第二十話:軍事停止
第二十話:軍事停止
遠江の要衝である二俣城が、ただの一兵も損なうことなく内部の疑心暗鬼によって自壊し、無血開城を果たした。
その衝撃の報せは、躑躅ヶ崎館の大広間を、一瞬にして底冷えのする緊張感へと変質させた。泥にまみれた使者が息も絶え絶えに語る、城内で起きた凄惨な同士討ちと守将の拘束という結末は、槍働きこそが武士の最大の誉れと信じて疑わぬ者たちにとって、勝利の喜びよりも先に、理解の及ばない不気味な謀を突きつけられた悪寒を呼び起こしていた。
彼らが長年信奉してきた戦とは違う、遠く離れた甲府の館で算盤を弾き、いくつかの見えざる噂を放っただけで、堅牢な城が勝手に崩れ落ちたというのだ。武勲を誇りとする歴戦の将たちの自尊心は、名状しがたき疎外感によってひどく傷つけられていた。
だが、その困惑をさらに深い底なしの混迷へと叩き落としたのは、上座に座す信玄に向かって、勝頼が放った信じ難い進言であった。
「父上。これより、西への軍事行動をすべて停止し、全軍をこの甲斐と信濃に留め置くべきかと存じまする」
勝頼の言葉は、あくまで主君の決断を仰ぐ静かな響きであったが、広間の空気を根底から揺さぶるような地鳴りの余韻を伴っていた。
「なっ……若殿、今、何と仰せられましたか」
真っ先に声を荒らげたのは、赤備えを率いる山県昌景であった。その小柄な体躯が激しい憤怒でわななき、膝の上に置かれた両拳が白く血ののぼるほどにきつく握りしめられる。
「今、二俣の堅城が落ち、徳川の喉元は完全に我が軍の前に晒されたのですぞ。織田の援軍が整わぬうちに、このまま一気の勢いで遠江から三河を呑み込み、京の都へ風林火山の旗を立てる。これこそが御館様が長年温められ、我ら武田の将兵が日夜切望してきた乾坤一擲の機。それを自ら立ち止まって見送るなど、もはや正気の沙汰とは思えませぬ」
昌景の激昂に、広間に居並ぶ馬場信春や内藤昌豊ら歴戦の将たちからも、隠しきれぬ不満と怒りのざわめきが波のように広がった。彼らの信じる戦とは、勢いこそがすべてであり、敵の心が折れた勝利の直後の熱狂こそが、次なる勝利を呼び込む最大の好機であった。
しかし、勝頼は彼らの激しい熱量を、まるで遠い異国の児戯でも眺めるかのような、底冷えのする冷徹な眼差しで見下ろしていた。彼の瞳の奥には、目の前の猛将たちの興奮など微塵も映ってはいない。
「昌景。そなたが吠えているのは、戦場という狭い世界しか知らぬ現場の将の勝手な都合だ。わしが見据えているのは、父上の悲願を真に成し遂げるための強固な土台である」
勝頼は、傍らに控える跡部右衛門尉勝資に視線で合図を送った。若き文官である跡部が、古参の宿老たちの威圧に臆することなく恭しく広げたのは、領内の兵糧の備蓄量や荷駄の輸送力、そして銭の巡りを緻密な数字の網目として可視化した、全く新たな算術の帳簿であった。
「父上、そして血気に逸る諸将には、よく見てもらいたい。今の武田軍三万という大軍が尾張の国境を越え、はるか長きにわたって前線を維持し続けるための確固たる糧食の裏付けが、この甲斐のどこにありましょうか」
勝頼は、跡部が広げた書状の上を扇子の先で冷ややかに叩いた。
「真田昌幸に命じ、草の者を使って密かに集計させた最新の数字によれば、現在の我が軍の荷駄の輸送力と中継地の備蓄では、進軍からわずか二月で食い扶持の供給が完全に底を突く。腹を空かせた兵は、もはや国のために戦う兵ではありませぬ。ただの、武具を持った厄介な流民に成り下がるのだ」
「ならば、敵地で奪えば良いではないか」
穴山信君が、焦れったそうに大声で口を挟んだ。
「敵の領地へ踏み入り、その地の蔵を破って食糧を補いながら進む。それこそが我ら武家が古くから行ってきた戦の常道にござる。兵糧が尽きる前に敵を平らげれば済む話だ」
「それが、最も愚かで危うい欠陥だと言っているのだ」
勝頼の氷のような一言が、信君の反論を鋭く射抜いた。
「略奪を前提とした軍は、略奪が上手くいくかどうかに自らの進退を握られることになる。それはもはや、理で統制された軍とは呼べぬ。尾張の織田信長は既に、上方や堺の商人たちと結びついて富の循環を握りつつあるのだぞ。奴ならば、自らの領土をあえて焦土と化し、一粒の米も残さず焼き払って、わが軍に飢えという名の死を与える覚悟を平然と持っておる。補給を敵地に依存する戦など、初めから敵の掌の上で踊るも同然の愚行だ」
勝頼が語る緻密な論理は、武田の将たちが誇りとしてきた勇猛さや、戦場での臨機応変な働きを、軍を崩壊に導く統治上の欠陥として容赦なく切り捨てていた。
