第百九十九話:東国平常
第百九十九話:東国平常
安土の翌朝は、いつもと変わらぬ明るさで訪れた。
書院の障子は開け放たれ、琵琶湖から吹き込む風が、昨夜の灯明の匂いを少しずつ押し流していた。
信長は、机の前に坐したまま、報告書の束に手を置いていた。朝餉にもほとんど箸を付けず、再び書院へ戻ってきたばかりであった。一番下に差し入れた紙片の感触が、まだ指先に残っているようであった。指の腹に、紙の乾いた縁がわずかに食い込んでいる。
光秀は、すでに動いていた。勝頼の傍らにいる者たちを洗うための触れが、静かに城下を走り始めていた。廊下を歩く足取りに、昨夜の重さがわずかに影を落としていた。安土の城下では、使いが商人の宿を回り、宿場役人を呼び、報告を待っている。紙を追う動きが、まだ続いている。光秀は、廊下の隅で、その気配を感じながら、主の背中を見ていた。信長の姿勢は、昨夜と寸分違わない。報告書の束に手を置いたまま、動かない。指先に残る紙片の感触だけが、この部屋の時間を繋いでいるようであった。
同じ頃、東国では、まったく別の時間が流れていた。
甲斐の国境に近い、ある宿場の朝である。
荷車が三台、すでに到着していた。青苧を積んだ車と、塩を積んだ車と、空の車である。宿場の役人が、手形を受け取ると、慣れた手つきで帳面に照合した。朱印を目で追い、指で縁を確かめる。数字を声に出さず読み、帳面の該当欄と見比べる。問題がなければ、筆を執って通行記録を写し、小さな木札に次の宿場名を書いて荷に掛ける。木札の紐を結び、荷の端にしっかり固定する。その一連の動作に、迷いはない。朝から何度も繰り返してきた手順である。次の商人が手形を差し出す。役人は、また同じ手順を繰り返す。朱印、数字、帳面、木札。特別なことは何もない。朝日が、宿場の屋根を照らしている。瓦の隙間から細い光が落ち、土間の埃を白く浮かせている。馬のいななきと、荷を下ろす音が、静かに響いている。
商人の一人が、役人に声をかけた。
「この紙、少し薄いな。会津のか」
「ああ。切れにくくなった代わりに薄くしたらしい。扱いやすいぞ」
「雨の日に助かる。前のは湿ると重くなってな」
「持ち歩きやすいしな。数字さえ合っていれば問題ない」
役人は、手形を帳面に挟み、次の荷の準備に移った。商人は、荷の積み替えを指示し、腰の茶筒から一口飲んだ。茶はすでにぬるい。商人は、湯呑みを膝に置き、次の車の荷縄を確かめた。縄の結び目が緩んでいないか、指で一つひとつ押さえていく。
宿場の奥では、別の役人が、今日到着した荷の明細を帳面に写していた。青苧の束数、塩の袋数、空車の台数。一つひとつ声に出さず数え、筆を走らせる。隣の役人が、茶を淹れながら声をかける。
「今日は滞りが少なかったな」
「ああ。紙が揃っておるからな。数字さえ合えばすぐ通せる」
「楽になったものだ」
「楽になった」
二人は、それ以上何も言わなかった。茶を飲み、帳面を揃え、次の仕事に移る。
少し離れた蔵では、蔵役人が、届いた青苧の確認をしていた。束を一つひとつ数え、荷札の数字と照合する。合っていなければ、すぐに声を上げる。合っていれば、小さな木印を押し、蔵の奥へ積み替える。隣の蔵役人に声をかける。
「会津からの分は、数字合ってるか」
「合ってる。紙も揃ってる。二十束足りない分は、奥に積んである」
「じゃあ、このまま下野へ回す」
「ああ」
二人は、それ以上何も語らなかった。ただ、数字が合っていることを確かめ、荷を動かす。蔵の中は、埃と青苧の匂いが混じっている。窓から差し込む光が、積み上げられた束を照らしている。
宿場のすぐ脇に、小さな市場が開いていた。魚売りが、今朝獲れた鮎を並べている。草履直しが、古びた草履を膝に乗せて糸を通している。飴を売る者が、小さな鍋を揺すりながら、子どもたちに声をかけている。薬売りが、袋を並べ、通りがかりの者に軽く頭を下げる。
農婦が、魚売りに声をかけた。
「この鮎、新鮮そうだね」
「今朝の分だ。安くしておくよ」
「じゃあ、二つもらおうか」
農婦は、銭を渡して鮎を受け取った。隣で草履直しが、針を動かしながら、軽く会釈をする。飴の鍋から、甘い匂いが薄く漂っている。子どもが二人、飴をねだっている。売る者は、笑って小さな飴を一つずつ渡した。子どもたちは、嬉しそうに走り去った。
