて、気付いた。これは、戦支度ではない。だが、戦支度に、劣らぬほどの、緻密さで、進められている。城を攻めるための、兵糧の勘定と、道を通すための、升の勘定と。信長にとっては、もはや、同じ重さの、仕事であった。


「殿。かつての殿であれば、升のような、小さきことは、家臣に任せ、御自らは、次の戦へ、目を向けられたはず」

 信長は、紙から、目を離さず、答えた。

「かつては、そうであった。だが、升を、家臣に任せておっては、升が、揃わぬ。揃わねば、扇は、立たぬ。小さきことこそ、わしが、見ねばならぬ」

 光秀は、その言葉に、深く、頷いた。信長は、もはや、城を落とすことだけを、覇道とは、考えていなかった。升一つ、銭一つを、揃えることもまた、覇道の、一部であった。その認識の変化が、光秀には、はっきりと見て取れた。


 その姿は、これまでの、信長を、知る者たちが見れば、あるいは、奇異に映ったかもしれない。天下人が、升の反りを、気にかけている。だが、光秀には、それが、奇異には、映らなかった。むしろ、これまでの、どの信長よりも、恐ろしく、そして、頼もしく、映っていた。灯明の光が、信長の横顔を照らす。目は、紙の上の文字を、静かに追っている。


「光秀。升が揃うたら、次は、銭だ」

「銭、にございますか」

「堺の銭、兵庫の銭、播磨の銭——それぞれの目方が、違う。升と、同じ話だ」

「また、異存が出ましょう」

「出るたびに、潰す。それだけのことだ」

「殿。もし、升も、銭も、関所も、すべて、揃うたなら——その先は、何を」

 信長は、しばし、筆を、止めた。墨が、紙の上に、小さな点を落とした。

「その先は、まだ、見えぬ。だが、揃えていく、その道筋の先に、東国の輪に、並び立つだけの、何かが、あるはずだ」

 光秀は、それ以上、問わなかった。まだ、見えぬ、その先を、信長自身が、これから、探していくのだろうと、光秀は、感じ取っていた。


「殿。一つ、案が、ございます」

「申せ」

「升にも、銭にも、朝廷の御墨付きを、頂戴すれば、異存を唱える者も、減りましょう。年号を、絡めた触れにいたせば」

 信長は、筆を、置いた。しばらく、何も、言わなかった。光秀は、その沈黙に、わずかな、不安を、覚えた。信長の返答を、この夜、まだ、聞くことは、なかった。ただ、灯明の炎だけが、静かに、揺れ続けていた。炎の先端が、わずかに揺れるたびに、紙の上の文字が、明滅する。


 信長は、紙の上、升、と書いた文字を、しばらく見つめていた。まだ、升そのものは、揃っていない。だが、揃える道筋は、すでに、定まっていた。指先が、次の文字——銭、という一字の上に、そっと置かれる。その感触を確かめるように、指が、わずかに動く。


 窓の外では、琵琶湖の水面が、月明かりの下で、静かに、揺れていた。城下では、升の型を彫る、鉋の音が、遅くまで、続いていた。木屑の匂いが、風に乗って、書院にまで、微かに、漂ってくる。安土の書院には、まだ、灯明が、一つ、灯っていた。信長は、紙の上の、銭、という一字から、目を離さなかった。


 東国の輪は、今夜も、誰にも気付かれぬまま、静かに、巡っている。だが、西国では、升一つを、揃えるだけのことで、これほどの、手間と、時と、人の心が、動いている。信長は、それを、億劫だとは、思わなかった。むしろ、この、一つひとつの、小さな摩擦こそが、扇の骨を、太くしていくのだと、確かに、感じ始めていた。


 光秀は、廊下の隅で、主の背中を見続けていた。升の話から始まり、銭の話へ、そして朝廷の案へと続く、この夜のやり取りを、光秀は胸に刻んでいた。信長は、まだ答えていない。その沈黙が、何を意味するのか。光秀には、まだ、はっきりとは分からなかった。だが、その沈黙の重さだけは、確かに、感じ取っていた。


 安土の夜は、深く、更けていった。鉋の音が、やがて、遠ざかる。城下の明かりが、一つ、また一つと、消えていく。だが、書院の灯明だけは、まだ、消える気配がなかった。信長は、紙の上に書かれた文字を、順に、指で辿っていた。升。銭。関銭。荷の検め。その先に、何があるのか。まだ、見えぬ。だが、見えぬからこそ、面白い。その想いが、信長の胸の内に、静かに、灯っていた。


 東の国では、今夜も、誰の名も伴わぬ紙が、宿場から宿場へと、渡されていく。西の国では、升一つを揃えるために、職人が木を削り、役人が文を書き、商人が次の荷を考えている。二つの国で、まったく違う時間の流れ方が、静かに、並んでいた。信長は、その違いを、はっきりと、意識していた。そして、その違いを、埋めようとも、壊そうともせず、ただ、己の道を、一本、引き始めていた。


 灯明の炎が、また、小さく揺れた。信長は、筆を取り、紙の端に、小さく、何かを記した。誰にも読めぬ、ただの印である。だが、その印が、この夜の終わりを、静かに、告げていた。

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