第二百話:魔王再起
第二百話:魔王再起
三日が過ぎた。
安土の書院には、まだ、あの夜の空気が残っていた。信長は、報告書の山を、崩さぬまま、机の端に置き続けていた。手に取ることは、もう、なかった。代わりに、光秀が持ち帰る、別の種類の報告を、毎日、待っていた。障子の外では、いつも通りの朝が、いつも通りに過ぎていく。だが、書院の中の時間だけは、まだ、あの夜から、動いていなかった。
光秀が、書院に姿を見せたのは、朝も、だいぶ進んでからであった。廊下を歩く足音が、これまでより、幾分、速い。障子を開ける手つきにも、隠しきれぬ気配があった。
「殿。設楽原の後に、あの男の傍らにいた者が、見つかりました」
光秀が、書院に入るなり、そう告げた。声には、これまでにない重みがあった。信長は、初めて、顔を上げた。
「誰だ」
「旧臣の一人にございます。今は、越前で名を変え、暮らしております」
「連れて参ったか」
「いえ。連れては参りませぬ。会うて、話を聞いて参りました」
信長は、それ以上、咎めなかった。光秀の判断を、信じていた。
「何を語った」
光秀は、しばらく、言葉を選ぶように黙っていた。それから、静かに、語り始めた。
「はっきりとは、申せませなんだ」
「はっきりとは、とは」
「あの方が何を考えていたのか、傍にいた者にも、よく分からなかった、と。ただ、毎朝、帳面を見ていた、と。荷のこと、紙のこと、道のことを、よく問うていた、と。それだけにございます」
「策は、語らなんだか」
「一度も。戦のことも、天下のことも、ほとんど口にしなかったそうです。ただ、数字を確かめ、頷き、また次の帳面を、見る。それだけの日々であった、と」
信長は、しばらく、黙っていた。それは、これまで聞いてきた、どの報告よりも、乏しい話であった。策も、野心も、覇気も、何一つ、語られていない。ただ、帳面と、数字と、荷の話だけである。だが、その乏しさこそが、かえって、信長の胸に、重く残った。何かを隠しているようには、見えなかった。むしろ、本当に、それだけしか、なかったのではないか。信長は、そんな気さえした。
「もう一つ、ございます」
「申せ」
「その旧臣は、最後に、こう申しておりました。——それなりに長く、傍におったが、あの方が、何をなさろうとしていたのか、今もって、分からぬ、と」
信長は、目を閉じた。分からぬ。傍にいた者すら、分からぬと言う。ならば、自分が、たった数日の詮議で、その正体を掴めるはずもなかった。だが、不思議と、信長の中に、焦りはなかった。
光秀は、さらに、続けた。
「殿。他の者たちからも、似たような話ばかりでございます。会津の紙が流れる。越後の青苧が届く。佐竹が動く。北条が動く。商人が動く。宿場が動く。子供が数字を覚える。なのに——」
「なのに、何だ」
「誰も、あの男が何をしたのか、説明できないのでございます。戦をしたわけでもない。城を取ったわけでもない。金を配ったわけでもない。命令したわけでもない。ただ、全部が、動いている、としか申せませぬ」
信長は、しばらく、答えなかった。それから、ゆっくりと、絵図面を開いた。会津。越後。佐竹。北条。甲斐。信濃。上野。そこには、武田の旗が、どこにも見当たらない。なのに、動いている。信長は、絵図の上に、手を置いた。城を取るでもない。敵を討つでもない。ただ、人が、明日も生きるための道だけが、そこには、描かれていた。
書院の外では、琵琶湖から吹き込む風が、障子を微かに揺らしていた。朝の市へ向かう荷車の音が、遠くから聞こえてくる。馬の足音。人の声。生きている者たちの音である。信長は、その音を聞きながら、絵図を見つめたまま、しばらく、動かなかった。
「……あの男が、おらずとも、動くのか」
小さく、呟いた。ほとんど、独り言であった。光秀は顔を上げたが、信長は、答えなかった。
その夜、信長は、久方ぶりに、東国の輪を、指でなぞらなかった。指先は、代わりに、西へと動いた。堺。摂津。播磨。備前。これまで、征服の対象としてしか見てこなかった土地の名を、信長は、違う目で、見つめていた。
