第百九十八話:魔王追跡
第百九十八話:魔王追跡
光秀が動いたのは、その日のうちであった。堺の商人だけでは足りぬ。京、近江、伊勢——東国の荷に触れたことのある者は、身分を問わず呼べ。信長の言葉は短かったが、その短さの中に、これまでにない性急さがあった。戦を前にした性急さとは違う。刃を研ぐ音ではなく、紙をめくる音を急いでいる。光秀はそれを、まだうまく飲み込めぬまま、家臣に触れを出した。
触れが出た夜のうちに、安土の城下は、いつもとは違う気配に包まれた。商人たちの宿に、次々と使いが走る。何用か、と問う者もいたが、光秀自身、はっきりとした答えを持たなかった。城下の者たちは、戦の触れではないことに、かえって落ち着かぬ様子を見せた。刃の気配のない召集ほど、不気味なものはない。
書院に商人と宿場役人が集められたのは、一日ではなかった。近江から駆けつけた者は三日で戻ったが、京の伝手を頼った者は五日を要し、遠く伊勢まで確かめに走った者に至っては、十日近くを要した。報告は、一度に揃ったのではない。途切れ途切れに、思い出したように届いた。その断続の中で、信長は、ひとつひとつの紙片を、机の上に積み重ねていった。
最初に戻ってきたのは、近江の宿場役人であった。東国の手形を受け取る際、必ず特定の帳付けに照合すると言う。その帳付けは、越後から届く。誰が作ったものかと問えば、役人は首を振った。
「それが……越後の蔵元から、そのまま回ってくるとしか」
「いつから、使われておる」
信長が問うと、役人は困った顔をした。
「気づけば、でございます」
「気づけば、とは」
「はい。最初は越後だけであったようにも思いますが……いや、会津の方が先であったやもしれませぬ」
役人自身、首を傾げていた。誰も、始まりを覚えていない。信長は、それ以上問わなかった。頷いただけであった。だが、その頷きには、これまでの詮議にはない、微かな苛立ちが滲んでいた。
その夜。信長は寝所へ戻った。だが、眠れなかった。瞼を閉じるたび、越後、会津、という地名だけが、浮かんでは消えた。誰の顔も浮かばない。ただ、土地の名だけが、暗闇の中を、ぐるぐると巡り続けた。信長は、幾度か寝返りを打ち、やがて、それを諦めて、再び灯明に火を入れた。
翌日、別の商人が戻った。会津で聞いた話を、そのまま語った。会津の蔵元は、常陸から届く紙をそのまま使っている、と。信長は、この報告を、前の報告とは並べなかった。机の端に、別に置いた。まだ、繋げるべきかどうか、判じかねていた。
五日後、下野から戻った商人が、さらなる報告を持ち帰った。下野の宿場は、会津から届く帳付けを基にしていると言う。
信長は、三枚の報告書を、初めて並べて見た。越後。会津。下野。指先が、それぞれの地名の上を、往復した。一度。二度。三度。やがて、信長は紙を並べ替えた。順が違うのではないかと思ったのである。だが、並べ替えても、結果は変わらなかった。再び元へ戻す。また並べる。灯明の火だけが、小さく揺れていた。
光秀は、口を開かなかった。主が今、何かを追っていることだけは分かる。だが、それが見つかったのか、それとも見失ったのか、そのどちらなのかすら、判然としなかった。
やがて、信長は、報告書を閉じた。そして、珍しく——本当に珍しく——もう一度開いた。読み落としがあるのではないかと思ったのである。だが、何度見ても同じであった。越後は会津を指す。会津は常陸を指す。常陸は下野を指す。そして、下野は——会津へ戻る。文字は変わらない。数字も変わらない。変わらぬからこそ、気味が悪かった。
「光秀」
「は」
「これを見よ」
光秀は、三枚を並べて眺めた。しばらく、意味を掴みかねている顔であった。だが、やがて、その目に、静かな驚きが浮かんだ。
「……戻っております。下野から、また会津へ」
「そうだ。誰もが、隣を指す。隣もまた、隣を指す。ぐるりと巡って、また元へ戻る」