市場の奥では、井戸端に女たちが集まっていた。
「娘は元気か」
「春に会ったきりだよ」
「そうか」
「向こうで畑をやってるそうだ」
「それなら大丈夫だ」
女たちは、軽く頷き合った。井戸の水が、桶に落ちる音が、静かに響いている。それ以上の話は続かなかった。
少し離れた社では、神主が、朝の掃除をしていた。掃き集めた落葉をまとめ、手水舎の水を取り換え、鈴を軽く鳴らす。村人が一人、通りがかりに手を合わせ、軽く頭を下げて去っていく。神主は、それに小さく頷き、また掃きを続ける。鈴の音が、薄く朝の空気に溶けていく。
宿場の外れでは、桶屋が木を削っていた。鉋を引く音が、一定の調子で響いている。削られた木屑が、足元へ薄く積もる。若い弟子が尋ねた。
「親方、その桶はどこへ」
「酒屋だ」
「前のも酒屋でしたな」
「前のも酒屋だ」
弟子は頷いた。親方はまた鉋を引く。木の香りが広がる。完成した桶が一つ、壁際へ並べられた。その隣にも。さらにその隣にも。どれも同じ形である。親方は数えない。酒屋が来れば渡す。来なければ置いておく。それだけであった。
寺の一室では、子供たちが板に字を書いていた。手には板切れと筆がある。
「今日は何を書いた」
「数字だ」
「また数字か」
「難しいんだよ」
「ぼくはまだ途中だ」
「わたしはもう覚えた」
子どもたちは笑った。宿場の前を荷車が通る。だが誰も振り返らない。荷車は荷車でしかない。馬は馬でしかない。子どもたちにとっては、筆の方が大事であった。一人が板切れを落とした。別の子が拾って渡す。また歩き出す。その横を荷車が過ぎていく。車輪が土を軋ませる。誰も気にしない。子どもたちは、家の方角へ分かれ始めた。一人が振り返って手を振り、また走り出す。筆を握った手が、小さく揺れている。板切れに書かれた数字が、夕陽に照らされて、薄く光っている。
寺では、最後の子供が帰った後も、師匠が机に向かっていた。今日使った手本を重ねる。墨を片付ける。筆を洗う。庭では蝉が鳴いていた。師匠は一枚の板切れを手に取った。子供の書いた数字である。少し曲がっている。だが読める。師匠は微かに頷き、板を棚へ戻した。来月にはもっと上手くなるだろう。それだけを思った。
鍛冶屋では火が落ち始めていた。若い弟子が鞴を止める。親方が鋤先を水へ浸した。じゅっと音がする。弟子が尋ねた。
「明日も鋤ですか」
「明日も鋤だ」
「刀ではなく」
「頼まれれば打つ」
親方は短く答えた。鋤先を並べる。今日仕上げた分である。村には田がある。田がある限り鋤は減らない。それだけであった。
午後になっても、流れは変わらなかった。蔵では、塩の荷が降ろされていた。商人が手形を差し出し、蔵役人が帳面と照合する。朱印は同じである。数字も問題ない。すぐに受け取る。塩の袋が、次々と蔵の中へ運び込まれる。若い荷車引きが、息を整えながら、次の指示を待っている。年配の商人が、軽く声をかける。
「急ぐな。数字が合っていれば、それでいい」
「はい」
若い荷車引きは、頷いて、また荷を担いだ。蔵の外では、馬が低くいなないている。風が、屋根を撫でていく。
夕方近く、家々では夕餉の支度が進んでいた。井戸端で話していた女たちも、それぞれの家へ戻っている。竈では薪がはぜ、鍋の蓋がかたかたと揺れている。昼に買った鮎が焼かれ、味噌の匂いが漂う。男が仕事から戻り、土間で草履を脱いだ。
「今日はどうだった」
「いつも通りだ」
男は答える。それ以上の話は続かない。子どもが鮎を指差して声を上げる。女が笑う。男が箸を取る。外では、まだ少しだけ子どもたちの声が聞こえている。だが、それもすぐに途絶えた。どこの家も似たようなものであった。食べて、片付けて、眠る。明日になればまた働く。家の中では、鮎の塩焼きが焼け、味噌汁が煮立っている。子どもが箸を上手に持てず、女が手を添える。男は黙って飯を掻き込む。特別な会話はない。今日の仕事の話も、遠い国の話も出ない。ただ、今日の鮎を食べ、今日の仕事を終え、明日の朝を待つだけである。隣の家からも、似たような話し声が漏れ聞こえてくる。食器の当たる音、子どもの笑い声、大人の低い返事。それらが、夕方の通りに薄く広がっている。誰も、西の国で何が起きているかなど、考えていない。誰も、手形の数字がどこから来たのかなど、気にしていない。ただ、今日の夕餉を食べているだけである。