「光秀」
「は」
「わしは、これまで、勝った国から、年貢を取り、兵を出させることしか、考えてこなかった」
「それが、乱世の理にございます」
「だが、それだけでは、あの輪には、追いつけぬ」
光秀は、黙って、次の言葉を待った。
「西国の商人を、集めよ。堺だけではない。播磨も、備前も、備中もだ。荷を扱う者、金を扱う者、船を持つ者、すべてだ」
「……また、手形をお調べになるのですか」
「いや」
信長は、首を振った。
「調べるのは、もうよい。わしは、作る」
その一言は、短かったが、これまでの、どの下知よりも、重く、書院の中に落ちた。光秀は、しばらく、その言葉の意味を、噛みしめるように、黙っていた。
光秀は、思わず、息を呑んだ。
「作る、と仰せか」
「ああ。東国の輪を、崩すのではない。西に、別の輪を、作る。あの男の真似はせぬ。堺の力を使う。船の力を使う。銭の力を使う。わしにしか作れぬ形で、作る」
「殿は……あの男に、追いつこうとなさっておられるのですか」
信長は、少し、笑った。
「追いつく、ではない。並ぶ、でもない」
「では」
「わしは、わしの形を、作る。それができねば、あの男の作った輪は、いずれ、この国そのものを、飲み込むであろう。土地を取らずとも、旗を立てずとも、な」
光秀は、その言葉に、わずかに、背筋を正した。信長が、これほど明確に、あの輪の恐ろしさを、言葉にしたことは、これまでになかった。
光秀は、しばらく、言葉が出なかった。これまでの信長は、常に、敵を、刃で断つことを、第一に考えてきた。だが、今、目の前にいる信長は、刃を、一度も、口にしていない。
「殿。それは……何年、かかりましょうか」
「分からぬ」
信長は、即座に、答えた。
「三年か。十年か。あるいは、もっと長くか。だが、時をかけることを、わしは、恐れぬ。恐れておれば、今、ここで、動けぬ」
信長は、絵図面の上、堺の一点に、指を置いた。これまで、幾度となく、その地を、銭のための道具としてしか、見てこなかった。だが、今、その指先には、違う意味が宿っていた。
「光秀。今日より、東国のことは、ひとまず、置け」
「よろしいのですか。あの輪は、まだ」
「あの輪は、逃げぬ。慌てて崩そうとすれば、かえって、こちらが崩れる。今は、わしの形を、作ることに、力を注ぐ」
光秀は、深く、頭を下げた。これまでの詮議とは、まったく違う、新しい下知であった。だが、その声には、迷いがなかった。
翌朝、安土の城下に、新たな触れが出た。堺、播磨、備前、備中——これまでとは、まったく違う顔ぶれの商人たちが、次々と、召集の使いを受け取った。城下の者たちは、また、戦の触れではないことに、戸惑いを見せた。だが、今度の使いの足取りには、これまでの詮議のときとは、違う、どこか浮き立つような気配があった。詮議のための召集ではない。何かを、これから始めるための召集である。その違いを、城下の者たちも、どこかで、感じ取っていた。誰も、まだ、何が始まるのかを、正しくは、知らなかった。ただ、何か大きなものが、動き始めていることだけは、皆、肌で感じていた。
書院に、堺の商人が、真っ先に姿を見せた。今井宗久の名代である。
「殿の御用向き、なんなりと」
「船を、どれほど動かせる」
名代は、少し、驚いたような顔をした。
「殿がお望みとあらば、堺の船は、いくらでも動きましょう。ただ……湊ごとに、税の掛け方が、違いまする。それを、一つに、揃えねば、船は、思うようには、動きませぬ」
信長は、その答えに、わずかに、目を細めた。税の掛け方を、揃える。それは、あの東国の輪が、していたことと、恐らくは、同じ構造であった。
「揃えよ」
「はっ」
「わしが、揃える。湊ごとの利は、これまで通り、認める。だが、道は、一つにする」
「今一つ、聞きたい」
「は」
「船の頭たちは、わしの名で、動くか。それとも、銭でしか、動かぬか」
名代は、少し、考えてから、答えた。
「銭で動く者も、おりましょう。されど、殿の御名であれば、それだけで、動く者も、少なくございませぬ」
「両方、要るということか」