城なら、落ちる。人なら、死ぬ。だが、これは——信長は、ふとそう思った——これは、どこを斬ればよいのか。
信長は、ふと気づいた。誰も、嘘をついていない。それが、一番不気味であった。越後の者は、本当に会津と言う。会津の者は、本当に常陸と言う。常陸の者も、また同じである。皆が、正直に答えている。それなのに、元へ辿り着けぬ。
誰かが嘘をついているのであれば、まだ楽であった。嘘であれば、暴ける。裏切りであれば、斬れる。信長は、これまで幾多の嘘を暴き、幾多の裏切りを斬ってきた。それこそが、己の得意とするところであった。だが、これには、暴くべき嘘がない。斬るべき裏切りがない。皆が、本当のことを言うておる。その本当のことの積み重ねが、なぜか、誰にも辿り着けぬ輪を作っている。信長は、これほど厄介な相手を、これまで知らなかった。
信長は、すぐには信じなかった。近江の一件だけでは、まだ足りぬ。最初に近江を調べた者とは、別の者を、もう一度走らせた。最初に会津の話を聞いた商人とは、別の商人に、同じことを確かめさせた。人が嘘をつくなら、そこで綻びが出る。二人が別々に聞けば、答えは少しずつ違う形になるはずであった。だが、綻びは、出なかった。伊勢の問屋筋にも、京の蔵元にも、堺の古い商人にも、それぞれ別の筋から確かめさせた。いずれも、同じところへ行き着いた——行き着かぬ、というところへ。四方から迫っても、輪の中心は、そのたびに、するりと隣へ逃げていく。
信長は、報告書を、もう一度、端から並べ直した。越後、会津、常陸、下野。そして、また会津へ。円環の各点で、誰もが「元は隣から来る」と答えている。誰も、自分が元だとは言わない。誰も、命じられたとは言わない。それでいて、寸分違わず、同じ規格が行き渡っている。
「偶然ではない」
信長は、ようやく、それだけを口にした。
「そこまでは分かる。だが、誰かが作ったとも言い切れぬ。もし、誰かが作ったのであれば……なぜ、その名が、どこにも残っておらぬ」
光秀には、その言葉の意味が、すぐには掴めなかった。誰かが作ったのでなければ、何が作ったというのか。信長自身、その答えを、まだ持ち合わせていないようであった。
「わしには、まだ、分からぬ」
その一言は、これまでのどの夜よりも、重く書院の中に落ちた。分からぬ、と信長が口にすることは、めったにない。しかも、別の者を使い、四方から確かめ、それでも分からぬと言うのである。だが、その声には、恐れも焦りもなかった。むしろ、獲物が思いのほか手強いと知った猟師の、静かな昂りに近いものがあった。
光秀は、ふと思い出した。比叡山も。浅井も。朝倉も。主は、分からぬ相手を前にすると、まず力で答えを取りに行った。焼き、攻め、断ち切ることで、相手の正体を暴いてきた。だが、今は違う。答えを力ずくで取りに行くのではなく、答えの方へ、静かに歩いて行こうとしている。
光秀は、知っていた。信長が本当に怒る時、この主は静かになる。声を荒げるのは、まだ怒りが浅いうちだけである。本当に深く怒った時、信長は、恐ろしいほど物静かになる。だから、今夜のこの静けさに、光秀は最初、身構えた。だが、違った。これは、怒りの静けさではない。もっと別の、光秀がこれまで一度も見たことのない静けさであった。
「殿は……お怒りにはならぬのですか」
信長は、光秀の方を見て、わずかに口の端を上げた。
「怒る、か。分からぬ。だが、その分からなさが、わしの胸を冷やすことはない。むしろ逆だ。追えば追うほど、相手が遠ざかる。ならば、どこまで遠ざかるのか、見てみたい」
光秀は、悟った。これは、怒りではない。興味である。そして、光秀にとって、それは、怒りよりも、ずっと恐ろしいものであった。敵を見る時の主より、獲物を見る時の主の方が、恐ろしい。