宿場の一角では、産婆が呼ばれていた。若い女が産気づいたのである。家の前では夫が落ち着かず歩き回っていた。やがて泣き声が聞こえた。赤子である。夫は深く息を吐いた。近所の女たちが笑う。
「男だったか」
「女だ」
「元気ならどちらでもいい」
夫も笑った。それだけであった。赤子の泣き声が、夕方の通りに薄く広がっていく。誰も、特別な時代に生きているとは思っていない。ただ、新しい命が生まれたことを、静かに喜んでいるだけである。
宿場では、残っていた商人たちが、最後の手形を確認し、明日の行き先を帳面に書き写している。役人が、今日の通行記録をまとめている。朱印の数を数え、数字を確かめ、頁を閉じる。特別な報告はない。滞りもなかった。市場では、魚売りが残った鮎を包み、草履直しが道具を箱にしまい、飴を売る者が鍋の火を消している。家々の竈から、夕餉の煙が上がり始めている。社では、神主が小さな灯明を灯している。炎が、風に揺れて、また安定する。村人が一人、通りがかりに手を合わせ、静かに去っていく。子どもたちが、最後の遊びを終え、家の中へ消えていく。犬が、通りの真ん中で座り、欠伸をする。
軒先に酒甕が並び、刀を差した男が二人、黙って盃を傾けていた。会話はほとんどない。盃を置き、また飲む。それだけである。宿場の外には、古い土塁の影が薄く残っている。誰も、それを特別に意識してはいない。
旅人が一人、宿へ入った。草鞋は泥に汚れている。宿の女将が湯を出した。旅人は礼を言い、一息つく。
「どちらから」
「北だ」
「遠いな」
「遠い」
それだけで会話は終わった。旅人は飯を食う。宿の者は片付ける。外では荷車が最後の音を立てていた。旅が普通になっている。誰も、それを特別なこととは思っていない。
夜が更けた。
甲斐の宿場では、夜番の役人が、最後の手形を確認していた。灯火の下で、朱印を確かめ、数字を確かめ、帳面に記す。灯火が、紙の表面を赤く照らしている。朱印の縁が、炎の揺らぎに合わせてわずかに明滅する。役人の指が、印の上を一度だけ撫でた。薄い紙である。会津で少し変えたという、あの紙だ。扱いやすい。嵩張らない。紙の端を指で撫で、数字をもう一度確かめる。
役人は、帳面を閉じた。灯火を少し暗くする。机の端には、昼に受け取った手形が、まだ一枚残っていた。明日の朝、次の宿場へ回す分である。役人はそれを帳面に挟み、立ち上がった。外では、風が吹いていた。宿場の屋根を、夜風がゆっくりと撫でていく。馬小屋では、馬が低くいなないている。軒下の提灯が、風に揺れて、小さな影を地面に落としている。
役人は、戸を閉め、灯火を消した。机の上に残された手形は、もう、そこにはなかった。帳面の中に、静かに収まったままである。
夜の宿場は、静かに眠りの時間を迎えようとしていた。風の音だけが、屋根の上を通り過ぎていく。提灯の火が、風に煽られて小さく揺れ、また安定する。宿場の屋根の上を、雲がゆっくりと流れていく。月はまだ出ていない。闇だけが、静かに広がっている。
役人が戸を閉めた後、宿場の表通りは、ほぼ静まり返っていた。残っているのは、風の音と、時折聞こえる馬の足音だけである。役人が戻ってきた机の上には、もう何もない。帳面は棚に戻り、手形は中に収まっている。明日の朝、別の役人が同じ机に座り、同じ手順で同じ印を確かめるだろう。宿場の犬が、一度だけ低く吠えた。すぐに静かになった。夜は、さらに深くなる。
夜の家々では、灯が一つずつ消えていった。犬は軒下で丸くなっている。子どもは眠っている。女は明日の支度を終えた。男は戸締まりを確かめた。風が吹く。それだけである。宿場の誰も、自分が特別な時代に生きているとは思っていなかった。明日も同じ朝が来る。明日も荷は動く。明日も市場は開く。そう思って眠りについた。
安土では、灯火がなかなか消えない。光秀は、廊下の隅で主の背中を見ていた。信長の前には報告書が積まれている。
だが、その山はほとんど変わっていなかった。信長は、紙を読んでいるのではない。
考えていた。報告は届いている。答えだけが届かない。
分からぬ、と言った夜は、まだ終わっていなかった。東の国では、同じ頃、別の時間が流れていることを、この部屋の者たちは知らなかった。