「はい。銭だけでは、いずれ、離れまする。名だけでも、いずれ、飽きまする。両方が、揃うて、初めて、長く続きまする」
信長は、その言葉を、静かに、聞いていた。銭と、名。両方が、揃って、初めて、長く続く。それもまた、あの東国の輪が、体現していたことと、恐らくは、同じであった。
その日のうちに、次々と、商人たちが、書院を訪れた。播磨の廻船問屋。備前の刀鍛冶の元締め。備中の米問屋。一人、また一人と、信長の前に座し、同じ問いを、受けた。何を運べるか。何が足りぬか。何を揃えれば、道が、通るか。それは、これまでの、征服のための問いではなかった。作るための、問いであった。中には、戸惑う者もいた。年貢の話でも、軍役の話でもない。ただ、荷と、道の話ばかりを、殿が問うてくる。それが、何を意味するのか、正しく飲み込めぬまま、それでも、皆、正直に、答えていった。信長は、その一つひとつを、丁寧に、聞いた。急かすことも、遮ることも、しなかった。
夜、書院に戻った信長は、絵図面の上に、新たな線を、引き始めた。堺から播磨へ。播磨から備前へ。備前から備中へ。東国の輪とは、また違う形の、道であった。円環ではない。堺を要とした、扇の形であった。
「光秀」
「は」
「あの男の輪は、円だ。中心が、見えぬ」
「はい」
「わしの道は、扇だ。要に、わしがおる」
光秀は、その言葉に、深く、頷いた。信長は、あの男の真似を、していない。あの男の作ったものを、正面から見て、それでもなお、己の理を、別の形で、作ろうとしている。
「殿。これは……天下布武の、新しい形にございますな」
「そうだ。これまでの天下布武は、刀で、道を切り開くものであった。だが、これからの天下布武は、道そのものを、作るものだ」
「されど殿。これは……何年で成りましょうや」
「分からぬ、と言うたはずだ」
信長は、絵図面から、目を離さぬまま、答えた。
「だが、わしが生きておるうちに、成らずとも構わぬ」
光秀は、耳を疑った。信長が、自らの生涯の内に、成らずともよい、と口にしたことなど、これまで、一度もなかった。
「殿が、それを、仰せになるとは」
「わしとて、驚いておる」
信長は、微かに、笑った。
「これまでは、わしがおらねば、何も成らぬと、思うてきた。だが、あの男は、傍にいた者にすら、何をしたのか、分からせなんだ。それでも、東国は、回っておる。ならば、わしの道も、わしがおらずとも、回るようにせねばならぬ」
光秀は、深く、頭を下げた。この夜、光秀は、これまでとは、違う信長を、見ていた。分からぬ、と呟いていた男が、今は、分からぬままで、動き出している。それは、恐れではなかった。むしろ、これまでのどの戦支度よりも、静かで、確かな気配であった。
「面白い」
信長は、久方ぶりに、その言葉を、口にした。だが、その響きは、これまでの、どの夜の「面白い」とも、違っていた。獲物を見つけた、猟師の言葉ではない。まだ見ぬ道を、前にした者の声であった。
「光秀」
「は」
「わしは、まだ、分かっておらぬ」
光秀は、顔を上げた。
「何故、あの輪が回るのか。何故、誰も命じぬのに動くのか。何故、あの男がおらずとも、続くのか」
信長は、絵図を見た。指先が、堺の一点を、軽く叩く。
「だが——分からぬからこそ、面白い」
「分からぬなら、作ってみればよい。その先に、何があるか、見てみたい」
窓の外では、琵琶湖の水面が、月明かりの下で、静かに揺れていた。東の国では、今夜も、誰の名も伴わぬ紙が、静かに巡っている。だが、安土の書院には、もはや、あの夜の、重い沈黙はなかった。代わりに、何かが、新しく、動き始める気配だけが、静かに、満ちていた。
「光秀。明日から、忙しくなるぞ」
「は」
光秀は、短く答えた。その声には、これまでにない、張りがあった。
信長は、墨を、取り上げた。
絵図の上。堺から、播磨へ。播磨から、備前へ。備前から、備中へ。
新しい線が、一本、引かれた。
まだ、細く、頼りない線であった。
だが、確かに、そこに、引かれた。
安土の夜は、深く、更けていった。