夜が更け、灯明の油がまた減った。信長は、机の端に置かれた冷めた茶を、また手に取った。窓の外では、琵琶湖の水が、遠く風にざわめいている。城下は、すでに寝静まっていた。
「光秀。手形を集めよ、と命じたな」
「はい」
「それは、もうよい」
光秀は、思わず顔を上げた。
「……よろしいのですか。まだ、発行の元は」
「出てこぬ。四方から迫っても、逃げる。紙を追うのは、もう終わりだ」
「では、何を」
「あの男に会うた者を洗え。設楽原の後、誰と会い、何を語ったか。武士ではない。商人でもない。誰でもよい、あの男の傍らにおった者だ」
光秀は、深く一礼した。これまでの命令とは、明らかに種類が違っていた。物を追う命令ではない。人を追う命令であった。
深夜、信長は、ようやく絵図面を巻いた。だが、その仕草には、これまでの夜のような区切りの気配がなかった。
「光秀」
「は」
「わしは、これまで、追う相手が見えぬということが、なかった。城の主は、城におる。兵の将は、陣におる。見えぬ相手など、おらなんだ」
「今宵は、初めてだ」
それだけを言うと、信長は、机の上の報告書をすべて重ね、その上に手を置いた。
光秀は、ふと気づいた。この夜、信長は、一度も、勝頼の名を口にしていない。いつもであれば、話の最後には、必ず武田へ、勝頼へと、言葉が戻ってきた。だが、今夜は、違った。信長が見ているのは、もはや、甲斐の一人の男ではなかった。
「面白い、と昨夜、わしは言うた」
「はい、確かに」
「今夜も、同じだ。ただ、昨夜より、もう少し深い」
信長は、目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、勝頼の顔ではない。輪であった。顔のない輪。首のない理。それが、今夜、初めて、信長の前に姿を現した。そして、気づく。この輪は——まだ、自分を見てすらいないのかもしれぬ。
信長は、その考えに、自ら驚いた。これまで出会ったどの相手も、信長を倒そうとしていた。浅井も、朝倉も、本願寺も、武田も、皆、信長という一点を見て、そこへ刃を向けてきた。だが、この輪は、違う。信長を見ていない。倒そうとも、従おうともしていない。ただ、便利だから、回っている。それだけである。
わしが滅びようと、天下を取ろうと——信長は、胸のうちで、そう問うてみた——この輪は、変わらず回り続けるのではないか。
その問いに、信長自身、答えを持たなかった。これまで、己を世界の外に置いて物を考えたことなど、一度もなかった。城を攻める時も、兵を動かす時も、常に己が中心にあった。だが、この輪を思う時だけは、信長という男が、まるごと抜け落ちても、何も変わらぬような気がした。それは、信長という男が、これまでの生涯で、一度も味わったことのない感覚であった。
灯明の火が、わずかに揺れた。信長は、目を開け、机の上に重ねた報告書の、一番上の一枚に、目を落とした。端が、少しめくれている。そこには、ただ一行、宿場役人の筆で、こう記されているだけであった。
——元は、隣より来る。
それだけの、たった一行であった。輪も、理も、天下も、その一行の中には、どこにも書かれていない。ただ、隣、とだけある。信長は、その一行を、しばらく見つめていた。そして、その紙を、静かに、報告書の束の一番下へと、差し入れた。
窓の外では、琵琶湖の水面が、月明かりの下で、変わらず静かに揺れていた。東の国では、今夜も、同じ規格の紙が、誰の名も伴わずに、輪の中を流れ続けている。その流れの中心に、誰もいない。誰もいないのに、誰もが、同じ方を向いている。
信長は、灯明を吹き消さぬまま、しばらく目を閉じていた。光秀は、それ以上、何も問わなかった。ただ、廊下の隅に控えたまま、主の背中を見つめ続けていた。分からぬ、と主が言った。その一言の重さと、その分からなさを、どこか楽しんでいるらしい主の横顔の重さが、光秀の胸の奥に、いつまでも残っていた。