「さらに言えば、兵の質そのものが脆すぎる。今の武田軍の強さは、土地に根ざした国人衆の寄せ集めであることに過ぎぬ。領地を安堵されることで辛うじて繋がっているその絆は、ひとたび戦火が長引き自らの領地が脅かされれば、瞬時にして瓦解する。わしが求めるのは、土地という個人の私欲を切り離し、絶対的な法と掟によって動く常備兵の壁だ。それらを揃え、さらには領内の貨幣の信用を統一し直さねば、西の信長と激突することなど、一族郎党での無理心中と何ら変わらぬ」
評定の間は、反論の余地すら奪われた深い静寂に包まれた。
山県昌景や馬場信春は、己の顔から血の気が引いていくのを感じていた。自分たちが誇りとし、命を捧げてきた武田の戦とは、ただの未熟で非効率な野蛮の遊びだったというのか。その絶対的な疎外感と、とうてい理解の及ばぬ理性の格差が、心に正体不明の恐ろしい呪いのように刻み込まれていた。
勝頼はゆっくりと姿勢を正し、信玄を真っ直ぐに正視した。
病魔が五臓六腑を蝕む激痛を圧し隠し、信玄の猛虎の眼光はなおも鋭く光っていた。だが、その息遣いの合間に漏れるかすかな喘鳴を、勝頼の耳は決して逃さなかった。
(父上。あなたの寿命は、来年の春まで。長くて四月までもたない……)
勝頼の胸の奥底に、一度目の生で味わった凄惨な記憶が甦る。信濃の駒場で、冷たくなった父の骸にすがりついて泣いたあの日の絶望。己が策を急いだことで二俣城攻めよりいくらか早く開城に持ち込んだとはいえ、残された時間はあまりにも少ない。
本来であれば、土地に縛り付く国人衆の寄せ集めであるこの危うい軍を完全に解体し、兵と農を分け、揺るぎない法治の国へと造り替えるには、途方もない年月が必要だ。
(間もなく父上が身罷られた後、同様ならば遺言として武田は国主の死を秘匿し、三年のあいだ喪に服すことになろう。そうなればわしは、その三年という月日をすべて使い、この国を根底から解体し、強固な理の国へと生まれ変わらせるつもりだ。それだけの絶対的な時間が欲しい。だが……)
勝頼の冷徹な思考が、現実の厳しさを正確に弾き出している。
目前で反発する山県や馬場ら誇り高き猛将たちを、無理やりにでも冷徹な法の枠に押し込めるためには、ただ自分が当主となるだけでは足りぬ。武田信玄という絶対的な威光がどうしても必要なのだ。父が生きているこの期間という強大な傘の下で、旧体制の解体という大手術の初動を終わらせておかなければ、父の死後、喪に服す間に必ずや内乱が起きて武田は破綻する。
(だからこそ、父上の命の残滓であるこの時間だけ……少なくともこの半年間だけは、西への戦を止めて、国の骨格を造り替えるための準備期間を私に預けてほしいのだ。半年あれば、喪に服す三年の間に国を完全に造り替えるための地固めができる)
勝頼は深く頭を下げ、父への最大限の敬意を込めて、しかし譲れぬ決意を声に乗せた。
「父上。現在の武田の強さは、ひとえに父上という類まれなる大将の御威光と、諸将の熱き忠義によってのみ支えられております。されど、その情による結束は、戦線が延び、兵糧が尽き、苦境に立たされた時にこそ脆さを露呈します」
勝頼は顔を上げ、信玄の双眸を見つめ返した。
「今、二俣を落とした熱狂のままに西へ進めば、必ずや補給線が破綻し、軍は自重で崩壊いたしましょう。父上の絶大なる御威光が天下に鳴り響いている今のうちに、全軍の足を止め、銭の巡りを正し、何人たりとも逆らえぬ鋼の掟を領内に敷き直さねばなりませぬ。属人的な軍から、法で動く常備の軍へと脱皮せねば、いずれ織田の銭と鉄砲の波には呑まれまする」
信玄は、じっと息子の顔を見つめていた。
己の余命が幾ばくもないと悟っている老いた虎にとって、軍を停止するということは、自らの命が尽きる前に天下の覇を唱えるという長年の悲願を、完全に諦めることを意味していた。
「……四郎。そなたは、このわしに天下へ手を伸ばす天の時を見送り、ただ館で無為に時を過ごせと言うのか」
信玄の掠れた、しかし重い声が、広間の空気をびりびりと震わせた。そこには、死への恐怖と、為政者としての強烈な執念が入り混じっていた。
「父上。天の時とは、万全の準備を終え、盤石の理を敷いた者が、自らの手で創り出すものにございます」
勝頼は、一歩も引かなかった。
「どうか、この四郎に少なくとも半年、時間を預けていただきたい。この甲斐の地を、日ノ本という島国が一度も目にしたことのない、揺るぎなき絶対の法治国家へと根底から造り替えてご覧に入れます。それこそが、父上の御名を永遠に残す唯一の道と信じまする」
勝頼から放たれた宣言は、広間に残っていた祝杯の余韻を完全に消し去り、代わって逃れることのできない新たな時代の足音を、躑躅ヶ崎館に深く刻み始めた。




